詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ラデュ・ミヘイレアニュ監督「オーケストラ!」(★★★+★★)

2010-05-01 20:47:12 | 映画
監督 ラデュ・ミヘイレアニュ 出演 アレクセイ・グシュコブ、メラニー・ロラン、フランソワ・ベルレアン

 私はこの映画を2010年5月1日(土曜日)、福岡市のKBCシネマで、14時40分からの回を見た。映画だからどこで何時に見ようと同じようだが、実は、違う。そこに、映画のおもしろさがある。
 KBCシネマにはふたつの劇場があり、「オーケストラ!」は 120席の「1」の方で上映された。私は上映の30分前、14時10分すぎに入ったのだが、すでに客が大勢いた。チケット購入時に整理券が配られたが、私の番号は86番だった。すでに85人が待っているのだ。これは福岡市の映画館では珍しい。 120席はあっというまに埋まり、補助席まで出された。それも埋まってしまった。映画がはじまるとき、映画館は超満員だったのだ。
 満員だと、映画がまるで違った「生き物」になる。
 この映画のなかに、コンサートについて(音楽について)語られる部分がある。主人公の指揮者が「楽器にはそれぞれの音がある。そして、その一つ一つの音はハーモニーを求め合って音楽になる。ひとつになる」というようなことを語る。
 それがこの映画のクライマックスで、そのまま映像化される。
 音楽から離れていた「ボリショイ」の仲間たち。いきなり本番。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。音がそろわない。客席から失笑さえ漏れる。ところが、ソリストがバイオリンを弾きはじめると、団員たちの顔つきがかわる。その音。それはかつて彼らの仲間だったバイオリニストの音とそっくり。その音にひきこまれる。そして、ばらばらだった音がハーモニーを奏ではじめる。
 ソリストがびっくりする。指揮者もびっくりするし、ひいている他の楽団員もびっくりする。感動する。感動しながら、一気に音がかけだす。この世から離れて、まるで天へ駆け上るように。こんな音が、こんなハーモニーが存在しえるのか、という具合に。
 このとき。
 映画館が、映画館の 120人を超す観客が、その音楽のように「ひとつ」になる。感動のハーモニーを共有する。いや、ハーモニーを演奏しはじめるのである。私はとなりの左となりの男を知らない。右となりの女も知らない。前の席に坐っているひとが誰かも知らない。知っているひとはだれもいない。(もしかすると、偶然知り合いが同じ映画を見ているかもしれないけれど……。)知らない人間が、いま、同じスクリーンを見て、同じ音を見て、そこで、いままで会ったことのない何かに会っている。
 体がふるえてしまう。
 映画では、ソリストは、その曲を弾くことで、記憶にない父とバイオリニストだった母、シベリアに追放され、死んでしまった父と母に出会う。その曲のなか、その音のなか、そして彼女の音を抱き抱える団員のさまざまな楽器のハーモニーにいだかれながら、母の体験したことがらすべてに出会うのだが、その喜びが、スクリーンからあふれてくる。そして、そのあふれてきたものを観客の全員が受け止める。
 ああ、そうすると、そのあふれてきたものは、観客に受け止められて減るのではない。観客が多いと、ひとりあたりの受け止めるものが減るのではない。逆なのだ。観客が、スクリーンからあふれてくるものを受け止めれば受け止めるほど、それはさらにあふれ、観客のなかからもあふれだしてしまう。どっぷりお溺れてしまう。
 観客が少ないと、こういうことは起きない

 映画館はいいなあ。ほんとうにそう思う。いっしょにこの映画を見た 120人+αのみなさん、ありがとう。





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ヤン・イクチュン監督「息もできない」(★★★★★)

