詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

相生葉留実『海へ帰る』

2010-05-24 12:12:12 | その他(音楽、小説etc)
相生葉留実『海へ帰る』(ふらんす堂、2010年03月21日発行)

 相生葉留実『海へ帰る』は句集である。私は、俳句は門外漢である。たぶん、私の感想はトンチンカンなものだろう。
 気持ちのいい句がたくさんある。

雲も水も旅をしてをり花筏

 「も」には当然、「私」もふくまれるのだろう。そして、というのもちょっと変だけれど、このときの「私」は「雲」と「水」と、どっちの方に、より寄り添っているのだろう。わからなくなるが、そのわからなさのなかに、「雲」ももちろん「水」からできているという考えがふと割り込んできて、あ、相生は、雲と水とを同じものと感じていたのかも、と思う。天と地にあるもの。かけ離れたもの。違って見えるもの--けれども、それは「同じもの」でもある。その「同じもの」に「私」が自然に融合していく感じがする。相生は、何か、「私」意外なものに、すーっと融合していき、一体感をもって世界を見渡す。そのとき、世界がおだやかに変化する。そういう世界を描いていると思う。

長旅の川いま海へ大晦日

 「雲も水も」の旅は、いますべての「水」の「母」である「海」へ帰っていく。「海」には「水」(サンズイ)と「人」と「母」がいると言ったのは誰だったろうか。
 そのとき、長い長い旅のおわりに水が海にたどりついたとき、その水が浮かべていた、たとえば「花筏」はなんだったのだろう。不思議な出会い。出会いの中での美しさというよろこび。それが、静かに記憶として「長い」時間を飾ってくれるに違いない。さまざまな出会い、美しさの発見、そういうことを繰り返しながら、でも最後は「起源」である水そのものへ、その「母」である「海」へ帰る。
 相生がみつめているやすらぎが、そのなかに見える。

まくなぎに出口入口ありにけり

 もし一句だけ選ばなければならないとしたら、私はこの句にするかもしれない。「雲も水も」や「長旅の」に比べると、美しい感慨というものがあるわけではないが、その美しくないところ(?)に、「いのち」のとまどいとよろこびがある。
 どんなものにも出口、入り口がある。出口は入り口であり、入り口が出口である。ひとが(私が)それを出口と呼ぶとき、それは出口。入り口と呼ぶとき入り口。
 もし、そうであるなら、ひとはあるものを「雲」と呼ぶなら、そのとき「雲」。「水」と呼ぶなら、そのとき「水」。「長旅」と呼ぶなら、そのとき「長旅」。すべては、ひとの思いといっしょになって、世界そのものとして目の前にあらわれてくる。
 そういう一種の「事件」を相生は「ありにけり」とすっぱり言い切る。この「ありにけり」は、有無を言わせない力がある。とてもいい。
 先に書いたことを繰り返すことになるが、私の感覚では、人が「水」というとき、それが「水」に「なる」のだが、相生は、「なる」とはいわない。「ある」というのだ。この「ある」の力がすごい、と思う。
 「ある」の世界の中で、ひとは「なる」を繰り返しているのだが、その「なる」はいつか「ある」にならなければならない。「ある」に到達しなければならない。相生は、到達している。そう感じた。

 ほかにもおもしろい句がたくさんある。思いつくまま、違った印象が残る句をあげると、

鳥帰るほんとに帰つてしまひけり
花木槿夕方までに書く手紙
ゆび頬に弥勒菩薩の秋思かな 

 水が登場する句は、たいがいがおもしろい。

春の水まがりやすくてつやめける
芹摘めば水拡がつて流れけり
さざなみの風にうまれて一枚田
田植水鳥のくちばし撫でてをり

句集 海へ帰る
相生 葉留実
ふらんす堂

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(9)

2010-05-24 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(9)(思潮社、2010年04月01日発行)

