野村喜和夫「眩暈原論(2)」川江一二三「蕎麦を届ける」海埜今日子「《あついみず》」(「Hotel 第2章」24、2010年04月10日発行)
野村喜和夫「眩暈原論(2)」は何を書いているのだろうか。何も書いていないなあ。強いて言えば、「書く」ということを書いている--いや、楽しんでいる。それだけである。「意味」をそこに求めてはいけないのだと思う。「意味」を求めると、わけがわからないし、おもしろくない。
ここには何もないけれど、リズムがある。そして、野村はリズムだけで書いている。リズムに乗せてことばを動かしている内、そこから何か生まれてくればいい。生まれてこなくて、リズムだけが取り残されてもいい。
何も考えていない。それが「快感」である。
これ、いいなあ。
「死ぬまでも」なんだよ。と、わざと書いて、「死ぬ」って、きっと「いく」と同じことだよね、とわどと書いておこう。ここでは。
ね、いいかげんでしょ?
あ、これはきっと注釈がいるなあ。
この「いいかげん」がいい、というのは、そこには「抑圧」がないからなのだ。ことばに対して「抑圧」がない。そのために、ことばが勝手に動いて行って、勝手に「肉体」になってしまう。そういうときの、伸びやかな輝きがここにある。
(ちょっと「現代詩」っぽい感想になってきたかな?)
だいたいねえ、「眩暈原論」はいいとして「眩暈地平」って何なのさ。「眩暈」の定義もまだなのに(それとも、この詩は2だから、1で定義がすんでいるのかな?)、その「眩暈」に「地平」をくっつけて、あたかもことばの運動が新しい次元にはいりこんだかのように装うなんて、
わ、いいかげん、
ことばの「論理」というか、「論理」そのものというか、いったい野村はどう考えているのか。「論理」というのは、ひとつひとつのことばの定義を明確にして、それから積み上げていくのものだ、野村は、そういう積み上げを最初から拒否している。拒否しながら「眩暈」+「地平」とことばを「積み上げ」てしまう。
ことばはとても不思議で、積み上げると(組み合わせて新しい何かにしてしまうと)、そこにいままでなかったものが存在してしまう。そして、存在してしまうと、その「論理」が不明でも、次の「論理」の土台になってしまう、ということがある。
そういうことを、「原論」というような、なにやら「論理」っぽいことばでひっぱって、やってしまう。野村がここでやっているのは、そういうことである。
あ、読んでいる私の方が「おいおい」と言いたくなる。
おいおい、ことばの上にことばを乗せて、あれっ、でも「眩暈地平」って、「眩暈」の上に「地平」がのっているの? それとも逆? 「地平」の上に「眩暈」がのっているの? ああ、ことばの死、ことばの論理はどこへ行ってしまうのか。
どうでもいい。「おいおい、……」の1行は、きっと「おいおい、」と書きたかったから書いただけなのだ。「おいおい、」と書くことで、「原論」を茶化したかったのだ。「現代詩」っぽいことばでいえば、「解放」したかったのだ。
「原論」なんて、窮屈なものは、ことばを解放し、もっと「肉体」に密着したところから動かしていかないと形にならない--ということだろう。
「疑似論理」を追いかけても、「疑似」世界にしかたどりつけないだろう。ここにあるのは「疑似」時間「論」である。ほんとうのことが書かれているとしたら「マジで」という部分だけだろう。
前に引用した部分で、ほんとうのことばは「おいおい、」だけ。そしてここでは「マジで」だけてある。それは「流通言語」の「論理」が封印してきたことば、「書きことば」が封印してきたことばである。
「書きことば」を書きながら(書きつつ、という意味ですよ)、解放したい。その矛盾と向き合いながら、ことばを揺さぶっている。そのゆさぶりは、効果があるのかどう、よくわからない。一冊にまとまると、「疑似」論理が「疑似」ではなくなるだろう。それまで、野村はことばにことばを「乗せる」。
これは上に「乗せる」、積み上げるだけではなく、調子づかせる、という意味でもある。
*
川江一二三「蕎麦を届ける」は1行の文字数を限定した「視覚」の定型詩である。「視覚」を重視しているから、その乱調もまた「視覚」の上において起きる。
後半にも、今度は上ではなく、下に5文字はみだした行があるが、省略。
川江は、視覚にも「論理」があるということをからかっている。くすぐっている。
海埜今日子「《あついみず》」はひらがなでかかれている。ここでは「意味」ではなく、音が音そのものとして、互いに呼び合っている。それは野村の書いている「リズム」に「乗る」というのとはまた違った「乗り」である。「乗り」というよりは、逆に「沈み」といった方がいいかもしれない。
野村のことばが調子に乗って、適当に、いま、ここではないどこかへ飛んで行ってしまって、ほら、これが飛んだときの「奇蹟」じゃなかった、「軌跡」--つまり、「論理」と主張するとしたら……。
海埜のことばは、ことばの奥底へ沈んでゆく。そうすることで、ことばが「論理」(流通言語)になるのを拒絶する。
海埜は、この感覚を共有されたくない--という思いを共有してほしいと願ってことばを揺さぶっている。矛盾の中で、ことばを揺さぶっている。
野村喜和夫「眩暈原論(2)」は何を書いているのだろうか。何も書いていないなあ。強いて言えば、「書く」ということを書いている--いや、楽しんでいる。それだけである。「意味」をそこに求めてはいけないのだと思う。「意味」を求めると、わけがわからないし、おもしろくない。
最初のゆらぎはめざめのとき。宇宙めく夜のこめかみの境界を散り散りにして、胎児めく生気の何かしらクレッシェンド。その影が菫色になって、木の葉になって、霞になって、血の川の流れの絶え間ないノイズにもなって。だがやがて、眩暈地平にあっては、すべては絹、音楽も絹、乳房も絹、死ぬまでも絹。おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。
ここには何もないけれど、リズムがある。そして、野村はリズムだけで書いている。リズムに乗せてことばを動かしている内、そこから何か生まれてくればいい。生まれてこなくて、リズムだけが取り残されてもいい。
何も考えていない。それが「快感」である。
死ぬまでも絹。
これ、いいなあ。
「死ぬまでも」なんだよ。と、わざと書いて、「死ぬ」って、きっと「いく」と同じことだよね、とわどと書いておこう。ここでは。
ね、いいかげんでしょ?
