詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「心の色」

2010-05-10 18:40:02 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「心の色」(朝日新聞2010年05月10日夕刊)

 谷川俊太郎「心の色」は、とても不思議な詩である。

食べたいしたい眠りたい
カラダは三原色なみに単純だ
でもそこにココロが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

その色がだんだん褪(あ)せて
滲(にじ)んで落ちてかすれて消えて
ココロはカラダと一緒に
もうモノクロの記念写真

いっそもう一度
まっさらにしてみたい
白いココロに墨痕淋漓(りんり)
でっかい丸を描いてみたい

 1連目。「多様な色合い」の、その色はどこにあるのだろう。どこに、あらわれてきているのだろう。
 カラダ? ココロ?
 食べたい(食欲)したい(性欲)眠りたい(睡眠欲)。それは、だいたいカラダの欲望? 「……(し)たい」というのは、ココロとは無関係?
 なんだか、変だね。
 「多様な色合い」というのは、カラダとココロが一体になった「人間」というものにあらわれてくる。--谷川は、そういうことを言いたいのかもしれない。
 でも。
 カラダ、ココロは分けることができない。
 一方で、分離できないものなのに、ことばはそれを分離して書きあらわすことができる。そして、そうやって分離できないものを分離してしまったことばは、ことば自身の論理というか運動の法則に従って動いていくので、ときどきわけのわからないものを書いてしまう。ことばにしてしまう。ことばが生まれてしまう。この生まれてしまったことばが詩である。
 ことばでしかたどりつけないものが、ことばといっしょに、そこに存在してしまう。それが、詩。

 多様な色合い

 これが、詩。
 だから、それがどこにあらわれてきたのか、と私が最初に書いた質問などは、詩からいちばん遠い、くだらない質問にすぎない。
 でもね、よくよく考えると、少し奇妙ではあるのだ。
 人間の肉体に付随した欲望が三つ、それを「三原色」と定義して、肉体に限定されない(?)ココロが思い描くさまざまなことをつけくわえると多様な色にある--このことばの論理(色の原理の説明)は、よく考えると、色の原則から言っても変である。
 あらゆる色は三原色の組み合わせ、その色の割合によってつくりだすことができる。
 でも、まあ、そんなことは、この作品ではどうでもいい。
 「多様な色合い」にまで動いて行ったことばは、さらに先へ進む。色の多様性には、ついさっき書いた三原色の組み合わせの割合の違いによって生まれる以外の「多様性」もある。

褪せて/滲んで落ちてかすれて消えて

 この変化がすごい。
 赤と青を50%ずつまぜれば紫。それが褪せれば何色? 滲めば何色? 落ちれば何色? かすすれば何色? そして消えてしまえば何色?
 このとき、私たちは「色」を見ない。「滲む」にはいろいろな意味合いがあって少し違うかもしれないが、色が褪せる、色が落ちる、色がかすれる、色が消える--そういうとき、私たちは(私は)、そこに「色」ではなく、「時間」を見てしまう。感じてしまう。
 あ、そして、その「時間」といえば、カラダにもココロにも影響してくる。時間とともに(時間がたつとともに)、カラダもココロも変わる。カラダの三原色に、ココロが加わるだけではなく、「時間」が加わるのだ。

 この「時間」をこそ、谷川は、ここでは書きたかったのだろうと思う。もっと言ってしまうなら「時間」への欲望。
 「時間欲」というようなことばは、たぶんない、ないと思うけれど、私はこの詩に「時間欲」を感じた。食欲(食べたい)性欲(したい)睡眠欲(眠りたい)のすべてを経験してきた人間に訪れる「時間欲」。
 それは

いっそもう一度
まっさらにしてみたい

 リセットしたい、という欲望だ。そのとき、「色」は何色?
 これが、ま、おもしろいねえ。
 「まっさら」は「真っ白」でもある。だから「白い」(無色)ココロに、と谷川が書くのは当然だよね。そして、そのあとの「墨痕」。これは、黒。なぜ、黒? なぜ無彩色?
 でも、「黒」は無彩色ではあっても、白とは違う。「黒」は三原色が同じ割合で混じるとき必然的に生まれる色。それは単なる無彩色ではなく、ほんとうは色の可能性のすべてが均等に混じり合っている色なのだ。だからこそ、

