イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル(アクロス福岡シンフォニーホール、2010年05月06日)
ラヴェルの「夜のガスパール」はプログラムの最後に演奏された。ショパン「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調、作品58」、リスト「メフィスト・ワルツ」で、なんだか疲れてしまった聴衆が何人か帰っていったあとのホール。
演奏の合間で、聴衆の出入りがあり、イーヴォ・ポゴレリッチは必ずしも心地よい気持ちでピアノを弾いていたとはいえないかもしれない。
しかし、この雰囲気が何かしら不思議に、この演奏をきわだたせた。
どこから響いてくのかよくわからない。とてつもなく激しい音、孤独な音である。そのひとつひとつは、ハーモニーを求めているのか、ハーモニーになってしまうことを拒絶しているのか、あるいは、その両方なのか。
弦がたたかれている。たたかれながら、悲鳴をあげている。錆びた弦、疲れ切った弦の悲鳴を想像してしまう。その悲鳴はだんだん荒廃していく。荒廃していきながら、荒廃することで、遠くに「いのち」を感じさせる。「まだ、生きている」と、荒廃の奥から、透明な「いのり」のようなつぶやきが聞こえる。そのつぶやき、ささやきを聞きながら、弦はさらに絶望の声のなかに荒廃していく。
ピアノ線という弦をたたく力は、たたいているうちに、そこから発せられる悲鳴が、絶望が、弦自身の声なのか、あるいは自分の声なのかわからなくなり、ひたすら力を込めてハンマーを振りおろす。早く、遅く。そして、そのとき、もしかすると「音源」は弦ではなく、ハンマーなのではないか、ハンマーではなく、それを振り降ろしている人間なのではないか、と思えてくる。
イーヴォ・ポゴレリッチはフォルテの音を叩き出すたびに、椅子から飛び上がる。大きな体が椅子の上ではねまわる。その「肉体」が音を発している。
そんな印象が、突然、炸裂する。そして、音楽は、突然、終わる。
イーヴォ・ポゴレリッチがステージから去ると、そこには何もなかった。「余韻」というような甘いものは、イーヴォ・ポゴレリッチが彼自身の「肉体」でかっさらっていった。不思議な拒絶に出会った。その潔さにびっくりしてしまった。
ラヴェルの「夜のガスパール」はプログラムの最後に演奏された。ショパン「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調、作品58」、リスト「メフィスト・ワルツ」で、なんだか疲れてしまった聴衆が何人か帰っていったあとのホール。
演奏の合間で、聴衆の出入りがあり、イーヴォ・ポゴレリッチは必ずしも心地よい気持ちでピアノを弾いていたとはいえないかもしれない。
しかし、この雰囲気が何かしら不思議に、この演奏をきわだたせた。
どこから響いてくのかよくわからない。とてつもなく激しい音、孤独な音である。そのひとつひとつは、ハーモニーを求めているのか、ハーモニーになってしまうことを拒絶しているのか、あるいは、その両方なのか。
弦がたたかれている。たたかれながら、悲鳴をあげている。錆びた弦、疲れ切った弦の悲鳴を想像してしまう。その悲鳴はだんだん荒廃していく。荒廃していきながら、荒廃することで、遠くに「いのち」を感じさせる。「まだ、生きている」と、荒廃の奥から、透明な「いのり」のようなつぶやきが聞こえる。そのつぶやき、ささやきを聞きながら、弦はさらに絶望の声のなかに荒廃していく。
ピアノ線という弦をたたく力は、たたいているうちに、そこから発せられる悲鳴が、絶望が、弦自身の声なのか、あるいは自分の声なのかわからなくなり、ひたすら力を込めてハンマーを振りおろす。早く、遅く。そして、そのとき、もしかすると「音源」は弦ではなく、ハンマーなのではないか、ハンマーではなく、それを振り降ろしている人間なのではないか、と思えてくる。
イーヴォ・ポゴレリッチはフォルテの音を叩き出すたびに、椅子から飛び上がる。大きな体が椅子の上ではねまわる。その「肉体」が音を発している。
そんな印象が、突然、炸裂する。そして、音楽は、突然、終わる。
イーヴォ・ポゴレリッチがステージから去ると、そこには何もなかった。「余韻」というような甘いものは、イーヴォ・ポゴレリッチが彼自身の「肉体」でかっさらっていった。不思議な拒絶に出会った。その潔さにびっくりしてしまった。
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