田原「上海のスパイダーマン 高層ビルの窓拭きたち」(「現代詩手帖」2010年05月号)
田原「上海のスパイダーマン 高層ビルの窓拭きたち」はタイトルどおり、上海の高層ビルの窓拭きをしているひとのことを描写している。
この、中国的な宇宙感覚というのだろうか、広大な空間をことばひとつでぎゅっと凝縮する強さ--そのあとに、とても美しい風景が広がる。ぎゅっと凝縮したものが、その凝縮の力が強すぎて、集まりながら、ぶつかり、ぶつかって破裂する。まるでビッグバンのように。求心から、放心へ。その過激な輝き……。
私はめまいを覚えてしまう。木がどんどん成長する。空をつきやぶって成長する。もちろん空に浮かんだ雲をも突き破って天へと突き進む。「雲が彼らをかすめて通り過ぎ」るのではなく、ビルの窓を拭く男たちが、木といっしょに成長して雲を突き破って、空を突き破って、天に向かう。その「自由」。そのとき、雲は彼らの影を、大地のように受け止める。巨大な影を。「雲が」「彼らの倒影を空に刻んでゆく」のではなく、彼らが、自分自身の影を、自分自身の力で雲に、そして空に刻印していくのだ。
そういう印象のなかで、私は、ふーっとため息をつく。自分自身をなだめる。落ち着かせる。田原のことばに追い付いていけない。そのスピードと凝縮・拡散・解放・自由についていけなくて、一休みする。
そして、もう一度、そのことばを読み直す。そのとき。
私は「倒れた影」の「意味」にとって、「とうえい」と読んでしまっていたが、それでいいのかな?
「倒」(倒れる)という文字が、私の最初に感じた「自由」「力強さ」とは違った印象を運んでくる。何か哀しげに見えてくる。えっ、田原の書いているのは、人間の強さではないの?
ふいに気になってしまった。
影は、もともと倒れている。逆立ちしている。それをわざわざ「倒」という文字といっしょにつかっている。そのとき、影を生み出す光はどこにあるのだろう。どんな形で差してきているのだろう。
うーん。
辞書(新漢語林)を引いた。私は本を読むとき、辞書を引く習慣がない。そのうち、きっとわかる--というような、いいかげんな気持ちがあるのだが、なぜか、田原の詩を読むときだけは、辞書を引いてしまう。日本語と、中国語。その出会いが、何か思いもかけない形でそこに出現しているような気がするのである。私が知っている(と思っている)意味とは別なものがそこにあるのでは、と感じてしまう。その違いの手がかりを辞書のなかで探してみようと思ってしまうのである。
「③さかさに映るかげ。さかさかげ」は、文字から連想した「意味」に重なる。けれども、その「意味」では、私が直感的に感じたこととは違う。「①西から照り返す日光。夕日の光。」は、長い影、長く伸びた影を思うとき、「西日」を連想するので(あぜ、朝日ではないのかな?)、まあ、見当がつくかなあ、という気がしないでもない。けれども、やはり私が直感的に感じた「自由」とは、違っている。
けれど「②天上の最高の所をいう。」あ、びっくり。仰天した。目を疑った。こんな「意味」があることを私は知らなかった。考えもしなかったけれど、私の感じたことは、これに一番近い。
「文字」でけを見て、どういう「意味」だろうと思いなおしたとき、私は「③さかさに映るかげ。さかさかげ」の意味しか思いつかないのだけれど、その思いつかない意味を超えて、田原のことばに誘われて、知らない「意味」にたどりついていたことになる。
あ、これが詩の体験ということかなあ。
窓拭きをする男たちは、天上(これは、きっと空のはるか高み、天のてっぺんという意味だと思うけれど)に、自分たちの存在を刻む。影で印をつける。そのとき、光はあって、ない。男たち自身が自分の内部から光を発して、自分たちの影を天に刻むのだ。そこには最高の「自由」がある。
あ、私って、自分で書いてしまうと変だけれど、なんだかとんでもない読み方をしてしまうなあ。ことばを突き破って読んでしまっているような気がしてしまう。詩というものは、もともとそういう力を持っている(他人の「誤読」を誘う力を持っている)ものかもしれないが、この私の読み方は、田原の詩への「誤読」を超えてしまっているかもしれないなあ。
ちょっと心配になり、自分の「誤読」があまりにもとんでもないものになってしまっているような気がしてきて、(自分の知らない意味に、知らないうちに出会っていることに不安になり)、別の辞書も引いてみた。広辞苑。
あ、「天上の最高の所」がない。
私の見たと思ったものは、やっぱり単なる「誤読」かな?
