北川透『わがブーメラン乱帰線』(8)(思潮社、2010年04月01日発行)
北川の今回の詩集を読みはじめたとき、私はその日の「日記」の最後に(つづく)と書いたはずだが、そして、いまもその感想を書きつづけているといえはいえるのだけれど、うーん、「持続感」がない。つづけているのか、それともまったく関係がなくなってきているのか、よくわからない。
北川の書いているものって、詩なのかなあ。
もしかすると、詩のふりをしていることばかもしれない。詩のふりをしながら、詩について考えていることば。でも、そのことばが、詩のふりをしてしまうと、そのふりにことばがひっぱられていつのまにか詩になってしまって、こんなはずじゃなかったともがいている感じ。詩をこわしたいのに、そのこわすということばの暴走が詩になってしまう。
何か変。
そのことばを借りて書き直せば、
わからないが、そのわからなさだけが、うそではないことがらかもしれない。
最初のころは、北川は、詩を書くぞと張り切っていたが、だんだん、ああ、詩が書けないと嘆きながら、詩ってなんなのさ、とその方向へことばを動かしはじめている。
北川が書いていることばは、学校教科書でいう「詩」とはかなり違っているが、そしてそれが詩であるかどうかは、まあ、わからないが、詩について考えているという、そのことばの運動のなかには、うそではなく、ほんとうが書かれている。
ほんとうは、詩って何、という問いと、その問いに対してことばを吐き出したいという北川の思いのなかにある。あ、思いなんて、いっちゃいけないなあ。その問いに対して動きはじめたことばのなかにだけある。そして、それはとまっているときは見えない。動いているときにだけ、見える--そういうものである。
動いているときにだけ見える--というのは。
つまり、私は、こうして北川のことばをときどき引用しながら私自身が感じたこと、考えたことを書いているのだが、その私の書いたもののなかには、もうすでに何もない。何も見えない。ただ、北川のことばを追いかけて私がことばを書いているというその瞬間にだけ、私には北川がとても身近に感じられる、ということである。
書く。ことばを書く。そのときだけ、詩は、ふいにあらわれ、書き終わると、そんなものなんてどこにもないさ、と消えてしまう。
この感覚は--たぶん、こういう書き方は強引すぎるのだろうけれど、北川にもあると思う。書いている、その瞬間だけ北川は詩にふれている。詩を実感できる。けれど、書いてしまうと、それは詩ではないという形でしか、詩であることを証明できない。そういう矛盾した感じ……。
ここに書かれていることばを、私は書き換えたい欲望に襲われる。「わたし」とは「流通言語」、「娘」とは「詩にあこがれることば」。「男」は「詩」である。ことばは詩にあこがれ、詩とセックスをする。それが、どういうものか、かいもく見当がつかないが、若い娘がセックスが何かまったく知らなくても現実にセックスできるのと同じように、ことばはいつだって詩とセックスできる。詩とセックスし、詩の快感を存分に味わうことができる。でも、その味わったよろこび、味わいながらことばがことばを超えていった瞬間(エクスタシーの瞬間)は、あとから語るとみんな「ウソ」。「ウソ」になってしまう。「本当の事」はセックスしている瞬間にしかない。
瞬間にしかないとわかっているのに、書く--書くことの中に、瞬間と、瞬間をこえる暴走がある。書かれてしまったものには、もう、暴走する力はないかもしれない。けれど、書くというその瞬間は、暴走するのだ、ことばが。
それはたしかにそうである。「流通言語」では。
けれど、詩を書く--その書くという瞬間において、沙漠に反乱が起きるとき、石はパンになる。ゴキブリはライオンに化けるだけではなく、ライオンになる。
いつだって、書くとは「なる」ことなのだ。
北川が、
これは、ウソではなく「本当の事」なのだ。そう書いているとき、北川は、男ではなく「女」に「なる」。ことばは北川を「女」にしてしまう。ことばによって、北川は「女」にされてしまう。されてしまうというのが、まあ、私の感覚では「ほんとう」のことなのだけれど、そのことを北川なら「なる」というと思う。
書くことで「なる」。
これは、むちゃくちゃな定義かもしれない。
でも、むちゃくちゃだから、真実である。
北川のことばは、まだまだ「つづく」。そのことばは「なる」ということを繰り返し繰り返し、また繰り返して、その残骸を上の上に残しつづける。その残骸は詩ではない。だが、その残骸がさらにえんえんと残骸を産みつづけるならば、そのときは、それが詩である。
我田引水して言いなおすと。
北川のことば--それが詩集の形で一冊であるとき、それは残骸である。けれども、たとえば、私が、あるいは別の誰かが、その残骸に触れながら、さらに残骸を増殖させるなら、その増殖の瞬間においては、それは詩なのだ。そのとき、私が北川のことばを増殖させていると思うのは、実は、私の錯覚であって、そのとき、私が増殖させたことばを突き破って、北川のことばこそが増殖する。拡大する。さらに暴走する。そういう運動が、詩というものだと思う。
だから、私は、書く。私の書いていることは、あいかわらず「誤読」である。私は「誤読」しか書かないが、それは「誤読」こそが、ことばの暴走、拡大の瞬間だと信じているからだ。
北川の今回の詩集を読みはじめたとき、私はその日の「日記」の最後に(つづく)と書いたはずだが、そして、いまもその感想を書きつづけているといえはいえるのだけれど、うーん、「持続感」がない。つづけているのか、それともまったく関係がなくなってきているのか、よくわからない。
北川の書いているものって、詩なのかなあ。
もしかすると、詩のふりをしていることばかもしれない。詩のふりをしながら、詩について考えていることば。でも、そのことばが、詩のふりをしてしまうと、そのふりにことばがひっぱられていつのまにか詩になってしまって、こんなはずじゃなかったともがいている感じ。詩をこわしたいのに、そのこわすということばの暴走が詩になってしまう。
何か変。
「大朗読」の日が近づいている。
朗読って、詩の不可能を証明するために朗読するの?