あ、これはきっと注釈がいるなあ。
この「いいかげん」がいい、というのは、そこには「抑圧」がないからなのだ。ことばに対して「抑圧」がない。そのために、ことばが勝手に動いて行って、勝手に「肉体」になってしまう。そういうときの、伸びやかな輝きがここにある。
(ちょっと「現代詩」っぽい感想になってきたかな?)
だいたいねえ、「眩暈原論」はいいとして「眩暈地平」って何なのさ。「眩暈」の定義もまだなのに(それとも、この詩は2だから、1で定義がすんでいるのかな?)、その「眩暈」に「地平」をくっつけて、あたかもことばの運動が新しい次元にはいりこんだかのように装うなんて、
わ、いいかげん、
ことばの「論理」というか、「論理」そのものというか、いったい野村はどう考えているのか。「論理」というのは、ひとつひとつのことばの定義を明確にして、それから積み上げていくのものだ、野村は、そういう積み上げを最初から拒否している。拒否しながら「眩暈」+「地平」とことばを「積み上げ」てしまう。
ことばはとても不思議で、積み上げると(組み合わせて新しい何かにしてしまうと)、そこにいままでなかったものが存在してしまう。そして、存在してしまうと、その「論理」が不明でも、次の「論理」の土台になってしまう、ということがある。
そういうことを、「原論」というような、なにやら「論理」っぽいことばでひっぱって、やってしまう。野村がここでやっているのは、そういうことである。
おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。
あ、読んでいる私の方が「おいおい」と言いたくなる。
おいおい、ことばの上にことばを乗せて、あれっ、でも「眩暈地平」って、「眩暈」の上に「地平」がのっているの? それとも逆? 「地平」の上に「眩暈」がのっているの? ああ、ことばの死、ことばの論理はどこへ行ってしまうのか。
どうでもいい。「おいおい、……」の1行は、きっと「おいおい、」と書きたかったから書いただけなのだ。「おいおい、」と書くことで、「原論」を茶化したかったのだ。「現代詩」っぽいことばでいえば、「解放」したかったのだ。
「原論」なんて、窮屈なものは、ことばを解放し、もっと「肉体」に密着したところから動かしていかないと形にならない--ということだろう。
時の軸のうえの逃走もまた眩暈主体を作動させるか。時を駆ける少女、とかいたな。それより、ガムようにいまこの瞬間を引き伸ばせたらどんなに面白いだろう。マジで眩暈とは、瞬間の永遠性がそこにのぞく時間の裂け目に呑み込まれることではないか。
「疑似論理」を追いかけても、「疑似」世界にしかたどりつけないだろう。ここにあるのは「疑似」時間「論」である。ほんとうのことが書かれているとしたら「マジで」という部分だけだろう。
前に引用した部分で、ほんとうのことばは「おいおい、」だけ。そしてここでは「マジで」だけてある。それは「流通言語」の「論理」が封印してきたことば、「書きことば」が封印してきたことばである。
「書きことば」を書きながら(書きつつ、という意味ですよ)、解放したい。その矛盾と向き合いながら、ことばを揺さぶっている。そのゆさぶりは、効果があるのかどう、よくわからない。一冊にまとまると、「疑似」論理が「疑似」ではなくなるだろう。それまで、野村はことばにことばを「乗せる」。
これは上に「乗せる」、積み上げるだけではなく、調子づかせる、という意味でもある。
*
川江一二三「蕎麦を届ける」は1行の文字数を限定した「視覚」の定型詩である。「視覚」を重視しているから、その乱調もまた「視覚」の上において起きる。
掛け捨てならひとりではなく大勢で
にぎやかに太鼓を叩いて楽しみます
わたしはよそものです 五文字はみ出しており
立っている場所はいつでも辺境の地
あたたかい橙色のひかりをさけつつ
後半にも、今度は上ではなく、下に5文字はみだした行があるが、省略。
川江は、視覚にも「論理」があるということをからかっている。くすぐっている。
海埜今日子「《あついみず》」はひらがなでかかれている。ここでは「意味」ではなく、音が音そのものとして、互いに呼び合っている。それは野村の書いている「リズム」に「乗る」というのとはまた違った「乗り」である。「乗り」というよりは、逆に「沈み」といった方がいいかもしれない。
野村のことばが調子に乗って、適当に、いま、ここではないどこかへ飛んで行ってしまって、ほら、これが飛んだときの「奇蹟」じゃなかった、「軌跡」--つまり、「論理」と主張するとしたら……。
海埜のことばは、ことばの奥底へ沈んでゆく。そうすることで、ことばが「論理」(流通言語)になるのを拒絶する。
海埜は、この感覚を共有されたくない--という思いを共有してほしいと願ってことばを揺さぶっている。矛盾の中で、ことばを揺さぶっている。
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