詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」(★★★)

2010-05-03 17:35:32 | 午前十時の映画祭

監督 ウィリアム・ワイラー 出演 チャールトン・ヘストン、ジャック・ホーキンス、スティーブン・ボイド

 「午前十時の映画祭」13本目。
 この映画の一番面白いのは「序曲」。スクリーンには何も映っていない(あ、「序曲」という文字、「あと○分で上映」が出る)。これを観客が一緒に見つめながら、待っている。このときの「待っている」感じがいいなあ。
 客が少ないと、げんなりするけれど、満員だったらぜったいわくわくする。(5月1日の「オーケストラ!」の感想を読んでみてください。満員効果について、書きました。)5月3日の天神東宝、午前10時からの回を見たけれど、微妙な客席の埋まりよう。興奮をもたらす人数には遠い。で、「あ、そうだった、序曲があったんだ」と昔を思い出し、まるでオペラだななんて、余分(?)なことを考えてしまったけれど、余分なことを考えながらも、これから始まるんだという気持ちをだんだん高めていくのはなかなか楽しい。
 映画は、うーん、昔はCGがなくて人海戦術だったから大変だな、ということを思うくらいかなあ。
 戦車(競馬?)のシーンが意外に短いのと、そのクライマックスのあとが長いのにびっくりした。頭のなかでは、戦車シーンでおわっていたなあ、この映画。はるか昔、チャールトン・ヘストンの戦車が倒れた戦車の上に乗り上げ、ヘストンが落ちそうになる。それを持ちこたえて、乗りなおすシーンで拍手が起きた。よかったなあ、あの興奮というか、観客の一体感。いまは、これくらいのシーンはありきたりで、拍手はもちろん、感嘆の声も起きない。
 時代はかわったね。
 むかしのまま、中断(間奏曲3分)つきで上映されたのだけれど、あ、これが失敗だねえ。いまは一気に見せないと、興奮が起きない。「序曲」で感じたわくわくは、休憩中断で消えてしまっていた。観客全体が、だらけた感じになっていた。
 むずかしいね。
 戦車のシーンは、あ、こんな映像よく撮ったなあと感心する。むかしのスタントマンは大変だ、と思うけれど。
 なんといえばいいんだろう、あのころの演技は今見ると退屈。ストーリーを語ることに一生懸命で、おもしろくない。チャールトン・ヘストンが若くて、あ、意外とかわいいじゃないか、なんて変な感想だけ思いつく。ようするに、のめりこめない。
 


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竹田朔歩『鳥が啼くか π』(4)

2010-05-03 00:00:00 | 詩集
竹田朔歩『鳥が啼くか π』(4)(書肆山田、2010年04月05日発行)

 竹田の詩集について書くのは4回目である。実は、困ったのである。(「日記」だから、私はこんなことも書いてしまう。)
 竹田の『鳥が啼くか π』はとてもいい詩集である。もし 100点満点で点数をつけると私は90点以上を、もしかすると95点以上をつける。けれども、そんなふうにいい詩集だなあとわかっていながら、どうにも「好きなことば」と出会わないのである。それで困ってしまう。
 私は5月1日、KBCシネマ1(福岡市)で「オーケストラ!」という映画を見た。その感想は5月1日の「日記」に書いた。その映画のなかで、音楽とはいくつもの楽器が集まり、互いの音を聞きながらハーモニーをめざす、という「哲学」が語られる。映画はその「哲学」の実践であった。
 その映画を見終わって、感想を書いて、しばらくしてから、私は詩の感想を書いているけれど、はたして、その詩と「ひとつ」になることばを書けているだろうか、と気になった。感想を書くというのは、きっと他人のことば(詩人のことば)と私のことばを出会わせ、そこで一種の「ハーモニー」を奏でるということなのだと思うのだが、そんなふうにして私のことばは響くかな? 響いているかな?と気になったのである。
 そのことをふと思い出して、他人のことばと私のことばが「ひとつ」になるためには、まず、他人のことばが好きでないとだめだろうなあ、と思った。そのことばが好きだから、それにあわせて何かを言ってみたい。自分のことばを出会わせ、そこから動きはじめるものにしたがって、ことばを動かしていきたい--というふうに私は書いているのだが、うーん、どうにも竹田の今回の詩集からは、そういうことば、そういう1行が見つからない。
 ことばがしっかりしている。ゆるがない。きちんとした「土台」をもったことばで構築された世界--そういうことが読めば読むほどわかってくる。そして、あ、この詩集は80点、いや90点、それ以上95点以上の作品だなという思いが強くなるのに、好きなことばが見つからない。
 困ってしまう。

