小池昌代『コルカタ』(3)(思潮社、2010年03月15日発行)
異国へ旅をするとき、私たちは「ことば」をもっていく。「母国語」ということばを。ことばは、そのことばと繋がることばがないときは、存在していても存在しないことになるかもしれない。
は、きのう読んだ「バルバザール・朝」の最後に置かれたことばだ。その「哲学」とは少しずれてしまうのだが、異国を旅するときの「母国語」の状態というのは、それにいくぶん通じる--いや、そのことばで何かを語ってみたいという「状態」を抱え込んでいるものだと思う。
「日本語」が通じ「ない」。そのとき、「日本語」は、たとえば小池の「肉体」のなかに「ある」。そして、ことばが小池の「肉体」のなかにあるかぎり、ことばはベンガルでは通じ「ない」。
ことばを、どうやって「肉体」の外へ出すか。
これは、何も、ベンガルのひととことばを介して通じ合うというだけの問題ではない。たとえ、ベンガルのひとと話さなくても、ことばは「肉体」の外に出さなければならない。「肉体」の外に出して、ことばがほんとうに「ある」ということを確認しないことには、人間は生きてはいけないものだと思う。
ひとはときどき、旅をするとき本をもっていくが、これはことばをもっていくのに等しい。そのことばは自分のことばではなく、他人のことばなのだが、他人のことばであっても「母国語」であり、そのことばを読み返すことで、ひとは自分の「肉体」のなかにあることばを「肉体」の外へ出してみるのだ。
ことばを「肉体」の外へ出すために、本はある。
このこと自体は、「日本」であろうが、異国であろうが同じだけれど、異国の場合、そこに「母国語」を話すひとがいない、「母国語」が通じるひとがいないので、「本」のことばが日本にいるときよりも重要になる。
小池は、そういうことを意識しているのだと思う。インドへ本をもっていく。インドへの旅に本をかかえていく。
「泥」の冒頭。
ウルフ(バージニア・ウルフ?)、タゴールは日本人ではないが、小池のもっている本は「日本語」だろう。
小池は、旅の途中、ひとりになったとき、そのことばと向き合いながら、「肉体」のなからから「ことば」を外へ出そうとする。このとき、小池の「肉体」は「虫歯」という弱い部分をかかえており、そのことがかなりことばの運動に影響を与える。より強く「肉体」を意識してしまうことになるのだが、そのせいもあって(?)、ちょっとおもしろいことが起きる。
痛む虫歯--痛む肉体。それは「わたし」のものであることに間違いがない。そして、その「肉体」というのは、死んでしまえば「泥」にかえる。「泥」になってしまう。けれども、ことばは、どうだろうか。泥にはならない。
たとえば、小池が死んでも、一葉もウルフも石牟礼も泰淳もタゴールも、そのことばは泥になどならずにのこっている。
そして、いま、ことばは残る--と書いた、そのことばは、いったい誰のものだろうか。小池の? もちろん小池のことばには違いないが、それと同じことを、たとえば一葉は、ウルフは、泰淳は、タゴールは書いていない? あるいは、彼ら以外の誰かは言っていない? だいたい、誰も言っていないことばなど、あるのだろうか。
どんなことばも、きっと誰かが言っている。そして、それを、たとえば一葉が、ウルフが、石牟礼が、泰淳が、タゴールが聞きとめて、彼ら自身の「肉体」のなかに取り込み、それからもう一度「肉体」の外へほうりだしたものだ。どんなことばにも、そのことばがくぐってきた「肉体」が刻印されている。「肉体」は「泥」になっても、ことばには「肉体」が刻印されている。そして、そうであるなら、ことばは誰のもの?
小池は、3つめの詩で、そんなことを考えているように思える。
「誰のもの」「誰かの手」。そのことばのなかの「誰(か)」。
いま、小池は、自分のことばではなく、一葉の、ウルフの、泰淳の、石牟礼の、タゴールのことばと向き合っている。そのことばと向き合って、動きはじめる小池自身のことばと向き合っている。
でも、それはほんとうに小池のことば?
