北川透『わがブーメラン乱帰線』(7)(思潮社、2010年04月01日発行)
夢にうなされて目が覚めた。
たしか七日目の朝だろう。
いそいで、ページをくって「七日目の夜」がないことを確認しました。(ライブ日記ですので、いそいでいます。あれこれしていると22日になってしまう。--私は、前日に書いたものを翌日の0時にアップしているのです。)
夢にうなされて目が覚めた。
たしか七日目の朝だろう。
詩らしきものを書いては消し、書いては消している。
詩らしくても詩にならないのは、次から次へと湧き出ることばが、
魚の骨汁や人糞や牛の唾液にまみれているからだろう。
自分自身の書いたことばを否定し、詩ではない、と書き綴り、その次の行、これが過激である。
それは皮膚の細かい穴から出る感情でぬるぬるしている。
詩ではない、と否定することば。そのことばが過激になった瞬間、その1行が詩になる。詩となって輝きはじめる。
「詩らしきもの」、疑似詩を否定し、批判するとき、その批判のなかに、ほんものの詩が輝くということだろう。詩らしきものが、どういうことばでできているか、それを自覚すること--それが批判になる。そして、それが批判になるのは、実は、その批判のことばが、いままでのことばを超越しているということが必須条件である。
それは日本的情緒にまみれた使い古されたことばである。
では、「流通言語」のやっている「批判」である。それでは批判にならない。批判が批判になるためには、その批判自体が独自のことばをもたなければならない。
だが、それはむずかしい。
それは細長く円筒状に伸びる頭のなかでがんがん響いている。
もう、うんざり。けっこう毛だらけ、トゲだらけ。
それは前脚の折れた馬みたいに尻尾を振っている。
樹枝状に分かれたその空洞を針千本が泳いで通る。
気管支が破裂しそうだ。
痙攣、嘔吐、ことばは尿毒症にかかっている。
この数行が、「流通言語」を批判し、独自のことばきして成立しているかどうか、ちょっとわからない。引用しながらも、この1行こそ……と思うことばがない。
北川自身、どう感じて書いたのか、そしてそれ以後をどう感じて書いたのか……。
北川は、詩と歴史を重ね合わせ、ことばを動かすことも試している。
どんな歴史も消されることはないが……消されている。
どんな詩句も葬られることはないが……葬られている。
そして、ことばが消され、葬られた瞬間のことを書く。
……あの敗亡の一九四五年夏……小学校の教室……女先生は泣きべそをかいて……幼いわたしたちの心を……みずからの手を使って墨で塗りつぶすことを命じた……わたしたちがひるんでいると……みずから口のなかに手を突っ込んで……臭くて醜い肉の塊を引っ張り出した……これが心というものよ……先生は針金で巻いて黒板に吊るし……真っ黒に墨を塗った……さあ……今度はあなたたちの番ね……あなたたちも進んで墨を塗るのよ……と言って……涙目でわたしたちを睨んだ……女先生は汚い爪が長く伸びた手を前に突き出し……わたしを指した……指されたのはわたしではない……わたしではない……わたしではない
誰かが笑った。
それがどうした、と言うわけではないが、
また、誰かが笑っている。
ことば(流通言語)を批判することば--それは詩である、という定義は成り立つか。この問題はむずかしい。たとえば戦時中の「流通言語」を反戦時に、教育現場では一斉に批判した。ことばを墨で塗りつぶして、そういうことばはなかったということにした。その行為は詩であるか。
あ、こんな、問いのたて方自体が「笑い」の対象かもしれない。誰かが、それこそ、わらっているだろう。誰かではなく、北川が笑うだろう。
設問はどうでもいいのだ。笑うことに意味がある。笑いこそが最大の批判である。笑い以上の批判はない。
北川のことばが、過激に、乱暴に、でたらめ(?)に動いていくのは、そこに「笑い」への渇望のようなものがある。ただ過激であってもおもしろくない。笑いのように、既存の価値を一気に吹き飛ばしてしまうようなものこそ、ことばには必要なのだ。
その「一気」は、あるときは「くすくす」ということもある。
わがブーメラン乱帰線北川 透思潮社このアイテムの詳細を見る |