身体の裡なる
精神性 素粒子の彩りは
きわめて意図的で偏愛的な そのだまし絵の様相--
ルドルフ二世のメタモルフォシスに乱舞している

 「寓意の獲物を狩る--アルチンボルドへの偏愛--」という詩のなかの4行だが、こういう部分を他のひとはどんなふうに読むのだろうか。この4行から好きなことばを選べと言われたら何を選ぶだろうか。
 このことばに、こんなことばをぶつけてみたら、どんな響きが広がるかな、という感心が私にはわいてこない。
 「身体」「裡」「精神」「素粒子」
 どれも完璧に響きあっている。そこに入り込む余裕がない。竹田のことばの「和音」は閉ざされた構図をもっているということかもしれない。
 そして、その構図は、いま引用した部分に則していうと、「身体」「精神」というような「二元論」の構図なのである。「二元論」が完璧にできあがってしまっている。そういう「響き」を感じてしまう。
 そして、そのことにも、私はまた困ってしまう。
 「石橋(しゃっきょう)」には、次の行がある。

目をほそめて 目を凝らす  無一物の表象は わたしを型づくる

 これは「一元論」の世界だと思う。

「主観」と「客観」の

あるがままる《一致》が 顛倒し  推論の川に流れていく

その推論が 八方へ延長され

その現象は「還元」させる

 これも「一元論」だと思う。

縦横無尽の身体は  色即是空   空即是色 --

 これもまた「一元論」である。
 「一元論」であるにもかかわらず、なんといえばいいのだろう、なんだか「矛盾」がない。きちんと整理されすぎている、という感じがしてしまう。
 世界には「一元論」と「二元論」がある、と、そのことさえも「構図」として理解している、その両方を見ている--一種の「第三者」、あるいは「神の目」で見ているという雰囲気がある。
 「神の目」を信じられるひとには、竹田の詩はいいだろうなあ。 100点をつけるだろうなあ、と思う。私も、それはそれで 100点であってかまわないとは思うのだが、その世界に招待されるようなことがあったとしたら、どうしても「遠慮させてください」と言ってしまいそうなのだ。

 ほかのひとはどうするかなあ。あ、そうだ、井坂洋子が書いていた栞(?)があったなあ。
 その最後の部分。

 それはかなみしからではない
 おおいなる重層の語らい--
 裡なる双身の鏡は  しろい貌を映し出し
 優雅に象られ 生きた証しとして
 耳元にすぎていく コンチネンタル・タンゴの繊(ほそ)い音色よ
 過ぎ去った日の脚の搬びよ

 ある日を振り返る姿勢の、このように敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現に、竹田朔歩のじつは困難な闘いが見えるようにも思う。

 すばらしいなあ。美しい文章だなあ。「敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現」。その背後には「困難な闘い」があるのか。うーん、でも、この井坂の評価は、「二元論」の評価だねえ。「敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現」は「ことばの身体」、「困難な闘い」は「ことばの精神」、あるいは逆に「敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現」は「ことばの精神」であり、「困難な闘い」は「ことばの肉体」であるかもしれない。どっちであってもかまわない(というと乱暴だけれど)。しかし、冷静だねえ。井坂という詩人はとてもとても頭のいいひとなんだなあ。
 私は感想など書かずに、井坂の栞を読んでください、とだけ、書けばよかったのかもしれない。

サム・フランシスの恁麼
竹田 朔歩
書肆山田

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井坂 洋子
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