それとも、朗読の不可能を証明するために朗読するの?
そのことばを借りて書き直せば、
詩は、詩の不可能を証明するために存在るの?
それとも、詩の不可能を証明するために詩は書かれるの?
詩の不可能を証明できたときに、ことばは詩になるの?
わからないが、そのわからなさだけが、うそではないことがらかもしれない。
最初のころは、北川は、詩を書くぞと張り切っていたが、だんだん、ああ、詩が書けないと嘆きながら、詩ってなんなのさ、とその方向へことばを動かしはじめている。
北川が書いていることばは、学校教科書でいう「詩」とはかなり違っているが、そしてそれが詩であるかどうかは、まあ、わからないが、詩について考えているという、そのことばの運動のなかには、うそではなく、ほんとうが書かれている。
ほんとうは、詩って何、という問いと、その問いに対してことばを吐き出したいという北川の思いのなかにある。あ、思いなんて、いっちゃいけないなあ。その問いに対して動きはじめたことばのなかにだけある。そして、それはとまっているときは見えない。動いているときにだけ、見える--そういうものである。
動いているときにだけ見える--というのは。
つまり、私は、こうして北川のことばをときどき引用しながら私自身が感じたこと、考えたことを書いているのだが、その私の書いたもののなかには、もうすでに何もない。何も見えない。ただ、北川のことばを追いかけて私がことばを書いているというその瞬間にだけ、私には北川がとても身近に感じられる、ということである。
書く。ことばを書く。そのときだけ、詩は、ふいにあらわれ、書き終わると、そんなものなんてどこにもないさ、と消えてしまう。
この感覚は--たぶん、こういう書き方は強引すぎるのだろうけれど、北川にもあると思う。書いている、その瞬間だけ北川は詩にふれている。詩を実感できる。けれど、書いてしまうと、それは詩ではないという形でしか、詩であることを証明できない。そういう矛盾した感じ……。
……いったい誰があんたに詩を書くことを教えたの?
わたしは従順で無力な娘を転がしながら、何度も責めた。
娘にとっても、わたしにとっても忘れられないあの夜。
わたしに背いて、知らない男とあんたは寝た。
それが憎いのではない。わたしにはウソを突き通して、
詩の中にだけ本当の事を書いた。
あんたはオトコとヤッタだけじゃないのよ。詩とヤッタ。
それが許せない。わたしにはいつもウソばっかり。
ここに書かれていることばを、私は書き換えたい欲望に襲われる。「わたし」とは「流通言語」、「娘」とは「詩にあこがれることば」。「男」は「詩」である。ことばは詩にあこがれ、詩とセックスをする。それが、どういうものか、かいもく見当がつかないが、若い娘がセックスが何かまったく知らなくても現実にセックスできるのと同じように、ことばはいつだって詩とセックスできる。詩とセックスし、詩の快感を存分に味わうことができる。でも、その味わったよろこび、味わいながらことばがことばを超えていった瞬間(エクスタシーの瞬間)は、あとから語るとみんな「ウソ」。「ウソ」になってしまう。「本当の事」はセックスしている瞬間にしかない。
瞬間にしかないとわかっているのに、書く--書くことの中に、瞬間と、瞬間をこえる暴走がある。書かれてしまったものには、もう、暴走する力はないかもしれない。けれど、書くというその瞬間は、暴走するのだ、ことばが。
詩はチベットの文字ではない。詩に完成を求めるな。
何度、沙漠に反乱が起こっても、石はパンに変わらず、
ゴキブリはライオンに化けない。
それはたしかにそうである。「流通言語」では。
けれど、詩を書く--その書くという瞬間において、沙漠に反乱が起きるとき、石はパンになる。ゴキブリはライオンに化けるだけではなく、ライオンになる。
いつだって、書くとは「なる」ことなのだ。
北川が、
本当のことを言おうか。
わたしは男の振りをしているが、男ではない。
詩を書き始めると声が変わる、でも、朗読しなければ分からない。
十行ほども詩を書いていると、わたしの胸は次第に膨らんでくる。
これは、ウソではなく「本当の事」なのだ。そう書いているとき、北川は、男ではなく「女」に「なる」。ことばは北川を「女」にしてしまう。ことばによって、北川は「女」にされてしまう。されてしまうというのが、まあ、私の感覚では「ほんとう」のことなのだけれど、そのことを北川なら「なる」というと思う。
書くことで「なる」。
これは、むちゃくちゃな定義かもしれない。
でも、むちゃくちゃだから、真実である。
北川のことばは、まだまだ「つづく」。そのことばは「なる」ということを繰り返し繰り返し、また繰り返して、その残骸を上の上に残しつづける。その残骸は詩ではない。だが、その残骸がさらにえんえんと残骸を産みつづけるならば、そのときは、それが詩である。
我田引水して言いなおすと。
北川のことば--それが詩集の形で一冊であるとき、それは残骸である。けれども、たとえば、私が、あるいは別の誰かが、その残骸に触れながら、さらに残骸を増殖させるなら、その増殖の瞬間においては、それは詩なのだ。そのとき、私が北川のことばを増殖させていると思うのは、実は、私の錯覚であって、そのとき、私が増殖させたことばを突き破って、北川のことばこそが増殖する。拡大する。さらに暴走する。そういう運動が、詩というものだと思う。
だから、私は、書く。私の書いていることは、あいかわらず「誤読」である。私は「誤読」しか書かないが、それは「誤読」こそが、ことばの暴走、拡大の瞬間だと信じているからだ。
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