墨痕淋漓

 「淋漓」というのは、広辞苑によれば、①元気のあふれるさま。②水・血・汗などのしたたり落ちるさま。
 田原の詩に出会った以来、私は辞書を引くことが多くなった。そして、そこで「文字」に何度も出会う。
 谷川が意識をしているかどうかわからないけれど、この「淋漓」ということばの、「淋」はなぜか不思議な気持ちにさせる。元気にしたたっているのに、「淋しいのか」、孤独なのか……と考えたりしてしまうのだ。
 そして、もしかすると「孤独」というのは、「淋しい」よりも、リセット、まんたく新しい出発ということの方に力点が(重心が)置かれたことばなのかもしれない、というようなことを考えてしまう。
 誰にも影響を受けていない「まっさら」な時間、誕生の瞬間--誕生以前の誕生かもしれない。人間の誕生には、どうしたって父と母という人間が関係してくる。谷川はそういう「時間」を通り越して(突き破って)、もっとむこう、未生の時間からのリセットを思い描いているのだと思う。
 そして、その未生の時間のなかで、丸を描く。それは、黒がすべての色が凝縮した色、あらゆる色に変わりうる色(黒のなかから、何かの色が褪せて、滲んで、落ちて、かすれて、消えて--固有の色になる)であるように、丸は、あらゆる形が強い力で凝縮したものかもしれない。それは平面では丸(円)だが、空間のなかでは球になるだろう。その球を可能な限りでっかくすれば、それは宇宙になるだろう。

 谷川は、この詩では「褪せて/滲んで落ちてかすれて消えて」と、まるで老人の心境のようなことばを並べているけれど、それは「もう一度えまっさらにしてみたい」という欲望のなかで、エネルギーに満ちた「未生」に変わっている。
 あ、すごいなあ、と思う。

 「墨痕淋漓」というような、ちょっと現代人が思いつかないような、古い古い印象のことば、年寄りくさい(?)ことばを使いながら、谷川は年寄りとは無縁な、美しいいのちを描いているのだ。
 このはつらつさに、私は感動してしまう。


トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社

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八木幹夫「相模大野駅前変貌(短歌百首)」

2010-05-10 12:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「相模大野駅前変貌(短歌百首)」(「歴程」568 、2010年04月30日発行)

 八木幹夫「相模大野駅前変貌(短歌百首)」は「短歌」と書かれているけれど、短歌の形式を借りた百行詩である。
 「再開発」と小タイトルがついた部分の冒頭の1首。

駅西側再開発に揺るるかな人も心も建物までも

 下手くそである。私は短歌を書かない。そんな私がいうと変だが、下手くそである。ことばに奥行きがない。人と心は、同じ意味である。そんなものを並べられても困る。でも、八木はここに「心」ということばを使いたかったのだ。その使いたい気持ちを抑えきれないところが、下手くそである。
 そして、下手くそであるからこそ、これが短歌百首ではなく、百行詩になるのだ。
 一行一行に、書きたいことばを露骨に書いて、その露骨さを「短歌」ということばを隠れ蓑にして平然と動かしてしまう。もし、ほんとうに百行詩を書くなら絶対に書かないことばを、短歌百首という形を借りることで、書いてしまう。これは詩の一行ではなく、短歌だと装って書いてしまう。
 なんだか、ずるい。

それぞれの思惑秘めて商店街店主同士の朝のおはやう

 「朝のおはやう」なんて、笑ってしまうねえ。「昼のおはやう」「夜のおはやう」なんて、奇妙な業界のことばではあるまいし、「おはやう」は「朝」に決まっている。こんなことを、わざわざ八木は書いている。わざと書いている。
 そう、これは「下手くそ」を装ったことば、「短歌」の形式を借りて、わざと「下手」だけが出してしまえる、まっすぐなことばを、そのままの形で書き留めているのだ。
 「下手くそ」を利用して(八木は歌人ではなく、詩人であるということを利用して)、いままで使わなかったことばをつかっているのだ。

それぞれの思惑秘めて

 なんだか、あきれてしまうではないか。このことばにも。「それぞれ」「思惑」。あ、安直な、美しいことば。
 そうしておいて、3首目。

駅前の完成予想図見つめゐる老夫ら町の昔知るらし

 あ、突然、「短歌」になる。
 なんだか、憎らしいね。
 「短歌百首」、短歌を装った「百行詩」は、また、この町の住人の「百人一首」をも偽装しているかのようだ。いろんな「声」を、短歌という一行の詩の一行一行に閉じ込めようとしているかのようでもある。

開発は俺もお前も得するべだから何も言えねえじゃねえか
開発かはた反対か酔ふほどに本音出でけり夜更けの路地に
予想図を杖でさしゐたる老夫婦「四年後このよにまだいるかしら」

