相生葉留実『海へ帰る』(ふらんす堂、2010年03月21日発行)
相生葉留実『海へ帰る』は句集である。私は、俳句は門外漢である。たぶん、私の感想はトンチンカンなものだろう。
気持ちのいい句がたくさんある。
「も」には当然、「私」もふくまれるのだろう。そして、というのもちょっと変だけれど、このときの「私」は「雲」と「水」と、どっちの方に、より寄り添っているのだろう。わからなくなるが、そのわからなさのなかに、「雲」ももちろん「水」からできているという考えがふと割り込んできて、あ、相生は、雲と水とを同じものと感じていたのかも、と思う。天と地にあるもの。かけ離れたもの。違って見えるもの--けれども、それは「同じもの」でもある。その「同じもの」に「私」が自然に融合していく感じがする。相生は、何か、「私」意外なものに、すーっと融合していき、一体感をもって世界を見渡す。そのとき、世界がおだやかに変化する。そういう世界を描いていると思う。
「雲も水も」の旅は、いますべての「水」の「母」である「海」へ帰っていく。「海」には「水」(サンズイ)と「人」と「母」がいると言ったのは誰だったろうか。
そのとき、長い長い旅のおわりに水が海にたどりついたとき、その水が浮かべていた、たとえば「花筏」はなんだったのだろう。不思議な出会い。出会いの中での美しさというよろこび。それが、静かに記憶として「長い」時間を飾ってくれるに違いない。さまざまな出会い、美しさの発見、そういうことを繰り返しながら、でも最後は「起源」である水そのものへ、その「母」である「海」へ帰る。
相生がみつめているやすらぎが、そのなかに見える。
もし一句だけ選ばなければならないとしたら、私はこの句にするかもしれない。「雲も水も」や「長旅の」に比べると、美しい感慨というものがあるわけではないが、その美しくないところ(?)に、「いのち」のとまどいとよろこびがある。
どんなものにも出口、入り口がある。出口は入り口であり、入り口が出口である。ひとが(私が)それを出口と呼ぶとき、それは出口。入り口と呼ぶとき入り口。
もし、そうであるなら、ひとはあるものを「雲」と呼ぶなら、そのとき「雲」。「水」と呼ぶなら、そのとき「水」。「長旅」と呼ぶなら、そのとき「長旅」。すべては、ひとの思いといっしょになって、世界そのものとして目の前にあらわれてくる。
そういう一種の「事件」を相生は「ありにけり」とすっぱり言い切る。この「ありにけり」は、有無を言わせない力がある。とてもいい。
先に書いたことを繰り返すことになるが、私の感覚では、人が「水」というとき、それが「水」に「なる」のだが、相生は、「なる」とはいわない。「ある」というのだ。この「ある」の力がすごい、と思う。
「ある」の世界の中で、ひとは「なる」を繰り返しているのだが、その「なる」はいつか「ある」にならなければならない。「ある」に到達しなければならない。相生は、到達している。そう感じた。
ほかにもおもしろい句がたくさんある。思いつくまま、違った印象が残る句をあげると、
水が登場する句は、たいがいがおもしろい。
相生葉留実『海へ帰る』は句集である。私は、俳句は門外漢である。たぶん、私の感想はトンチンカンなものだろう。
気持ちのいい句がたくさんある。
雲も水も旅をしてをり花筏
「も」には当然、「私」もふくまれるのだろう。そして、というのもちょっと変だけれど、このときの「私」は「雲」と「水」と、どっちの方に、より寄り添っているのだろう。わからなくなるが、そのわからなさのなかに、「雲」ももちろん「水」からできているという考えがふと割り込んできて、あ、相生は、雲と水とを同じものと感じていたのかも、と思う。天と地にあるもの。かけ離れたもの。違って見えるもの--けれども、それは「同じもの」でもある。その「同じもの」に「私」が自然に融合していく感じがする。相生は、何か、「私」意外なものに、すーっと融合していき、一体感をもって世界を見渡す。そのとき、世界がおだやかに変化する。そういう世界を描いていると思う。
長旅の川いま海へ大晦日
「雲も水も」の旅は、いますべての「水」の「母」である「海」へ帰っていく。「海」には「水」(サンズイ)と「人」と「母」がいると言ったのは誰だったろうか。
そのとき、長い長い旅のおわりに水が海にたどりついたとき、その水が浮かべていた、たとえば「花筏」はなんだったのだろう。不思議な出会い。出会いの中での美しさというよろこび。それが、静かに記憶として「長い」時間を飾ってくれるに違いない。さまざまな出会い、美しさの発見、そういうことを繰り返しながら、でも最後は「起源」である水そのものへ、その「母」である「海」へ帰る。
相生がみつめているやすらぎが、そのなかに見える。
まくなぎに出口入口ありにけり
もし一句だけ選ばなければならないとしたら、私はこの句にするかもしれない。「雲も水も」や「長旅の」に比べると、美しい感慨というものがあるわけではないが、その美しくないところ(?)に、「いのち」のとまどいとよろこびがある。
どんなものにも出口、入り口がある。出口は入り口であり、入り口が出口である。ひとが(私が)それを出口と呼ぶとき、それは出口。入り口と呼ぶとき入り口。
もし、そうであるなら、ひとはあるものを「雲」と呼ぶなら、そのとき「雲」。「水」と呼ぶなら、そのとき「水」。「長旅」と呼ぶなら、そのとき「長旅」。すべては、ひとの思いといっしょになって、世界そのものとして目の前にあらわれてくる。
そういう一種の「事件」を相生は「ありにけり」とすっぱり言い切る。この「ありにけり」は、有無を言わせない力がある。とてもいい。
先に書いたことを繰り返すことになるが、私の感覚では、人が「水」というとき、それが「水」に「なる」のだが、相生は、「なる」とはいわない。「ある」というのだ。この「ある」の力がすごい、と思う。
「ある」の世界の中で、ひとは「なる」を繰り返しているのだが、その「なる」はいつか「ある」にならなければならない。「ある」に到達しなければならない。相生は、到達している。そう感じた。
ほかにもおもしろい句がたくさんある。思いつくまま、違った印象が残る句をあげると、
鳥帰るほんとに帰つてしまひけり
花木槿夕方までに書く手紙
ゆび頬に弥勒菩薩の秋思かな
水が登場する句は、たいがいがおもしろい。
春の水まがりやすくてつやめける
芹摘めば水拡がつて流れけり
さざなみの風にうまれて一枚田
田植水鳥のくちばし撫でてをり
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