詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガブリエル・アクセル監督「バベットの晩餐会」(★★★★★)

2010-05-25 11:39:23 | 午前十時の映画祭

監督 ガブリエル・アクセル 出演 ステファーヌ・オードラン、ジャン・フィリップ・ラフォン、グドマール・ヴィーヴェソン、ヤール・キューレ、ハンネ・ステンスゴー

 「午前十時の映画祭」16本目。
 記憶していたシーンが2 か所、欠落している。その2 か所はもしかすると、私がでっち上げたものかもしれない。
 一つはバベットが野原でハーブ(と思う)を探し、摘み取るシーン。それを入れると近所の老人に配っているお粥(?)が格段においしくなるのだ。バベットのつくってくれたお粥を食べたとき、老人の顔が、ほわっと明るくなる。
 もう一つは、バベットが留守の間、姉妹がお粥を作る。バベットがくる前の、昔ながらの方法で。これがまずい。バベットのお粥を食べることだけを楽しみに生きていたのに……。口に含んだ老人がまずいと顔をしかめる。それを見て姉妹が「どうして?」と顔を見合わせる。「いつもは、ちゃんと食べたのに」。
 そのふたつのシーンがない。
 たぶん(きっと)、私がかってに捏造したシーンなのだが、こんなふうに映像を捏造できるというのが、傑作映画の条件だ。スクリーンの映像の背後に、存在しないシーンを見てしまう。そういうシーンが多ければ多いほど、その映画は充実している。
 この映画は、実際、後半に入ると、そういう感じになってくる。スクリーンでは、村人が「食べ物の話はしない」という約束を守ってもくもくと食べている。けれど、そのもくもくの背後で「なんておいしんだ」と言っている。ワインの合間に水を飲み、「や、やっぱりワインの方がおいしい」とワインを飲み直す。そのとき、そこには描かれていない、その人々の「日常」の食卓がぱっと見える。テーブルクロスはない。皿もかぎられ、ワインなんてもちろんない。それでも、それを「おいしい」と思い、食べていた日々が見える。
 それは、もしかすると、村人の日常ではなく、私自身の日常かもしれない。いつも、どんなふうに食事をしているか--そのことが、村人の姿をとおして、頭のなかで映像として甦るのだ。
 それから、ひとこと二言の「だまして、ごめんよ」「俺もだましたことがあるんだ」というような会話の向こう側に、実際にそういうシーンが見えるのだ。ときにはひとにうそをついて出し抜いたり(出し抜いたつもりになったり)、そうやって生きることが「上手に生きる」ことだと勘違いしたり……。そういう日常、村人の日常であり、また私の日常であるものが、スクリーンに映し出されないにもかかわらず、私の「肉体」のなかで甦る。
 そういうことの繰り返しのあとに。
 牧師のメインの説教「願ったことはすべて実現する、願わなかったこともすべて起きる。起きないことはないもない」が将軍のことばで繰り返され、思い起こされるとき、出演者の顔をとおして、肉体をとおして、あらゆることが思い起こされる。あらゆることが「具体化」される。スクリーンに映し出されなくても、見ている観客の意識のなかに映し出されるのだ。
 こんなふうに、現実に見えているもの以上のものが、見えるを超えて「実感」できる――これを幸福というんだろうなあ。それが「おいしい」ものを食べる、「おいしさ」を共有するというよろこびの中で溶け合う。
 遠いもの、天の星さえも近くに見える。その遠いものには、亡くなった牧師がいる。そして、「神」がいる。
 晩餐会を終えて外へ出た村人。いがみ合いを忘れ、みんなで手をつなぎ、井戸を囲み、歌を歌う。踊る。「ハレルヤ」。

 人が天国へ持って行けるもの、それは人に与えたものだけ。いいことばだね。




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北川透『わがブーメラン乱帰線』(10)

2010-05-25 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(10)(思潮社、2010年04月01日発行)

海辺の旅館で、変なカラスの鳴き声に眠れない夜が続き、
もう何日目か分からない。

 あのぉ、北川さん、きょうで10日目です。
 
わたしは詩を書くことをあきらめ、
漁師さんの家で一艘の小舟を借りた。

 私も、なんとなく「感想」を書くことをあきらめはじめているかもしれない。いや、感想は書いているのだが、なんというか、「批評」、それをあきらめている。北川のこの詩集をどう評価するかなんていう面倒くさいことはやめて、ただ、北川のことばに触れて思ったことをああでもない、こうでもない、と書いている。
 それでいいのかどうか、わからないが、そういうことしかできない。
 10日間、北川が10日間で書いたことばにつきあうと、どんな具合に私のことばはかわるだろうか、それをライブ感覚で味わってみたい(朗読会には行けないから、これが私の北川の詩とのライブな向き合い方だ)--そう思って書きはじめたのだが、やっぱりここまで長くなると、自分のことが面倒くさくなるねえ。ことばを動かすのがちょっと面倒になるねえ。
 「変なカラスの鳴き声」ということばは、きのう読んだ9日目の部分が頭に残っているので、変な「カフカ」の鳴き声、と読んでしまう。
 9日目の、引用しなかった部分には、「カラスの告げる真実の道」だの「魚網」ということばがあるから、北川もちょっと疲れてきて(?)、その「きのう」のカラスと魚網をひきずって10日目に入り込んでいるのかもしれないけれど。