 詩でも、その一行一行が「他人」が書いたものであってもかまわないが、「百人一首」なら、それがもっと簡単。
 あ、そんなふうにして、八木は「相模大野駅前」の変貌を書くというより、そこに生きるひとの変貌そのものに侵入していくのだとも言える。街が変わる。そのとき変わるのは街の姿ではなく、ほんとうはそこで暮らすひとの姿なのである。そこで暮らすひとの「心」なのである。
 一行目(一首目)、「人も心も」と書かなければならない「理由」、わざと「人も心も」と書いた理由は、そこにある。

 うーん。私は、そんな八木の「思惑」に引き込まれて百行もことばを読みたくない。私は目が悪いのだ。こんなびっしりと一行が長い詩を、百行も読みたくない。
 で、この作品が百首を装った百行詩であることを承知の上で、私は、そこからあえて「短歌」を引き出して読みたい。

活きのよき魚斜めに切りそろふ白き大根みどりのパセリ

 「白き大根」と「みどりのパセリ」がとても美しい。ちょっと買いに行きたくなる。

へえおめえ中野の出なのオレ富津倉(ふづくら)津久井の湖(うみ)に沈みしところ

 「富津倉津久井の湖に沈みしところ」のことば、その音の動きがとても美しい。何度も何度もそのことばを繰り返したときにだけ獲得できる音の揺らぎの美しさ。ほかの言い方もできるはずである。けれど、何度も何度も自分のふるさとを語ってきた--そういう人間の「望郷」が響いてくる美しい揺らぎだ。
 「酔客望郷」という小タイトルの冒頭の一首だが、彼には、その村を沈めた「水」そのもの、「水」のかたまり(水の量)そのものが見えるのかもしれない。その「水」をくぐって、もぐって、ことばは、湖底の道を歩くのだ。
 いいなあ、これは。

垂直にペニス大地とまぐわえり重機に新潟商事とありぬ

 「新潟商事」の「他者性」がいい。まぐわる、性交する--そのとき、他者は他者ではなくなる。そこに、ふいに出現するかなしみ。
 街が再開発されるとき、暮らすひとは、被害者であり、加害者である。どちらか一方でいることはできない。

 最後の一首。

もものはなももとせさいてももいろにこのよのひとをほほえましめよ

 「ほほえみ」が「ももいろ」に輝くように感じられる。
 何があっても、そこに生きるひとを愛する--そういう「心」が最後にほうりだされている。
 百行、百人の思い(心)を書きつらねて(そのなかには、「ひとり」の変奏も含まれているのだけれど、まあ、人間は、毎日毎日、「他人」に生まれ変わっていくもの、と考えれば、そういう「変奏されたひとり」もまた「他人」である)、最後にすべてを祝福する。
 終わりの一首--長歌と向き合っている返歌のようで、この歌も好きだなあ。




八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社

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小池昌代『コルカタ』(5)

2010-05-10 00:00:00 | 詩集
小池昌代『コルカタ』(5)(思潮社、2010年03月15日発行)

 「音」「声」。そして「名前」。「名前」が「声」になって「肉体」の外にひきだされるとき、そこで「人間」と「人間」は出会う。出会わずにはいられない。
 「米」という作品。

地面のうえに 布を ひろげたら
そこが 学校 路上学校
誰かが「宣言」したわけでじゃない
河が流れるように
教えることが
教わることが 始まっていく
その始まりに 目を見張っていると
    まるじーな
 れか まりっく まりっく
まくそーる
            ふぁてぃま
まさよ

ノートブックに みんなの 名前を書いてもらう
出席簿のかわり
そこに 混ざっている わたしの名前
わたし も いる ここに
カンジ カタカナ ローマ字 デーヴァナーガリー文字
からすが きて ノートの上に ふんを落とす

誰が来てもよいので
雨の日以外 ここには 誰かが いつもいますから

 小池がいま見つめているのは「文字」であるが、それは「文字」ではあっても、「音」をもっている。「声」に出さなくても響く「音」をもっている。視線が「文字」を見れば、声帯は動くのである。
 「誰が来てもよい」とは「どんな名前であってもよい」と同じ意味である。だから、小池も「まさよ」という「音」になって、そこにいる。そこで「声」を学ぶのだ。ひとは、どんなふうに「声」を出すのかを。

