小池昌代『コルカタ』(思潮社、2010年03月15日発行)
「コルカタ」とは何だろう。小池昌代の詩集の赤い色、黒を含んだ赤い色、金色の文字を見ながら、何か不思議なものに吸い込まれていくような気がした。それは単純な吸い込まれかたではなく、つまり沼や何かに落ちていく感じではなく、吸い込まれながらその向こうから何かがわいてくるのに抗っている感じである。沼の例をそのまま引き継いで書いてしまうと、沼を見つめていたら沼の奥から水蒸気(?)のようなものが手を伸ばしてきて、それにつかまれて引きずり込まれる、吸い込まれる感じ。私はそれに抗っているのだが、抗いきれない。
「コルカタ」とは何だろう。この赤い表紙の奥から、どんなことばが手を伸ばしてきているのだろう。それが知りたくて、急いでページを開いた。
黄土色の見返し、というのか、表紙の裏の色。そして青い最初のページ。どの色にも黒が含まれていて、何か深いものがある。赤、黄土色(黄色?)、青の奥にある黒が、沈みながら浮かび上がってくる。沼の水蒸気のよう。(私って、第一印象にひきずられたまま、抜け出せなくなる人間のようだ。)
ことばにたどりつく前に、「絵」を見ているわけではないのに、色に引き込まれてしまった。
「目次」を見ると、きっとまた別の何かに引き込まれそうなので、省略して(?)、いそいで冒頭の詩に向かう。
「雨と木の葉」。
これは私の知らないことばである。知らないことばであるけれど、音が美しい。そして、無邪気な喜びにあふれている。「雨と木の葉」というタイトルを読んでいるせいもあるのだろうけれど、明るい光のなかにふる雨の中で遊んでいるような気持ちになる。濡れるのがうれしい。降ってくる雨に濡れると、雨にぬれて輝いている葉っぱになった気持ちになる。雨にぬれて、同時に光に照らされて(雨は、青空から降ってくる雨でなくてはならない)、葉っぱになって輝きはじめる。
そう思っていると、
あ、ベンガル語、か。でも、日本語と似ていない?
小池もそう思ったのだろうか、次に、百人一首の歌が出てくる。
あ、でも、私の印象とは違うなあ。(これは、まあ、あたりまえ。人が違えば印象がちがうのがあたりまえ。)私には、「秋の夕暮れ」は思い浮かばない。夏休みがはじまったころに、突然やってくる驟雨。そういう印象がある。
小池と私では、ことば(音)に対する感じかたが違う--そのあたりまえのことをとおして、私は小池のことばに出会い、そしていま、小池のことばについていっていることになる。
これはなんだかすごいなあ。というか、すごいなあ、と思うよりも先に、ぐいっとひきこまれてしまった。「ああ、」からあとのことば、その「音」に。
何が書いてあるか、「意味」は何もわからないね。
「意味」がわからないというとこは、何を考えてもいいんだ。そこから何を想像してもいいんだ--というのは、私の「独断」であり、「誤読」かもしれないけれど。
あ、小池がセックスして、声をもらしている。
私は、そう思ってしまった。ことばにならない。音にならない。でも、声をだしたい。声を出して、自分のなかにあるものを外に出してしまいたい。そのことばにならないものを相手に受け止めてもらいたい。
冒頭の2行、
は、雨ではなく、汗である。その輝かしい水滴が磨いているのは木の葉ではなく、小池の肌である。小池は、ここでは、ことばとセックスをしている。
小池の書いている「え」は「い」と言おうとして、それをいう瞬間に体の奥から突き上げてくる何かに押されて、横に開いていた口が大きく開いてしまって「い」から「え」にかわった音、「い」と言おうとして、その声帯が息に破られて正確な(?)音をだけなくなって「え」に変化してしまった音。
--と書いてしまうと、セクハラ?