2010-05-01 00:31:27 | 映画
監督・製作・脚本・編集・出演 ヤン・イクチュン、出演 キム・コッピ

 大傑作。「長江哀歌」を見たときは10年に1本の映画だと思ったが、これもまた10年に 1本の映画。すると、10年に2本の映画になってしまう。私の書いてきたことは「うそ」になってしまう。
 だから、書き直そう。
 「長江哀歌」が「もの」の静かないのちを描いていた「10年に1本」。「息もできない」は「肉体」のあらあらしいいのちを描いた「10年に1本」。そういう違いがある。そういわなければならないほどの大きな違いがある。
 人間が生きていくとき、「もの」と向き合う。また「人間」とも向き合う。
 「長江哀歌」は「もの」としっかり向き合っている。たとえばテーブル。テーブルで食事をする。食事が終わったらテーブルを拭く。そういうことが積み重なって、無地の木肌が艶をもつ。そこに美がうまれる。また、そのテーブルが壁際にくっついているときは、テーブルを拭く布巾が同時に壁をこする。そうすると壁に静かな汚れ(くすみ)が残る。積み重なって、静かな「時間」の美になる。時間は、もののなかで、「汚れ」という美を生み出す。「汚れ」に見えるものの奥には、「いのち」の連続、暮らしの積み重ねがある。それを丁寧に、静かに、「長江哀歌」は語っていた。
 「息もできない」は、なによりも「肉体」のいのちを描く。
 人間のいのちは「肉体」の形をとってあらわれる。そのなかには「時間」ではなく「血」が流れている。「血」はやっかいである。「血」は「肉体」の外に流れだしてしまえば、「肉体」は死んでしまう。人間は死んでしまうからである。「血」を内部にかかえつづけて、人間は生きなければならない。それは父と母を内部にかかえて生きていかなければならないということである。
 父と母とはひとりではなく、ふたりの人間である。そのふたりのあいだからうまれた子どもはひとりでありながら、ふたりの「血」をもっている。それが人間を複雑にする。「血」が「肉体」のなかで、父と母の喧嘩のように対立する。それをどうしていいのか、たとえば主人公の男はわからない。わからないから、「血」をなだめるために暴力を振るう。制御できない悲しみが「血」を刺激し、その刺激がひきおこすものをどうしていいかわからないまま、暴力を振るう。
 その瞬間、男は父であり、母である。男はしっかりと殴られる人間を見ている。それは父が母を殴ったとき、母を見つめている目である。暴力を振るう主体として男がいて、殴られる人間が別にいるために、男は父の暴力的な「血」だけを引き継いで生きているような印象があるかもしれないけれど、男は目で、その他人に危害をくわえることのできない「肉体」で、母を見ている。そして、殴られる母をも生きているのである。
 父と母--そのふたりの「血」を内部にかかえて生きるには、男には、それしかないのである。
 最後、やさしさを取り戻し、やくざから足を洗おうと決めた男が、借金取り立てに行った先で幼い子ども(ちょうど彼自身がそうであったように男と女のきょうだい)を見る。そのとき、男は、暴力を振るいつづけた父ではなくなっている。その変化は、部下のチンピラの神経を逆撫でし、彼によって叩き殺されることになる。そのとき、その男の「肉体」から血が流れる。血が男の顔を汚していく。血を流してしまうことによって、男とは「人間」の温かさを生き、同時に死んでしまう。
 この矛盾。
 死なないことには、男は生きられないのである。
 死んでしまって、そのあと、男は、彼がであったすべての人間のなかで、見えない「血」となって、流れる。それは、生きている人間の「血」、いま生き残っている人間の「肉体」のなかの、父と母の「血」を、おだやかになだめる力となって、流れる。焼き肉屋の楽しい登場人物たちの団欒は、そのことを雄弁に語っている。

 あ、もうひとりの主人公女子高校生のことについて書かないうちに、ラストというか男の「いのち」を書き終えてしまったが……。
 男が父の生きかたを「肉体」で反芻してとしたら、女子高校生は母の生きかたを「肉体」で反芻している。殴られても、常にいっしょにいつづけた母--その不思議な謎を「肉体」で反芻している。なぜ、暴力を振るう父から逃げないのか。なぜ、ひとりで生きていかないのか。なぜ、殺されなければならないのか。殺されることが、母、なのか。
 男が他人を殴りつづけながら、その殴られている人間に母を見たように、少女は殴られている人間の側から殴る人間を見ている。そのとき、少女は見ることによって、他人を殴る。他人に抵抗するのである。実際の母は、殴る父を見なかったかもしれない。自分の肉体を守るために、体を丸くして、とても父を見ることはできなかったかもしれない。だからこそ、少女は、その母のかわりに、しっかりと相手を見る。
 男と少女の出会い。そこに、その瞬間がよくでている。
 少女は目をそらさない。やくざの男にひるまない。しっかりと、目を見つめる。怒りをあらわす。少女は肉体でも多少は殴りかかっているが、それよりももっと激しく、目で男を殴っているのである。
 男は手と足で少女を殴る。そして殴られる少女を目で見る。少女は殴られながら、目で男を殴り返す。体全体で男の暴力を受け止めながら、目で反撃する。そうしながら、男の「肉体」から「血」が流れ出てしまわないように、それを守っているようでもある。
 途中、男が少女に甘えるように「どうやって生きていけばいいんだろう」と訪ねるシーンがある。そしてふたりとも泣きだしてしまう。
 「血」を流すとき人間は死んでしまうが、「涙」を流すとき人間はしっかりと生きはじめるのである。これは、とても美しいシーンだ。 100年に一度の感動的なシーンである。ふたりは何も語らず、ただ泣くのだが、そのときの「泣く」は、赤ん坊がうまれてきたときに「泣く」としっかり重なり合う。いのちが誕生するとき、その誕生の宣言に、人間は泣くのだと思った。

