竹田朔歩『鳥が啼くか π』(4)(書肆山田、2010年04月05日発行)
竹田の詩集について書くのは4回目である。実は、困ったのである。(「日記」だから、私はこんなことも書いてしまう。)
竹田の『鳥が啼くか π』はとてもいい詩集である。もし 100点満点で点数をつけると私は90点以上を、もしかすると95点以上をつける。けれども、そんなふうにいい詩集だなあとわかっていながら、どうにも「好きなことば」と出会わないのである。それで困ってしまう。
私は5月1日、KBCシネマ1(福岡市)で「オーケストラ!」という映画を見た。その感想は5月1日の「日記」に書いた。その映画のなかで、音楽とはいくつもの楽器が集まり、互いの音を聞きながらハーモニーをめざす、という「哲学」が語られる。映画はその「哲学」の実践であった。
その映画を見終わって、感想を書いて、しばらくしてから、私は詩の感想を書いているけれど、はたして、その詩と「ひとつ」になることばを書けているだろうか、と気になった。感想を書くというのは、きっと他人のことば(詩人のことば)と私のことばを出会わせ、そこで一種の「ハーモニー」を奏でるということなのだと思うのだが、そんなふうにして私のことばは響くかな? 響いているかな?と気になったのである。
そのことをふと思い出して、他人のことばと私のことばが「ひとつ」になるためには、まず、他人のことばが好きでないとだめだろうなあ、と思った。そのことばが好きだから、それにあわせて何かを言ってみたい。自分のことばを出会わせ、そこから動きはじめるものにしたがって、ことばを動かしていきたい--というふうに私は書いているのだが、うーん、どうにも竹田の今回の詩集からは、そういうことば、そういう1行が見つからない。
ことばがしっかりしている。ゆるがない。きちんとした「土台」をもったことばで構築された世界--そういうことが読めば読むほどわかってくる。そして、あ、この詩集は80点、いや90点、それ以上95点以上の作品だなという思いが強くなるのに、好きなことばが見つからない。
困ってしまう。
身体の裡なる
精神性 素粒子の彩りは
きわめて意図的で偏愛的な そのだまし絵の様相--
ルドルフ二世のメタモルフォシスに乱舞している
「寓意の獲物を狩る--アルチンボルドへの偏愛--」という詩のなかの4行だが、こういう部分を他のひとはどんなふうに読むのだろうか。この4行から好きなことばを選べと言われたら何を選ぶだろうか。
このことばに、こんなことばをぶつけてみたら、どんな響きが広がるかな、という感心が私にはわいてこない。
「身体」「裡」「精神」「素粒子」
どれも完璧に響きあっている。そこに入り込む余裕がない。竹田のことばの「和音」は閉ざされた構図をもっているということかもしれない。
そして、その構図は、いま引用した部分に則していうと、「身体」「精神」というような「二元論」の構図なのである。「二元論」が完璧にできあがってしまっている。そういう「響き」を感じてしまう。
そして、そのことにも、私はまた困ってしまう。
「石橋(しゃっきょう)」には、次の行がある。
目をほそめて 目を凝らす 無一物の表象は わたしを型づくる
これは「一元論」の世界だと思う。
「主観」と「客観」の
あるがままる《一致》が 顛倒し 推論の川に流れていく
その推論が 八方へ延長され
その現象は「還元」させる
これも「一元論」だと思う。
縦横無尽の身体は 色即是空 空即是色 --
これもまた「一元論」である。
「一元論」であるにもかかわらず、なんといえばいいのだろう、なんだか「矛盾」がない。きちんと整理されすぎている、という感じがしてしまう。
世界には「一元論」と「二元論」がある、と、そのことさえも「構図」として理解している、その両方を見ている--一種の「第三者」、あるいは「神の目」で見ているという雰囲気がある。
「神の目」を信じられるひとには、竹田の詩はいいだろうなあ。 100点をつけるだろうなあ、と思う。私も、それはそれで 100点であってかまわないとは思うのだが、その世界に招待されるようなことがあったとしたら、どうしても「遠慮させてください」と言ってしまいそうなのだ。
ほかのひとはどうするかなあ。あ、そうだ、井坂洋子が書いていた栞(?)があったなあ。
その最後の部分。
それはかなみしからではない
おおいなる重層の語らい--
裡なる双身の鏡は しろい貌を映し出し
優雅に象られ 生きた証しとして
耳元にすぎていく コンチネンタル・タンゴの繊(ほそ)い音色よ
過ぎ去った日の脚の搬びよ
ある日を振り返る姿勢の、このように敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現に、竹田朔歩のじつは困難な闘いが見えるようにも思う。
すばらしいなあ。美しい文章だなあ。「敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現」。その背後には「困難な闘い」があるのか。うーん、でも、この井坂の評価は、「二元論」の評価だねえ。「敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現」は「ことばの身体」、「困難な闘い」は「ことばの精神」、あるいは逆に「敗残の苦みもなく、美しく掬いとられた表現」は「ことばの精神」であり、「困難な闘い」は「ことばの肉体」であるかもしれない。どっちであってもかまわない(というと乱暴だけれど)。しかし、冷静だねえ。井坂という詩人はとてもとても頭のいいひとなんだなあ。
私は感想など書かずに、井坂の栞を読んでください、とだけ、書けばよかったのかもしれない。