池井昌樹「微光」(「歴程」568 、2010年04月30日発行)
詩は、いつでも「矛盾」のなかにある。池井昌樹「微光」にも、「矛盾」があり、その「矛盾」の前で、私は一瞬、方向性を失う。放心してしまう。その瞬間に、詩を感じる。
「もっととおくから」「かえりつづけ」る。これは、多くの人が感じることかもしれない。自分の過去が、知っている過去を超えて、もっと遠くにもある。過去のむこうに過去がある。それは、たとえばこの詩で書かれている「はは」の過去、そして出会う前の「つま」の過去であるかもしれない。「人間の過去」「いのちの過去」と言えば、その深いふかい過去があたたかい血のように鼓動を打っているのがわかる。
でも、「もっととおくへ」「かえりつづけ」る。これは、どうだろう。
「もっととおく」には何があるのか。「ははのうち」は、あるのか。「つまのうち」(つまと、わたしのうち)は、あるのか。
そもそも知らない「とおく」、「未来」へ「かえる」ということばはありうるのか。
そういうことばは、ない。
そういうことばは、ない。
あるのは、「未来」へ「ゆく」ということばだ。
未来「へ」かえる--ということばは、ない。そして、それは「矛盾」だ。
そういうことばは、ない。ないけれど、書いてしまうと、そこにあらわれてくる。それは書いたときに、はじめてあらわれてくるものである。
書くことによって、ことばによって、なかったものが、「いま」「ここ」にあらわれてくる。
これが、詩である。
そして、詩のなかで、「矛盾」は別の「矛盾」を呼び込み、それをとかしてしまう。区別をないものにしてしまう。
「ついえるもの」と「ついえぬもの」が出会い、そこに「ほほえみ」だけが残される。「矛盾」は「ほほえみ」になる。
その「ほほえみ」が、「ほほえむ」と「動詞」になっているのは、そのとき池井自身が「動詞」だからである。「人間」という存在ではなく、「いのち」という「人間」を超えて、過去も未来もないところまで動いていく「動詞」だからである。
でも、それは、何と名づけるものなのだろう。私は仮に「いのち」と呼んだけれど、ほんとうは何と呼ぶべきものなのだろう。
池井は、それに対して「答え」を書いている。
あ、それには「名前」などないのだ。それは「名前」で呼べないのだ。
「名もない存在(何か)」を、「流通言語」では、価値のないものと定義している。「名前」とは「価値」なのだ。
だが、池井はそうではなく、別の「なもない」をここでは書いているのだ。
「なもない」何かは、その存在がことばに比べて尊すぎるのだ。
とうとい--のなかにはとおい(とうい)が含まれている。そこへ、池井は帰る、帰ろうとしつづけている。まだ、池井のことば(なまえ)で汚されていない、純粋な、何かへむけて。
そのときの「帰る」という「動詞」をまっとうするとき、その先にあらわれる「ほほえみ」は、池井の「帰る」という「動詞」を「ほほえむ」という「動詞」にかえて、のみこんでしまうだろう。
そういう「動き」(動詞)としてのありようを、池井は「微光」として感じているのだ。
詩は、いつでも「矛盾」のなかにある。池井昌樹「微光」にも、「矛盾」があり、その「矛盾」の前で、私は一瞬、方向性を失う。放心してしまう。その瞬間に、詩を感じる。
わたしはどこからきたんだろう
そうしてどこへゆくんだろう
ははとくらしたいなかのうちから
つまとふたりでくらすうちまで
たかだかしれたみちのりを
いままたひとりかえるころ
わたしはもっととおくから
そうしてもっととおくへと
かえりつづけていたような
「もっととおくから」「かえりつづけ」る。これは、多くの人が感じることかもしれない。自分の過去が、知っている過去を超えて、もっと遠くにもある。過去のむこうに過去がある。それは、たとえばこの詩で書かれている「はは」の過去、そして出会う前の「つま」の過去であるかもしれない。「人間の過去」「いのちの過去」と言えば、その深いふかい過去があたたかい血のように鼓動を打っているのがわかる。
でも、「もっととおくへ」「かえりつづけ」る。これは、どうだろう。
「もっととおく」には何があるのか。「ははのうち」は、あるのか。「つまのうち」(つまと、わたしのうち)は、あるのか。
そもそも知らない「とおく」、「未来」へ「かえる」ということばはありうるのか。
そういうことばは、ない。
そういうことばは、ない。
あるのは、「未来」へ「ゆく」ということばだ。
未来「へ」かえる--ということばは、ない。そして、それは「矛盾」だ。
そういうことばは、ない。ないけれど、書いてしまうと、そこにあらわれてくる。それは書いたときに、はじめてあらわれてくるものである。
書くことによって、ことばによって、なかったものが、「いま」「ここ」にあらわれてくる。
これが、詩である。
そして、詩のなかで、「矛盾」は別の「矛盾」を呼び込み、それをとかしてしまう。区別をないものにしてしまう。
こんなみにくいひとのよなのに
こんないやしいひとのこなのに
なもないみどりにつつまれた
なもないまちのどこかしら
なもないあかりのともるころ
やがてついえるみにくさに
やがてついえるいやしさに
ついえぬものの
ほほえむような
「ついえるもの」と「ついえぬもの」が出会い、そこに「ほほえみ」だけが残される。「矛盾」は「ほほえみ」になる。
その「ほほえみ」が、「ほほえむ」と「動詞」になっているのは、そのとき池井自身が「動詞」だからである。「人間」という存在ではなく、「いのち」という「人間」を超えて、過去も未来もないところまで動いていく「動詞」だからである。
でも、それは、何と名づけるものなのだろう。私は仮に「いのち」と呼んだけれど、ほんとうは何と呼ぶべきものなのだろう。
池井は、それに対して「答え」を書いている。
なもない
あ、それには「名前」などないのだ。それは「名前」で呼べないのだ。
「名もない存在(何か)」を、「流通言語」では、価値のないものと定義している。「名前」とは「価値」なのだ。
だが、池井はそうではなく、別の「なもない」をここでは書いているのだ。
「なもない」何かは、その存在がことばに比べて尊すぎるのだ。
とうとい--のなかにはとおい(とうい)が含まれている。そこへ、池井は帰る、帰ろうとしつづけている。まだ、池井のことば(なまえ)で汚されていない、純粋な、何かへむけて。
そのときの「帰る」という「動詞」をまっとうするとき、その先にあらわれる「ほほえみ」は、池井の「帰る」という「動詞」を「ほほえむ」という「動詞」にかえて、のみこんでしまうだろう。
そういう「動き」(動詞)としてのありようを、池井は「微光」として感じているのだ。
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