どう書いても、まあ、セクハラと言われればセクハラだろうけれど、ついつい、そう感じてしまう。
詩は、つづいてゆく。
インド、ベンガル地方のことば(音)と、小池のなかの日本語の音が出会っている。それは、一種のセックスだ。「意味」はいらない。「意味」がつうじなくても、セックスはできる。人間に肉体があり、性器があるように、ことばにも「肉体」と「性器」がある。分泌物をだす器官がある。
ことばは「音」になって触れ合い、その接触は「身体」の「肉体」にも反映してくる。声を出すとき、喉が動くからね。声をださなくても、耳が動き、喉は無意識に動いているからね。--あ、これは、私の感覚であり、小池も同じように、ことばを聴くときに、あるいはことばを読む(黙読する)ときに、喉が動くかどうかは、わからないけれど。
「コルカタ」はインドの地名である、ということは、ようやくわかった。ベンガル地方の土地であることもわかった。あとは、まだわからない。
そして、小池がどうやらインドを旅行したらしいということもわかった。詩集の帯(表表紙)に子どもたちが集まっている写真がある。よく見ると、左下に小池がいる。(実物?を知らないけれど、写真で知っている小池である。)そして、裏の帯には、「インドへの旅から生まれた28篇」とある。
28篇もあるのか……。
読み通すのは、目の悪い私にはちょっと厳しいかもしれない。けれど、突然の、見知らぬ音との出会いからはじまった旅につきあってみるのは楽しいかもしれない。冒頭の詩は、「音」と「雨」「木の葉」という、いくぶんおとなしめの存在とのセックスだったけれど、きっと大地や風や太陽も、小池に関係を迫ってくるんだろうなあ。小池は、「日本」ではない「音」と「空気」(そして「時間」)とどんなふうに交わり、どんなふうに変わるのだろう。
帯には、
というどの詩からの引用かわからない数行が引いてある。いつ、どんなふうに、小池は妊娠するのだろう。何を生み出すのだろう。何かを産んだとき、小池も生まれ変わるのだろうか。
しばらく小池の詩集について行ってみよう。
(私は何の計画もなく、どんな「結論」を書きたいという目的もなく「日記」を書いているので、小池の詩集について行ってみる、と書いても、あしたになると書かないかもしれない。どうなるかわからない。先に断わっておきます。まだ1篇を読んだだけなので、小池の、インドのことばとのセックスというのも、とんでもない「誤読」かもしれないし……。)
「コルカタ」とは何だろう。小池昌代の詩集の赤い色、黒を含んだ赤い色、金色の文字を見ながら、何か不思議なものに吸い込まれていくような気がした。それは単純な吸い込まれかたではなく、つまり沼や何かに落ちていく感じではなく、吸い込まれながらその向こうから何かがわいてくるのに抗っている感じである。沼の例をそのまま引き継いで書いてしまうと、沼を見つめていたら沼の奥から水蒸気(?)のようなものが手を伸ばしてきて、それにつかまれて引きずり込まれる、吸い込まれる感じ。私はそれに抗っているのだが、抗いきれない。
「コルカタ」とは何だろう。この赤い表紙の奥から、どんなことばが手を伸ばしてきているのだろう。それが知りたくて、急いでページを開いた。
黄土色の見返し、というのか、表紙の裏の色。そして青い最初のページ。どの色にも黒が含まれていて、何か深いものがある。赤、黄土色(黄色?)、青の奥にある黒が、沈みながら浮かび上がってくる。沼の水蒸気のよう。(私って、第一印象にひきずられたまま、抜け出せなくなる人間のようだ。)
ことばにたどりつく前に、「絵」を見ているわけではないのに、色に引き込まれてしまった。
「目次」を見ると、きっとまた別の何かに引き込まれそうなので、省略して(?)、いそいで冒頭の詩に向かう。
「雨と木の葉」。
じょるぽれ ぱたのれ jol pore, pata nore
じょるぽれ ぱたのれ jol pore, pata nore
これは私の知らないことばである。知らないことばであるけれど、音が美しい。そして、無邪気な喜びにあふれている。「雨と木の葉」というタイトルを読んでいるせいもあるのだろうけれど、明るい光のなかにふる雨の中で遊んでいるような気持ちになる。濡れるのがうれしい。降ってくる雨に濡れると、雨にぬれて輝いている葉っぱになった気持ちになる。雨にぬれて、同時に光に照らされて(雨は、青空から降ってくる雨でなくてはならない)、葉っぱになって輝きはじめる。
そう思っていると、
幼いタゴールの魂を奪ったという
ベンガル語の詩の一節
雨 ぱらら 木の葉 ざわわ
あ、ベンガル語、か。でも、日本語と似ていない?