 この映画は、手持ちに金がないのなら、銀行で金を下ろしてでも見るべき映画である。2010年のベスト1は、これに決まり。ほかはありえない。ぜひ、見てください--ではなく、ぜひ、見なさい。絶対に、見なさい。
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竹田朔歩『鳥が啼くか π』(2)

2010-05-01 00:00:00 | 詩集
竹田朔歩『鳥が啼くか π』(2)(書肆山田、2010年04月05日発行)

 竹田朔歩のことばは、私には、女のことばとして響いて来ない。もしかすると私が女っぽ過ぎるのかもしれない。竹田に男を感じてしまう。

予感の河は 増殖しつづけ 重力によって 時がたわみ
この身がここに在るから 非在の熱にうかされ
アフリカの国境線はだれが引いたのだろうか

知ることは はげしく非であり
聴くことは   両刃の五感なのだ

 「わが懐妊 鷲が目撃したあと」の部分だが、ここに書かれていることばと「肉体」の関係が私にはわからない。竹田にとって、ことばは、肉体とは別のところにあるのかもしれない。--そして、私が「男」を感じるのは、それが男の書いたものであれ、女が書いたものであれ、そういう瞬間である。
 肉体の不在。肉体がなくても、ことばは存在する。
 --こういう「哲学」がどこからやってきたのか、あるいはどうやって生まれてきたのか、私にはまったくわからないのだが、そういうものの前で私は、なんとなく拒絶された感じを持ってしまう。ことばから、というよりも、そういうことばを動かすひとから拒絶されたと感じてしまう。
 そういう拒絶をいやだなあと感じてしまうのは、私が女っぽいせいなのか、それとも私のなかの男っぽさが対抗意識をもつためなのか--それが私には、よくわからない。
 そして、矛盾したことを書いてしまうようだけれど、そうした竹田のことばに一種のいやなものを感じながら、私は、またある部分で竹田のことばに惹かれもする。

 少し視点をかえて、私の考えていることを整理し直してみる。

 どうして、竹田の書いているようなことばが存在するのか。肉体とは無縁なことばが存在するのか--そう考えたとき、私は、いつものようにというか、とんでもない「誤読」へ突き進んでしまう。
 竹田のことばは、その「意味」のうえでは肉体とは結びつかない。けれど、どんなことばでも必ず肉体を通らないと存在しない。
 「聴くことは」と竹田は書いているが、その「聴く」。聴覚。音。ことばは、ことばになるとき、「音」とともにある。耳、喉に障害があり、音を獲得したり、発声したりできないひとにとって、それではことばは存在しないのか--と、問われてしまうと、私は答えようがないのだが、私にとっては、ことばと肉体は、どんなときでも「音」を媒介にして接触する。黙読し、声に出さない場合でも、音が必ず存在している。そして、声をださなくても、肉体の内部で喉が動いている。本を読むと、私は喉が枯れる。水が飲みたくなる。
 そして、竹田のことばは、「意味」としては肉体と結びつかないが、「音」としては私の肉体ととてもよくなじむ。「音」そのものは肉体をとおってきている、と実感できる。竹田は、ことばを「音」として把握している--と感じることができる。同時にまた、その「音」を「視」(力)に瞬時の内にかえている。「音」を「文字」にかえている、ということを感じる。「音」が肉体をとおることによって、耳だけではなく、目も通過し(五感は人間の肉体のなかで結びついているからね)、「音」から「文字」にかわる。
 「増殖」「重力」「非在」「非」。そして「知」。竹田は「知る」と書いているが、「知ることは はげしい非である」という1行を読むと、その行では「知(ち)」と「非(ひ)」が独立して響きあっているのを感じてしまうのである。
 竹田にとって、ことばとは「音」であり、「文字」なのだ。ことばを「音」から「文字」にかえるために、「肉体」が存在している。
 そこには、たしかに、「肉体」がある。
 あ、このことば、音、文字、肉体の関係は、うーん、見当で言ってしまうが「禅」の精神に通じているように、私には思える。
 竹田には『サム・フランシスのにんま』(にんま、というのは感じで書かれているが、ワープロでは出てこないので、ひらがなにした)という詩集がある。その「にんま」というのは、聞きかじり私の「知識」(実感ではない)では、たしか「禅」のことばである。禅宗のお坊さんが、その、わけのわからないことばを話していたのを聞いたことがある。意味を聞いたが、禅のことなので、ことばにはならない。