田原は、ほんとうは、どんな「意味」をこめて書いたのかな?
ちょっと不安になる。その不安のなかで、また別のものが見えてくる。
「倒影」はまた「西日、夕日」でもある。このときの影は「月影」の「影」と同じ意味で「光」になる。あ、なんだか、淋しい。(私は、日本語の感性にどっぷりつかっているので、西日、夕日を楽しい、明るいではなく、淋しいとセンチメンタルに考えてしまう。)
でも(またまた、でも、なのだけれど)、その次の連を読むと……。
あ、自由な力を生きながら、同時に「死」というものを意識も生きている。そして、その「暗い部分」(不安)があるからこそ、天上に刻む自分自身の影、存在証明も力を増すのだけれど。
ここに書かれているのは、単純な「自由」の力ではない。何か、それを疎外するものも、そこにあり、それと男たちは闘っている--ということが、ここに象徴的に描かれている。
その、いわゆる「影」(光ではない方の影)の部分は、先に引用した部分のあとに、描かれている。現代の中国がかかえる問題点が描かれているのだが、
うーん、
「倒影」。
田原は、どういう意味でそのことばをつかったのだろう。中国語(田原の母国語)にも「倒影」ということばはあるのだろうか。それは、どういう意味でつかうのだろうか。私が最初に感じた「天上の最高の所」という意味でもつかうんだろうか。
私はなんだかわからなくなるのだけれど、働いている男たちに「荒涼とした墓場」という意識があればこそ、なおさら「倒影」を「天上の最高の所」と読むことで、彼らの「いのち」を祝福したい気持ちになるのだ。
田原「上海のスパイダーマン 高層ビルの窓拭きたち」はタイトルどおり、上海の高層ビルの窓拭きをしているひとのことを描写している。
太く長いロープが天にくくりつけられ
まるで臍の緒のように
彼らに繋がっている
そして頑丈な血管のように
天と地を繋いでいる
この、中国的な宇宙感覚というのだろうか、広大な空間をことばひとつでぎゅっと凝縮する強さ--そのあとに、とても美しい風景が広がる。ぎゅっと凝縮したものが、その凝縮の力が強すぎて、集まりながら、ぶつかり、ぶつかって破裂する。まるでビッグバンのように。求心から、放心へ。その過激な輝き……。
高層ビルは風に揺れる大樹
彼らは風に漂う木の葉
風の中で空の自由の使者となる
雲が彼らをかすめて通り過ぎ
彼らの倒影を空に刻んでゆく
私はめまいを覚えてしまう。木がどんどん成長する。空をつきやぶって成長する。もちろん空に浮かんだ雲をも突き破って天へと突き進む。「雲が彼らをかすめて通り過ぎ」るのではなく、ビルの窓を拭く男たちが、木といっしょに成長して雲を突き破って、空を突き破って、天に向かう。その「自由」。そのとき、雲は彼らの影を、大地のように受け止める。巨大な影を。「雲が」「彼らの倒影を空に刻んでゆく」のではなく、彼らが、自分自身の影を、自分自身の力で雲に、そして空に刻印していくのだ。
そういう印象のなかで、私は、ふーっとため息をつく。自分自身をなだめる。落ち着かせる。田原のことばに追い付いていけない。そのスピードと凝縮・拡散・解放・自由についていけなくて、一休みする。
そして、もう一度、そのことばを読み直す。そのとき。
倒影
私は「倒れた影」の「意味」にとって、「とうえい」と読んでしまっていたが、それでいいのかな?
「倒」(倒れる)という文字が、私の最初に感じた「自由」「力強さ」とは違った印象を運んでくる。何か哀しげに見えてくる。えっ、田原の書いているのは、人間の強さではないの?
