北川透『わがブーメラン乱帰線』(3)(思潮社、2010年04月01日発行)
北川の「朗読しないための朗読詩」はライブ詩である。
私は眠れない。
毎日、詩を書くと決めてから、きょうで三日目。
で、私も、それにあわせて(?)ライブ感想。きょうで三日目。三日目の部分を読む。三日目の感想を書く。
スイスの哲学者カール・ヒルティの『眠られぬ夜のために』を読む。
不眠に逆らうな、と書いてある。
不眠は精神生活を向上させる、と書いてある。
不眠は人生に最大の宝を得るための、神の賜物だ、とも書いてある。
「……と書いてある。」そう繰り返すことで、北川のことばはリズムを獲得する。本に書かれていることの要約なら、この「書いてある」の繰り返しは、邪魔者だ。
北川は、カール・ヒルティについても、『眠られぬ夜のために』についても、書きたいわけではない。北川の書きたいのは、詩である。ことばの暴走である。暴走させるためには、加速するための「弾み」と、加速をスムーズにするリズムが必要である。
「……と書いてある」と繰り返すことで、北川は、そのリズムを手に入れている。
そして、その「書いている」ということを確認するというのは、不思議な作用をする。「書きことば」は、不思議な具合に北川を動かしていく。
その書かれたことばは、書き写した瞬間から、北川のものになる。そのことばを、次にどう展開していくかは北川の自由なのだ。『眠られぬ夜』のなかで、それがどのような「位置」を占め、どう動いていくか、ということとは無関係に、北川は北川のことばを動かすことができる。まったく自由にことばをつないでいくことができる。
ヒルティさん。あんたは唯一絶対の神を信じているからいいさ。
わたしは暗がりで目を開いても、
暗い網膜に神様など見えたことがない、不信心、不逞の輩だ。
目の中いっぱいに、ただ、広がる虚空……
夜もなければ朝もなく、ただ、寝返りを打つばかり。
黒い鼠が一匹、ちょろ。
黒い鼠が二匹、ちょろちょろ。
黒い鼠が三匹、ちょろちょろちょろ。
北川のこんな感想(?)のために、(そういう感想を想定して?)、ヒルティは『眠れぬ夜のために』を書いたわけではないだろう。「黒い鼠が一匹、ちょろ。/黒い鼠が二匹、ちょろちょろ。」という行は、ヒルティの想像を絶する反応だろう。
そういう無関係な感想を、ことばは書くことができるのだ。
こんな感想は無関係であるから、無効である--と学校教科書作文なら切り捨ててしまうかもしれないけれど、そういう無関係、無効なことばが、ことば自体として動いてゆける。
これは、とても不思議でおもしろいことだ。そして、それは「書きことば」にとっての、一種の特権でもある。
ことばの動き自体をいうなら、同じことばを「話しことば」としても話すことはできる。けれど、その「話しことば」は話した先から消えていく。いまは、録音装置があるから、消えない、という主張もあるかもしれないが、その音を再生させるときは、話しことばの順序どおりに音が再生され、その音は同時にひとつの「音」としては存在しえない。
「書きことば」は、そういう制約を受けない。
「書きことば」は無関係を、並列させることができる。同時に存在させることができる。私たちの目は、かけ離れた「文字」を同時に見ることができる。
この「同時性」、同時に違ったものが存在するということを利用して、ことばは暴走する。
そして、書いている「いま」を、ここには存在していない「時間」と「同時」にしてしまう--というのは、
あ、
ちょっと変な論理だね。
うまく書けないのだけれど、そんなことを、ふっと、私は感じた。
「書かれたことば」(書きことば)がそこに存在する。そのことばは「無関係」であるけれど、同時に存在し、その同時に存在するときの、存在する力(能力)のようなものが、ことばを動かしている。
リズムが、それに加担する。
黒い鼠が、黒い鼠が、ちょろりん、ちょろりんちょろちょろりん。
黒い鼠が、黒い鼠が、神の賜物だなんてとんでもない、ああ……。
黒い鼠が、黒い鼠が、白い歯を剥き出し、
黒い鼠が、黒い鼠が、わめきながら襲い掛かる。
黒い鼠が、群れを成して、わたしの身体の真上に。
黒い鼠が、わたしの耳を、鼻を、咽喉を、踵を齧る。
黒い鼠が、わたしの内臓から湧き出る、寄生虫を齧る。
黒い鼠が、わたしの踏み潰された肝っ玉、どぶ板を齧る。
ことばは、なんでも書くことができる。書きながら、ことばは、そこにたしかに定着する。そして、そこにリズムが確立されるとき、そのリズムはリズム自体で、ひとつの存在の「理由」になる。
リズムのなかで、実際には存在しないはずの「黒い鼠が」、ことばとして存在し、定着してしまう。「黒い鼠」を想像する(創造する?)北川を通り越して、「黒い鼠」ということば自体が存在してしまう。存在してしまうまで、北川は、ことばを書く。書きつづける。
無意味なことばが、書かれることで、存在してしまう--その存在にかわる瞬間が、詩ときっと重なり合うのだ。
(つづく)