 ことばは誰のものだろう。書いたひとは(話したひとは)、書いたひとのもの(話したひとのもの)というだろう。それはもちろんそうなのだが、そのことばを読んだひとがどんなふうに動かしていくかを、書いたひとは決定できない。もちろん、他人が自分の書いたことばをかってにつかっているのを読んだならば、書いたひとはそれについて抗議はできる。抗議はできるが、それでも誰かがかって動かしていくというそのこと自体は止めることができない。
 たとえば、この文章。私は北川の詩を引用し、そのことばをかってに動かしている。そのことばの「意味」(?)だとか、有効性(というか、射程というか……)などについて、かってに私の考えを書いている。考えにもなっていない、思いつき、ただのぐだぐだを書いている。それに対して、北川は「私はそんなことは書いていない。谷内の誤読だ」と抗議し、批判することはできる。できるけれど、それは、もう私のことばが動いたあとであり、動いてしまったものをもとにもどすことはできない。また、北川が何といおうが、私はそれを無視して私のことばを動かしつづけることもできる。北川はこう書いているけれど、私はそのことばを、こんなふうに動かしてみたと、さらに書きつづけることを北川は止めることができない。
 そうすると、北川のことばは、北川のことばであっても、もう北川だけのものではない。まあ、もちろん、だからといって、それが私のもの(谷内のもの)ではないのだけれど……。そして、私のものではないのだけれど、私が北川のことばを私なりに動かしていかない限り、それは北川のことばにもなりえないと思う。少なくとも、私にとっては、北川のことばは、それを私がかってに「誤読」し、ねじまげ、動かしていかない限り、北川のことばではない。かってに動かしていくとき、「誤読」に「誤読」を重ねていくとき、私にとって北川がはじめて姿をあらわす。北川がはじめて北川になる。「誤読」しないかぎり、それは、ただ紙に印刷された「活字」にすぎない。
 --これは乱暴すぎる飛躍になるかもしれないが、北川もまた私と同様「誤読」によって他人のことばを北川自身のものにすることで、他人と出会う。そこで、北川の「誤読」と闘いながら、いつまでもいつまでも生き続けている「他人」を知り、さらに「誤読」をつづけるためにことばを動かす。私には、北川は、そんな詩人に思える。(それがすべてではないが、そういうことをしている詩人に見える。)
 で、その証拠。
 詩を書きはじめて九日目の(とは、この詩には書いてないのだけれど)部分。カフカが登場する。「変身」のグレゴールが登場する。グレーテが登場する。そして、妹に同情する北川が登場し、その北川のことを北川が書いている。そこでは、書かれている北川(と、私はかってに読んでいるのだが)は、グレーテと結婚し、グレーテはその結婚が同情によるのもであって愛情によるものではないと思い、ぐれて(グレーテ--なんてことは、もちろん、北川は書いていないが)、万引きをするようになるが、でも、万引きをほんとうにしているのはグレーテではなく、北川では? ほら、この詩の部分のように、かってな引用、誤読をつづけること、捏造すること、その行為って、他人のものをかすめとってくる万引きとどう違う? というような、ことを書き綴った、そのあとに、引用。

 真実の道は一本の綱の上を通っていく。その綱は空中ではなく、地面すれすれに張られており、通らすよりも、むしろつまずかせるためにあるらしい。

 あ、これってカフカのことばなのに、もう完全にカフカではなくなっている。誰が読んだってカフカだし、北川は、ちゃんと注釈をつけて、カフカ全集(白水社)からの引用だと書いているのに、カフカのことばではなくなっている。
 カフカの「誤読」を北川はすることができる。カフカの作品が先行し、あとから北川が読むからである。でも、カフカはそういうことはできない。カフカは北川のことばを一切知らない。知らないはずなのに、こうやってカフカのことばが北川のことばのあとに引用されると、まるでカフカが、北川のことばを読んで、それに対してそう言ったように見える。
 実際、ここでは、死んで、もう存在していないはずのカフカが、北川のことばを読んで、そう言っているのだ。そういうカフカに、北川は詩の中で出会っている。
 「変身」を「誤読」し、変身の登場人物をかってに動かし、その動きに北川自身を関係させていっている内に、そこには存在しないはずのカフカが甦り、北川に対して(北川のことばに対して)、「真実の道は……」と言ってしまうのだ。

 でも、でも、でも。
 それが問題。
 このときって、そのカフカは、誰? そのカフカのことばは、誰のことば? 北川が発見し(北川が発見しなくても、すでに存在しているのは、コロンブスのアメリカ大陸の発見と同じ)、「発見」することで、他の読者にも(たとえば、私にも)見えるようになったカフカなのだから、それは北川のことばと言ってもいいのでは? アメリカ大陸の発見はコロンブスによるもの、アメリカはコロンブスの大陸と言ってもいいように……。

 何か違う?
 もちろん、違いますねえ。違うことは承知で、でも、私は、そんなふうに「間違い」をことばにしたいのだ。



わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

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