そうではなく、誰かのことば。
同じように、ことばをなくし、ことばを探している誰かの、ことば。そのことばをすくいあげるのは、小池であると同時に、誰かでもある。
ことばは小池自身の「肉体」をとおるが、そのとき、実は「誰か」わからない「他人」の「肉体」もとおる。そのときこそ、ことばはことばになる。他人の「肉体」をとおらないかぎり、いいかえるなら、「他人」に受け止めてもらわないかぎり、ことばはことばではない。ことばは、ことばになれない。ことばであっても、ことばではない。それは、逆に言えば、ことばではなくても、他人の「肉体」をとおればことばで「ある」ということでもある。
その「他人」の「肉体」をとおるというとき、そこにはなにが起きているか。「声」「音」。そういう「現象」があるはずだ。
--と、書いて、気がつくことがある。
日本から一葉、ウルフ、石牟礼、泰淳、タゴールのことばをもってきて、ホテルでそれを読んでいるとき、小池の「耳」は「音」に触れていない。「日本の耳」「日本の音」は小池ととともにあるが、巻頭の「雨と木の葉」の詩の冒頭にでてきたような「音」「声」がここにはない。
小池は、「頭」でことばと出会っているのだ。
もし、小池が虫歯でなかったら、そのことばは「肉体」とはどんな接触ももたずに、まったく違った形になって動いただろう。虫歯であったことが、小池の「肉体」とことばをかろうじてつなぎとめている。
「本」をもっていくと、「本」をもって行ったひとは、異国の土地の、「他人」の「肉体」をくぐらないままことばを動かしつづけることになるかもしれない。
このあと、小池は、どんなふうにして「音」を取り戻すのだろう。その「音」は彼女の「肉体」をどんなふうにかえていくのだろう。
異国へ旅をするとき、私たちは「ことば」をもっていく。「母国語」ということばを。ことばは、そのことばと繋がることばがないときは、存在していても存在しないことになるかもしれない。
ナイ ハ アル
アル ハ ナイ
は、きのう読んだ「バルバザール・朝」の最後に置かれたことばだ。その「哲学」とは少しずれてしまうのだが、異国を旅するときの「母国語」の状態というのは、それにいくぶん通じる--いや、そのことばで何かを語ってみたいという「状態」を抱え込んでいるものだと思う。
「日本語」が通じ「ない」。そのとき、「日本語」は、たとえば小池の「肉体」のなかに「ある」。そして、ことばが小池の「肉体」のなかにあるかぎり、ことばはベンガルでは通じ「ない」。
ことばを、どうやって「肉体」の外へ出すか。
これは、何も、ベンガルのひととことばを介して通じ合うというだけの問題ではない。たとえ、ベンガルのひとと話さなくても、ことばは「肉体」の外に出さなければならない。「肉体」の外に出して、ことばがほんとうに「ある」ということを確認しないことには、人間は生きてはいけないものだと思う。
ひとはときどき、旅をするとき本をもっていくが、これはことばをもっていくのに等しい。そのことばは自分のことばではなく、他人のことばなのだが、他人のことばであっても「母国語」であり、そのことばを読み返すことで、ひとは自分の「肉体」のなかにあることばを「肉体」の外へ出してみるのだ。
ことばを「肉体」の外へ出すために、本はある。
このこと自体は、「日本」であろうが、異国であろうが同じだけれど、異国の場合、そこに「母国語」を話すひとがいない、「母国語」が通じるひとがいないので、「本」のことばが日本にいるときよりも重要になる。
小池は、そういうことを意識しているのだと思う。インドへ本をもっていく。インドへの旅に本をかかえていく。
「泥」の冒頭。
スーツケースの一番底に
一葉・ウルフ・石牟礼道子
武田泰淳の映画の本と
それから、あ、タゴール詩集も忘れずにね
ウルフ(バージニア・ウルフ?)、タゴールは日本人ではないが、小池のもっている本は「日本語」だろう。
小池は、旅の途中、ひとりになったとき、そのことばと向き合いながら、「肉体」のなからから「ことば」を外へ出そうとする。このとき、小池の「肉体」は「虫歯」という弱い部分をかかえており、そのことがかなりことばの運動に影響を与える。より強く「肉体」を意識してしまうことになるのだが、そのせいもあって(?)、ちょっとおもしろいことが起きる。