ふいに気になってしまった。
影は、もともと倒れている。逆立ちしている。それをわざわざ「倒」という文字といっしょにつかっている。そのとき、影を生み出す光はどこにあるのだろう。どんな形で差してきているのだろう。
うーん。
辞書(新漢語林)を引いた。私は本を読むとき、辞書を引く習慣がない。そのうち、きっとわかる--というような、いいかげんな気持ちがあるのだが、なぜか、田原の詩を読むときだけは、辞書を引いてしまう。日本語と、中国語。その出会いが、何か思いもかけない形でそこに出現しているような気がするのである。私が知っている(と思っている)意味とは別なものがそこにあるのでは、と感じてしまう。その違いの手がかりを辞書のなかで探してみようと思ってしまうのである。
倒景・倒影 トウエイ。景は影。①西から照り返す日光。夕日の光。②天上の最高の所をいう。③さかさに映るかげ。さかさかげ
「③さかさに映るかげ。さかさかげ」は、文字から連想した「意味」に重なる。けれども、その「意味」では、私が直感的に感じたこととは違う。「①西から照り返す日光。夕日の光。」は、長い影、長く伸びた影を思うとき、「西日」を連想するので(あぜ、朝日ではないのかな?)、まあ、見当がつくかなあ、という気がしないでもない。けれども、やはり私が直感的に感じた「自由」とは、違っている。
けれど「②天上の最高の所をいう。」あ、びっくり。仰天した。目を疑った。こんな「意味」があることを私は知らなかった。考えもしなかったけれど、私の感じたことは、これに一番近い。
「文字」でけを見て、どういう「意味」だろうと思いなおしたとき、私は「③さかさに映るかげ。さかさかげ」の意味しか思いつかないのだけれど、その思いつかない意味を超えて、田原のことばに誘われて、知らない「意味」にたどりついていたことになる。
あ、これが詩の体験ということかなあ。
窓拭きをする男たちは、天上(これは、きっと空のはるか高み、天のてっぺんという意味だと思うけれど)に、自分たちの存在を刻む。影で印をつける。そのとき、光はあって、ない。男たち自身が自分の内部から光を発して、自分たちの影を天に刻むのだ。そこには最高の「自由」がある。
あ、私って、自分で書いてしまうと変だけれど、なんだかとんでもない読み方をしてしまうなあ。ことばを突き破って読んでしまっているような気がしてしまう。詩というものは、もともとそういう力を持っている(他人の「誤読」を誘う力を持っている)ものかもしれないが、この私の読み方は、田原の詩への「誤読」を超えてしまっているかもしれないなあ。
ちょっと心配になり、自分の「誤読」があまりにもとんでもないものになってしまっているような気がしてきて、(自分の知らない意味に、知らないうちに出会っていることに不安になり)、別の辞書も引いてみた。広辞苑。
とうえい 倒影 ①さかさにうつったかげ。②夕日のかげ
あ、「天上の最高の所」がない。
私の見たと思ったものは、やっぱり単なる「誤読」かな?
田原は、ほんとうは、どんな「意味」をこめて書いたのかな?
ちょっと不安になる。その不安のなかで、また別のものが見えてくる。
「倒影」はまた「西日、夕日」でもある。このときの影は「月影」の「影」と同じ意味で「光」になる。あ、なんだか、淋しい。(私は、日本語の感性にどっぷりつかっているので、西日、夕日を楽しい、明るいではなく、淋しいとセンチメンタルに考えてしまう。)
でも(またまた、でも、なのだけれど)、その次の連を読むと……。
彼らは決して運を任せたりせず
高さに勝つ
それは何よりも事故の運命とのせめぎ合い
彼らは誰よりもはっきり知っている
ロープの一端につないでいるのは命
そして死でもあることを
身体の下には温もりのある大地
そして荒涼とした墓場でもあることを
あ、自由な力を生きながら、同時に「死」というものを意識も生きている。そして、その「暗い部分」(不安)があるからこそ、天上に刻む自分自身の影、存在証明も力を増すのだけれど。
ここに書かれているのは、単純な「自由」の力ではない。何か、それを疎外するものも、そこにあり、それと男たちは闘っている--ということが、ここに象徴的に描かれている。
その、いわゆる「影」(光ではない方の影)の部分は、先に引用した部分のあとに、描かれている。現代の中国がかかえる問題点が描かれているのだが、
うーん、
「倒影」。
田原は、どういう意味でそのことばをつかったのだろう。中国語(田原の母国語)にも「倒影」ということばはあるのだろうか。それは、どういう意味でつかうのだろうか。私が最初に感じた「天上の最高の所」という意味でもつかうんだろうか。
私はなんだかわからなくなるのだけれど、働いている男たちに「荒涼とした墓場」という意識があればこそ、なおさら「倒影」を「天上の最高の所」と読むことで、彼らの「いのち」を祝福したい気持ちになるのだ。
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