 で、(と、突然、話をもとに戻すのだが)そうした「禅」の「肉体」とことばの関係のようなもの、そのあり方に私はなんとなく惹かれるものを感じる。禅など勉強したことがないし、何年か前に、お坊さんに聞いたことをちょっと思い出すくらいなのだが、きっとそういう「精神」は日本人の肉体のなかにひそんでいて、それが共鳴する。
 竹田の肉体と私の肉体は、そういう部分でなにか共鳴する。そこに惹かれるのだと思う。

 あ、なんだか、わけのわからないことを書いているなあ--と思うけれど、まあ、私の書いているのは「日記」だからね。思いつくまま、だからね。そう思って、もう少しおつきあいしてね。(もう少し、「でたらめ」を書きます、という意味です。)

 「わが懐妊 鷲が目撃したあと」の冒頭。

サクサクと
茂れる夜には
ふ・う・せ・ん・と・う・わ・たが 潜んでいる

この身がここに在るから 非在の
うすみどりの 魚卵を
やわらかい 水のヴェールでくるんで

言葉という身体を 生のまま のみ込んでいこうとする
生き物を 遡る

 私は、この部分がとても好きだ。
 「ふ・う・せ・ん・と・う・わ・た」とは竹田の注釈によれば「フウセントウワタ」であり、アフリカ原産の木。柳葉、白い花。実は丸くてやわらかい。その「フウセントウワタ」をまず「音」そのものとして竹田の肉体はのみこんでいる。「意味」を重視するなら、「フウセントウワタ」は「フウセン(やわらかい)」「トウ(もつ)」「ワタ(実)」かもしれない。(あ、直訳日本語はでたらめに書いている部分だから、信じちゃダメだよ。)けれど、そういう「意味」ではなく、「音」そのものとして、しかも「ひらがな」の音として肉体に取り込む。
 そうすると、ここに在る「白い?やわらかい実」が、ここに非在の「うすみどりの」「やわらかい」「魚卵」となって見えてくる。「言葉という身体」(ことばの身体--その音の響き、と私は、強引に「誤読」する)が「私」という「人間」の「肉体」のなかを通過するとき、それは「耳」だけではなく、目を刺激する。そして、その記憶が形となって見えてくる。
 その変化。
 その変化は、まだ形の定まっていない「いのち」そのものを源流にふれて起きることである。何も形がきまっていないどこか(それこそ非在でありながら、存在している場)をとおって、「形」を生み出す。「意味」を生み出す。
 その生み出すという運動。
 竹田のことばは、私には、そういう運動に感じられる。そういう感じが伝わってくる部分に、私はとても強く惹きつけられる。

 でもね。と、私は、やっぱり書いてしまう。こういうことばの運動というのは、私には、どうも男の専売特許のような感じがするのだ。男はなんといっても子どもを産むことができない。男が産めるのは、ことばだけなんだなあ。「禅」というのは、「いのち」そのものを産めない男がつくりだした、世界の「出産装置」という感じがする。
 そういう「男の専売特許」にまで女性が進出しはじめている。その先頭を切っているのが竹田ということなのかもしれないけれど、うーん、女っぽくないなあ。



サム・フランシスの恁麼
竹田 朔歩
書肆山田

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