そう、タゴール
夜更けのホテル 読んでいたら
だんだんと 奥歯 痛みだし
どのテキストも どんなテキストも
ずきずきと
どんなに言葉を積み上げたところで
ずきずきと
最後 すべては 泥にかえる
この痛み
はわたしのもの
でもこのことばは
誰のもの
痛む虫歯--痛む肉体。それは「わたし」のものであることに間違いがない。そして、その「肉体」というのは、死んでしまえば「泥」にかえる。「泥」になってしまう。けれども、ことばは、どうだろうか。泥にはならない。
たとえば、小池が死んでも、一葉もウルフも石牟礼も泰淳もタゴールも、そのことばは泥になどならずにのこっている。
そして、いま、ことばは残る--と書いた、そのことばは、いったい誰のものだろうか。小池の? もちろん小池のことばには違いないが、それと同じことを、たとえば一葉は、ウルフは、泰淳は、タゴールは書いていない? あるいは、彼ら以外の誰かは言っていない? だいたい、誰も言っていないことばなど、あるのだろうか。
どんなことばも、きっと誰かが言っている。そして、それを、たとえば一葉が、ウルフが、石牟礼が、泰淳が、タゴールが聞きとめて、彼ら自身の「肉体」のなかに取り込み、それからもう一度「肉体」の外へほうりだしたものだ。どんなことばにも、そのことばがくぐってきた「肉体」が刻印されている。「肉体」は「泥」になっても、ことばには「肉体」が刻印されている。そして、そうであるなら、ことばは誰のもの?
小池は、3つめの詩で、そんなことを考えているように思える。
でもこのことばは
誰のもの
印度の泥
何も吐かない 実に泥のような男たち
詩にゆく者よ ことばとは
ガンジス川の 川底の泥
それは死者たちの使ったことば
夢のなかで
幾度もすくいあげる
誰かの手
皺だらけの
「誰のもの」「誰かの手」。そのことばのなかの「誰(か)」。
いま、小池は、自分のことばではなく、一葉の、ウルフの、泰淳の、石牟礼の、タゴールのことばと向き合っている。そのことばと向き合って、動きはじめる小池自身のことばと向き合っている。
でも、それはほんとうに小池のことば?
そうではなく、誰かのことば。
同じように、ことばをなくし、ことばを探している誰かの、ことば。そのことばをすくいあげるのは、小池であると同時に、誰かでもある。
ことばは小池自身の「肉体」をとおるが、そのとき、実は「誰か」わからない「他人」の「肉体」もとおる。そのときこそ、ことばはことばになる。他人の「肉体」をとおらないかぎり、いいかえるなら、「他人」に受け止めてもらわないかぎり、ことばはことばではない。ことばは、ことばになれない。ことばであっても、ことばではない。それは、逆に言えば、ことばではなくても、他人の「肉体」をとおればことばで「ある」ということでもある。
その「他人」の「肉体」をとおるというとき、そこにはなにが起きているか。「声」「音」。そういう「現象」があるはずだ。
--と、書いて、気がつくことがある。
日本から一葉、ウルフ、石牟礼、泰淳、タゴールのことばをもってきて、ホテルでそれを読んでいるとき、小池の「耳」は「音」に触れていない。「日本の耳」「日本の音」は小池ととともにあるが、巻頭の「雨と木の葉」の詩の冒頭にでてきたような「音」「声」がここにはない。
小池は、「頭」でことばと出会っているのだ。
もし、小池が虫歯でなかったら、そのことばは「肉体」とはどんな接触ももたずに、まったく違った形になって動いただろう。虫歯であったことが、小池の「肉体」とことばをかろうじてつなぎとめている。
「本」をもっていくと、「本」をもって行ったひとは、異国の土地の、「他人」の「肉体」をくぐらないままことばを動かしつづけることになるかもしれない。
このあと、小池は、どんなふうにして「音」を取り戻すのだろう。その「音」は彼女の「肉体」をどんなふうにかえていくのだろう。
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