 そういう「肉体」の「声」を聞くと同時に、小池はまた、「肉体」を超えた「声」とも出会っている。「怒る女」に、別の「声」が書かれている。

ほら これが 怒りから生まれた女神カーリーだよ
破壊する 死の力
コルカタの 迷い込んだ路地で見たものは
旦那のシヴァを 柱のような足でふみつけ
舌を 思いっきり 突き出している女神像だった
犠牲となる生血を求めているのだというけれど
路地のほこりを まきあげながら
そのときわたしは
透明な雷が
ごろごろと
東方へころがっていくのを見た

 「舌を 思いっきり 突き出している」。このとき、「声」はことばになっていない。ことばが、ない。(舌を思いっきり突き出せば、声は出せない。ことばは言えない。)ことばを、「声」を超越した「音」だけがある。それが「怒り」だ。
「声」を超越しているから、そこには明確な「意味」はない。「犠牲となる生血を求めている」というふうに「意味」は語られることがあっても、それは「伝聞」でしかない。誰もほんとうにそれを聞いてはいない。小池が聞くのは「透明な雷」の「ごろごろ」。いや、聞くのではない。「透明な雷が/ごろごろと/東方へころがっていくのを見た」。それは「見る」のである。
 そして、その「見る」には、ノートに書かれた「文字」とは違って、人間になじむ「音」「声」がない。

 「意味」のない「音」。「意味」がないけれど、「意味」がわかる「音」に、きのう読んだ「産声」がある。
 神の怒りの「音」にも「意味」がない。「意味」がないけれど、それは「わかる」。ただし、それは「聞いて」わかるのではなく、「見て」わかるのだ。
 「産声」は聞いてわかる。「怒り」は見てわかる。

 「声」(音)には、そんな違いもあるのだ。

 小池は、インドで、そんなふうにいろいろな「声」を聞く。そして、ときどき、とても変な「声」、独特な「声」で、インドの「声」と「和音」をつくる。インドの「音」に反応して、とても不思議な「音」を繰り広げる。
 「怒る女」のつづき。

もし わたしが
怒りを妊娠したら
いつか みずみずしい
真っ赤なスイカを産むだろう
股のあいだを血で染めながら

 これは何だろう。
 小池はインドの「音」に反応して、とても不思議な「音」を繰り広げる。--私は、そう書いたが、ここには「音」はない。「声」がない。
 そのかわり「声帯」だの「喉」「口蓋」「鼻腔」「舌」を統合した「肉体」がある。小池は、そして「口」のかわりに、「股のあいだ」から「声」(怒り)を発するのだと書いている。
 それは、すべてを「肉体」そのもので呑み込み、融合させ、「肉体」からは異質なものを「生み出す」ということかもしれない。

 よくわからない。そして、よくわからないからこそ、あ、小池はここではほんとうのことを書いていると感じる。
 いままでのことばの延長では言えない何かを書いているのだと感じる。
 カンチに出会い、いっしょに泣いて、産声をあげて生まれかわったから、もういままでの小池とは違ったものを生み出せる「女神」になっているのかもしれない。



 あ、きょうの「日記」は書く順序をかえるべきだったかもしれない。詩集の構成順序に従えば「タオヤカ」があって「怒る女」があって、それからすこし別の詩をはさんで「米」がある。
 小池は泣くことで生まれ変わり、神の怒りの声を独特な形で吸収し、そのあと子どもたちと名前を確認しあっている。ふたたび「人間」の「声」に触れて、なにごとかを「肉体」に取り戻しているのだから。
 しかし、私は「米」から先に書きたかったのだ。小池の旅を先回りしてしまうことになったが、「カオヤカ」でカンチに出会い、そこで「声」そのものを取り戻す形で生まれ変わったあと、小池は誰とどんな声をあわせたのか--それを先に書いて幸福を味わいたかった。幸福になりたかった。

わたし も いる ここにいる

 その喜び。それは「まさよ」という名前を「声」に出し、その「声」を聞き取って、誰かが(たとえば路上の学校の子どもたちが)「声」に出すとき、ひとつの世界になるのだ。
 そのとき小池は「女神」ではないかもしれない。けれど、それは「女神」ではない、「人間」の喜びである。その喜びのなかに、小池は生まれ変わった--「タオヤカ」を読み、「米」にいたると、その印象が非常に強い。

 いままで、もしかすると、小池は「わたし も いる ここにいる」とは違った人間だったかもしれない。わたし「も」いる、ではなく、わたし「は」(が)いる、というのが小池の世界だったかもしれない。
 けれど、インドを旅行して、小池は、わたし「は」いる、ではなく、わたし「も」いる、という「声」を出す人間に生まれ変わっている--そう、私は感じたのだ。





感光生活 (ちくま文庫)
小池 昌代
筑摩書房

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