小池もそう思ったのだろうか、次に、百人一首の歌が出てくる。
むらさめの
つゆもまだひぬ まきのはに
きりたちのぼる
あきのゆうぐれ
あ、でも、私の印象とは違うなあ。(これは、まあ、あたりまえ。人が違えば印象がちがうのがあたりまえ。)私には、「秋の夕暮れ」は思い浮かばない。夏休みがはじまったころに、突然やってくる驟雨。そういう印象がある。
小池と私では、ことば(音)に対する感じかたが違う--そのあたりまえのことをとおして、私は小池のことばに出会い、そしていま、小池のことばについていっていることになる。
山際、ふるえ 波、わななき
夕ぐれの河に 陽が濡れる
雲が 砂が ああ、うごく うごく
ごく、えもう、もう
ああ、おいえ、もう
これはなんだかすごいなあ。というか、すごいなあ、と思うよりも先に、ぐいっとひきこまれてしまった。「ああ、」からあとのことば、その「音」に。
何が書いてあるか、「意味」は何もわからないね。
「意味」がわからないというとこは、何を考えてもいいんだ。そこから何を想像してもいいんだ--というのは、私の「独断」であり、「誤読」かもしれないけれど。
あ、小池がセックスして、声をもらしている。
私は、そう思ってしまった。ことばにならない。音にならない。でも、声をだしたい。声を出して、自分のなかにあるものを外に出してしまいたい。そのことばにならないものを相手に受け止めてもらいたい。
冒頭の2行、
じょるぽれ ぱたのれ jol pore, pata nore
じょるぽれ ぱたのれ jol pore, pata nore
は、雨ではなく、汗である。その輝かしい水滴が磨いているのは木の葉ではなく、小池の肌である。小池は、ここでは、ことばとセックスをしている。
ああ、うごく、うごく
(す)ごく、(いい)、え、もう、もう、(だめ)
ああ、お(お)(いい)、え、もう(×××、×××←伏せ字、です、はい。)
小池の書いている「え」は「い」と言おうとして、それをいう瞬間に体の奥から突き上げてくる何かに押されて、横に開いていた口が大きく開いてしまって「い」から「え」にかわった音、「い」と言おうとして、その声帯が息に破られて正確な(?)音をだけなくなって「え」に変化してしまった音。
--と書いてしまうと、セクハラ?
どう書いても、まあ、セクハラと言われればセクハラだろうけれど、ついつい、そう感じてしまう。
詩は、つづいてゆく。
音と音
重なって 波紋をつりく 幾重にも 遠くまで
運ばれていく ハコバレテイク
届くように トドキマスヨウニ
あのひとに わたしでないひとに
この世の時を超越して
じょるぽれ ぱたのれ
ぽた、のるる、うう
雨と木の葉
広がっていく
印度・コルカタの
無名の大地
たたく雨音
インド、ベンガル地方のことば(音)と、小池のなかの日本語の音が出会っている。それは、一種のセックスだ。「意味」はいらない。「意味」がつうじなくても、セックスはできる。人間に肉体があり、性器があるように、ことばにも「肉体」と「性器」がある。分泌物をだす器官がある。
ことばは「音」になって触れ合い、その接触は「身体」の「肉体」にも反映してくる。声を出すとき、喉が動くからね。声をださなくても、耳が動き、喉は無意識に動いているからね。--あ、これは、私の感覚であり、小池も同じように、ことばを聴くときに、あるいはことばを読む(黙読する)ときに、喉が動くかどうかは、わからないけれど。
「コルカタ」はインドの地名である、ということは、ようやくわかった。ベンガル地方の土地であることもわかった。あとは、まだわからない。
そして、小池がどうやらインドを旅行したらしいということもわかった。詩集の帯(表表紙)に子どもたちが集まっている写真がある。よく見ると、左下に小池がいる。(実物?を知らないけれど、写真で知っている小池である。)そして、裏の帯には、「インドへの旅から生まれた28篇」とある。
28篇もあるのか……。
読み通すのは、目の悪い私にはちょっと厳しいかもしれない。けれど、突然の、見知らぬ音との出会いからはじまった旅につきあってみるのは楽しいかもしれない。冒頭の詩は、「音」と「雨」「木の葉」という、いくぶんおとなしめの存在とのセックスだったけれど、きっと大地や風や太陽も、小池に関係を迫ってくるんだろうなあ。小池は、「日本」ではない「音」と「空気」(そして「時間」)とどんなふうに交わり、どんなふうに変わるのだろう。
帯には、
もし わたしが
怒りを妊娠したら
いつか みずみずしい
真っ赤なスイカを産むだろう
というどの詩からの引用かわからない数行が引いてある。いつ、どんなふうに、小池は妊娠するのだろう。何を生み出すのだろう。何かを産んだとき、小池も生まれ変わるのだろうか。
しばらく小池の詩集について行ってみよう。
(私は何の計画もなく、どんな「結論」を書きたいという目的もなく「日記」を書いているので、小池の詩集について行ってみる、と書いても、あしたになると書かないかもしれない。どうなるかわからない。先に断わっておきます。まだ1篇を読んだだけなので、小池の、インドのことばとのセックスというのも、とんでもない「誤読」かもしれないし……。)
コルカタ小池 昌代思潮社このアイテムの詳細を見る |