監督 ラデュ・ミヘイレアニュ 出演 アレクセイ・グシュコブ、メラニー・ロラン、フランソワ・ベルレアン
私はこの映画を2010年5月1日(土曜日)、福岡市のKBCシネマで、14時40分からの回を見た。映画だからどこで何時に見ようと同じようだが、実は、違う。そこに、映画のおもしろさがある。
KBCシネマにはふたつの劇場があり、「オーケストラ!」は 120席の「1」の方で上映された。私は上映の30分前、14時10分すぎに入ったのだが、すでに客が大勢いた。チケット購入時に整理券が配られたが、私の番号は86番だった。すでに85人が待っているのだ。これは福岡市の映画館では珍しい。 120席はあっというまに埋まり、補助席まで出された。それも埋まってしまった。映画がはじまるとき、映画館は超満員だったのだ。
満員だと、映画がまるで違った「生き物」になる。
この映画のなかに、コンサートについて(音楽について)語られる部分がある。主人公の指揮者が「楽器にはそれぞれの音がある。そして、その一つ一つの音はハーモニーを求め合って音楽になる。ひとつになる」というようなことを語る。
それがこの映画のクライマックスで、そのまま映像化される。
音楽から離れていた「ボリショイ」の仲間たち。いきなり本番。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。音がそろわない。客席から失笑さえ漏れる。ところが、ソリストがバイオリンを弾きはじめると、団員たちの顔つきがかわる。その音。それはかつて彼らの仲間だったバイオリニストの音とそっくり。その音にひきこまれる。そして、ばらばらだった音がハーモニーを奏ではじめる。
ソリストがびっくりする。指揮者もびっくりするし、ひいている他の楽団員もびっくりする。感動する。感動しながら、一気に音がかけだす。この世から離れて、まるで天へ駆け上るように。こんな音が、こんなハーモニーが存在しえるのか、という具合に。
このとき。
映画館が、映画館の 120人を超す観客が、その音楽のように「ひとつ」になる。感動のハーモニーを共有する。いや、ハーモニーを演奏しはじめるのである。私はとなりの左となりの男を知らない。右となりの女も知らない。前の席に坐っているひとが誰かも知らない。知っているひとはだれもいない。(もしかすると、偶然知り合いが同じ映画を見ているかもしれないけれど……。)知らない人間が、いま、同じスクリーンを見て、同じ音を見て、そこで、いままで会ったことのない何かに会っている。
体がふるえてしまう。
映画では、ソリストは、その曲を弾くことで、記憶にない父とバイオリニストだった母、シベリアに追放され、死んでしまった父と母に出会う。その曲のなか、その音のなか、そして彼女の音を抱き抱える団員のさまざまな楽器のハーモニーにいだかれながら、母の体験したことがらすべてに出会うのだが、その喜びが、スクリーンからあふれてくる。そして、そのあふれてきたものを観客の全員が受け止める。
ああ、そうすると、そのあふれてきたものは、観客に受け止められて減るのではない。観客が多いと、ひとりあたりの受け止めるものが減るのではない。逆なのだ。観客が、スクリーンからあふれてくるものを受け止めれば受け止めるほど、それはさらにあふれ、観客のなかからもあふれだしてしまう。どっぷりお溺れてしまう。
観客が少ないと、こういうことは起きない
映画館はいいなあ。ほんとうにそう思う。いっしょにこの映画を見た 120人+αのみなさん、ありがとう。
私はこの映画を2010年5月1日(土曜日)、福岡市のKBCシネマで、14時40分からの回を見た。映画だからどこで何時に見ようと同じようだが、実は、違う。そこに、映画のおもしろさがある。
KBCシネマにはふたつの劇場があり、「オーケストラ!」は 120席の「1」の方で上映された。私は上映の30分前、14時10分すぎに入ったのだが、すでに客が大勢いた。チケット購入時に整理券が配られたが、私の番号は86番だった。すでに85人が待っているのだ。これは福岡市の映画館では珍しい。 120席はあっというまに埋まり、補助席まで出された。それも埋まってしまった。映画がはじまるとき、映画館は超満員だったのだ。
満員だと、映画がまるで違った「生き物」になる。
この映画のなかに、コンサートについて(音楽について)語られる部分がある。主人公の指揮者が「楽器にはそれぞれの音がある。そして、その一つ一つの音はハーモニーを求め合って音楽になる。ひとつになる」というようなことを語る。
それがこの映画のクライマックスで、そのまま映像化される。
音楽から離れていた「ボリショイ」の仲間たち。いきなり本番。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。音がそろわない。客席から失笑さえ漏れる。ところが、ソリストがバイオリンを弾きはじめると、団員たちの顔つきがかわる。その音。それはかつて彼らの仲間だったバイオリニストの音とそっくり。その音にひきこまれる。そして、ばらばらだった音がハーモニーを奏ではじめる。
ソリストがびっくりする。指揮者もびっくりするし、ひいている他の楽団員もびっくりする。感動する。感動しながら、一気に音がかけだす。この世から離れて、まるで天へ駆け上るように。こんな音が、こんなハーモニーが存在しえるのか、という具合に。
このとき。
映画館が、映画館の 120人を超す観客が、その音楽のように「ひとつ」になる。感動のハーモニーを共有する。いや、ハーモニーを演奏しはじめるのである。私はとなりの左となりの男を知らない。右となりの女も知らない。前の席に坐っているひとが誰かも知らない。知っているひとはだれもいない。(もしかすると、偶然知り合いが同じ映画を見ているかもしれないけれど……。)知らない人間が、いま、同じスクリーンを見て、同じ音を見て、そこで、いままで会ったことのない何かに会っている。
体がふるえてしまう。
映画では、ソリストは、その曲を弾くことで、記憶にない父とバイオリニストだった母、シベリアに追放され、死んでしまった父と母に出会う。その曲のなか、その音のなか、そして彼女の音を抱き抱える団員のさまざまな楽器のハーモニーにいだかれながら、母の体験したことがらすべてに出会うのだが、その喜びが、スクリーンからあふれてくる。そして、そのあふれてきたものを観客の全員が受け止める。
ああ、そうすると、そのあふれてきたものは、観客に受け止められて減るのではない。観客が多いと、ひとりあたりの受け止めるものが減るのではない。逆なのだ。観客が、スクリーンからあふれてくるものを受け止めれば受け止めるほど、それはさらにあふれ、観客のなかからもあふれだしてしまう。どっぷりお溺れてしまう。
観客が少ないと、こういうことは起きない
映画館はいいなあ。ほんとうにそう思う。いっしょにこの映画を見た 120人+αのみなさん、ありがとう。
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