 というようなことを書きながら、私はふとヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画『フィツカラルド』『アギーレ』を思い出したりする。なんだか分からない映画で、『フィツカラルド』巨大な船をジャングルを、その山を越えて運んでゆく。『アギーレ』もジャングルで苦闘する。だんだん役者が疲れてくる。監督は元気なのかな? でもスタッフが疲れてくる。『フィツカラルド』の方は役者が次々にいやになってやめてしまって、ナスターシャ・キンスキーのお父さんが最後は主役を押しつけられ、完成したみたいだけれど、その映像が、強烈だけれど、なんだかだんだん疲れてくる感じが、うーん、スクリーンからつたわって来るんですねえ。
 その感じ。
 ええい、もう10日目か、しょうがない、やっちゃえ、やっちゃえ、やっちゃえ。
 これって、私は悪いことじゃないと思うなあ。それがいいことかどうかは、やっぱりわからないのだけれど、すごいなあ、と思う。

 漁師から舟を借りた北川は、三河湾に漕ぎだし、波に流されて遭難しそうになる、というようなことを書いた部分のつづき。

その時からきょうまで、わたしはいつも巨大な風力に抗い、
歴史という見えない海坊主の、無数の手に逆らっただけ、
余計に狂暴な渦潮に巻き込まれて、
自分を見失った。漂流する一枚の舟板にさえ見放され、
わたしはどこに消えてしまったのだろう。
絶対に見つからない遭難者のわたしを探し出す、
人食い鮫の餌食になった溺死者のわたしを探し出す、
そんな徒労に耐えるように、わたしは詩を書いてきたが、
もう、わたしには一篇の詩を書く力もない。

 あ、ほんとうに、『フィツカラルド』だと思う。ヴェルナー・ヘルツォークと思う。「もう、わたしには一篇の詩を書く力もない。」(もう、わたしには一篇の映画をつくる力もない。)と書くことで、それが詩になる。書けない、とかき、それが詩になる。いままで、存在しなかった詩になる。
 その矛盾したことがら。
 その矛盾の奥の「徒労」のたしかさ。
 「わたしはどこに消えてしまったのだろう。」と考えるときの「ほむたし」とは誰?
 「いま」「ここ」にある確実なものと、「いま」「ここ」に出現して来る不確実なもの。そのあいだで、北川は「小舟」のように揺れる。
 私も揺れてしまう。
 いま引用した行から、北川のことばの特徴、ことばの運動の思想に迫ることができるかもしれないと感じるが、その感じを追い詰めていくのには、もうなんだか疲れてしまって、でも、きっとこの疲れ、徒労の感じの中に、何が重なり合っていると思うので、疲れてしまったと書いてしまう。

 まあ、いいか。つづきを読もう。

 詩は、電話から、おいの死を知り、故郷にかえり、そこでは実はおいではなく、姉が死んでいた……というような錯綜した夢の描写のあと、また、舟で流されている北川が登場する。そして、そこには鯨が。

そこに巨大な抹香鯨の頭があった。

 うーん。「抹香鯨」が「抹香」と「鯨」に分かれて、その「抹香」が、その前に書かれていた「死」を呼び寄せる。なんだろう。この感覚。
 ことばがどこかへ進もうとすると、それは「過去」にひっぱられる。どんなに「でたらめ」(ごめんなさいね、北川さん)を書こうとしても、そこに、どうしても「過去」が紛れ込んでしまう。
 鯨と船、といえば『白鯨』だが、その『白鯨』もそのあと、北川のことばに紛れ込んで来る。闖入して来る。そういうものと闘いながら、北川のことばは、ただ「おわり」をめざす。
 ことばとは、常に、そのことばのなかに入って来る「過去」をふりしぼるようにしてしか進んで行けないのかもしれない。「過去」をしぼりだす、ふりきる、というのは、きっと巨大な船を山越えで向こう側の海へ運ぶようなものなのだろう。(『フィツカラルド』、です。)運んでしまって、何が起きる? 船は、やっぱり水に浮かぶだけ。ある、はてしない山越えはいったい、船にとってなに? そんなふうに船に山を越させる人間(わたし)ってなに? その船に山を越させた「わたし」は、いったいどこにいるの? 
 ことばに闖入して来る「過去」をふりしぼると、「わたし」もふりしぼられてしまう?だから、「わたし」は新しい「わたし」を手に入れるために、新しい「ことば」に向かって突き進むしかない、ということかもしれない。
 でも、それって、おわりがあるのかな?

 きっと、「おわり」はない。

 10日目なのか、10日目の、+αの部分が最後に書かれている。

 ……聞こえる。たしかに、聞こえる。
電話が聞こえる。
もしもし、岡山の「大朗読」の加藤健次です。
北川さんですか。予定通り、明日は来られますね。
岡山駅西改札口で、午後三時、
お待ちしています

わたしはどこをどうさすらっていたのだろう。
まだ一行の詩も書けていないのに、「大朗読」の日が来てしまった。
わたしは恐怖でぶるぶる震えている。
わたしは十日間で一万行の詩を書いて、
大詩人になるつもりだったのに。

 「まだ一行の詩も書けていないのに」、それが、詩。
 「まだ一行の詩も書けていないのに」と思うのは北川の思い込み。でも、そうやって、「まだ一行の詩も書けていないのに」という行を含むことばを読者に提出するのは、なぜ? ほんとうは、「これが詩だ」と思っているからだね。
 この矛盾。
 矛盾の形でしか、姿をあらわすことのできないもの。それが、詩。
 と、書いてしまうと、あ、私もいつもと同じことを繰り返しているだけだねえ。私のことばは、いくらか、北川のことばのあとを追いかけることができたのだろうか。

 わからない。北川の詩を十日間書けて読んだ、とだけ書けばよかったのかな? それ以外のことは、結局、何も書いていない。一行も、北川の詩への感想、批評を書き終わらない内に十日間が来てしまった。
 毎回毎回、くだくだとしたことばしか書けないので、今回こそ、きちんとした北川評を書きたいと思って十日間書いたのに……。





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