竹田朔歩「ポアンカレ予想の詩的触り-グリゴーリー・ペレルマンへ」(「歴程」568 、2010年04月30日発行)
竹田朔歩「ポアンカレ予想の詩的触り-グリゴーリー・ペレルマンへ」は、ことばが暴走する。そしてそのことばは、書きことばだから暴走する。暴走が可能なのだと思う。
竹田朔歩「ポアンカレ予想の詩的触り-グリゴーリー・ペレルマンへ」は、ことばが暴走する。そしてそのことばは、書きことばだから暴走する。暴走が可能なのだと思う。
天空から
一羽の鷲は
亀裂と ゆるやかな滑走を描き
精神(パトス)の鐘を 地上へと 下垂させた
ベクトルの総身は ♯(シューブ)な傾きを示した
幾重にも 縺れて ふくらみ 高々と 突き進み ひろがる
この6行が、もし話しことばだったら、私は何を聞いたのかさっぱりわからない。いや、わからないということに関して言えば、私が読んでいる「歴程」のページに刻印された活字にしたってわからないのだから、話しことばも書きことばも差はない、ということになるかもしれないが……。
私は、違うと思う。
この4行は書きことばだから、可能なのだ。書きことばは、同時に複数のことばを見ることができる。話しことばだと「記憶」しておかなければならないものが、書きことば(読みことばといった方がいいのだろうか)は、「記憶」の必要がない。
ことばを記憶しないですむ。書きことば(読みことば)のこの「利点」は、不思議な形で人間に作用してくる。記憶しなくていいということは、そのかわりに別なことができるということである。記憶のかわりに想像ができる。
というだけではない。
記憶しなくていい、ということは、判断しなくていい、ということなのだ。「できる」ではなくて、「しなくていい」という領域の可能性を広げる。一羽の鷲が天空に「亀裂」と「滑走」を同時に描くことができるかどうか、判断しないくていい。
「話しことば(聞きことば)」だと、それが正しいかどうか「判断し」、ことばを「記憶」として整理しないことには、次へ進んでゆけない。「いま、なんて言ったんだっけ?(何を聞いたんだっけ?)」ということを常に意識しなければならない。そういうことは、いがいと面倒くさい。常に判断を繰り返し、次のことばがその判断したこととどう関係してくるのかを考えつづけなければならない。
けれども、書きことば(読みことば)は、そういう判断をせず、ただ、同時に(同列に)、そこにあることばを「見る」ことができる。同時に見えることばが「意味」として「矛盾」していようがいまいが、そこに並列して存在する。
話しことば(聞きことば)も並列は可能かもしれないが、それは混ざってしまう。まざってしまうと、別なものになる。(音楽の場合、「和音」になる。)聖徳太子は同時に7人の訴えを聞くことができたそうだが、ふつう、人間はそんなことはできない。
書きことば(読みことば)は、いつでも眼にみえるので、複数のことばを同時に見て、また、同時に見ないこともできる。自分自身で、どのことばを読み、どのことばを読むないかを選ぶことができる。
この自由。
書きことば(読みことば)にも書かれた順序がある読むべき順序があるかもしれない。けれど、実際に読むときは、かならずしもその順序に縛られない。適当にあれこれ入れ換えてしまっている。
そして、このかってな入れ換え--それこそが、「記憶のかわりに想像ができる。」と書いた部分の「想像」にあたる。
私は竹田の詩を読む。そのことばを印刷された順序どおりに読む。読むけれど、同時に、そのことばの「配置」をかってに入れ換えている。視界のなかでかってに動かしてしまっている。竹田のことばの「配置図」のうえに、私自身の「配置図」を重ね、そのずれ具合を「見ている」。
私は竹田の詩、そのことばを「聴覚的」ではなく「視覚的」である、と書いたことがあるが、まあ、これは正確に言えば、竹田のことばを読むとき、私は視覚的人間となって読むのであって、そのとき聴覚は隠れている、ということになる。
あ、うまく書けない。
視覚の不思議な力。
そのことから語り始めた方か、竹田の詩の書くのに便利(?)だったかもしれない。
私は竹田のことばを、必ずしも竹田の書いた順序どおりには読まない。一度目はたしかにその書かれた順序どおりに読んではいるのだが、視覚は、そのことばの一文字一文字を追うのではなく、全体を見わたしながらことばを追っているので(視界の広さにある文字は同時に目が拾ってしまうので)、その目のなかにあることばは、知らないうちに「配置」をかえてしまっている。
それだけではな、目は、本来見えないものまで、「文字」として見てしまう。そして、文字を見てしまったために、その見えないものが見えてしまったように感じる。その存在を「視覚」で確認したかのように錯覚してしまう。
たとえば、「精神」。
これは見えない。けれども「精神」という文字が見える。そうすると、それがそこに存在しているのが「事実」のように感じられる。
これが「文字」ではなく、「音」だったら、「音」が聞こえる、だから、それは存在する--とは言いにくい。「音」は消えてしまうからである。「音」が消えたら「存在」もなくなる、という不安定な関係にある。
ところが、「文字」は消えない。だから、いつでも、それを「見る」ことができる。「見る」ことで、そこに存在しつづけているのを確認してしまう。これは錯覚だろうけれど、そういう錯覚を視覚はうながしてしまう。いや、そういう錯覚を、視覚は暴走させてしまう。
その暴走は「精神」が「パトス」という「音」であるという、絶対視覚では把握できないはずの「音」さえ、そこに定着させてしまう。
「精神の鐘」は見ることができない。それが「パトスの鐘」である、というのも見ることはできない。けれど、何かをそんなふうに呼ぶ、呼びたいというこころが動いて、そこにそういうものを出現させてしまった--その痕跡だけは、ずーっと見つづけることができる。
竹田は、そういう「書きことば(読みことば)」の力を最大限に利用して、ことばを暴走させるのだ。
ベクトルの総身は ♯(シャープ)な傾きを示した
なんだ、これは。
怒りだしてしまいたいくらいに、これはおかしい。(「おかいし」を、私は、いい意味でつかっている--とだけ、ここでは注釈しておく。)
「♯(シャープ)な傾き」って、何? シャープな傾き、鋭い傾き、シャープが英語(?)ならわかるが、音楽記号の♯な傾きって何?
わからないけれど、それがそこにある。
そして、その不思議な刻印は、その前の行の「精神(パトス)」と触れ合って、そこに書かれているものが「視覚」でしかとらえることのできないもの、「文字」であるにもかかわらず、同時に、それを「音」にしてしまうのだ。
竹田の、この詩の冒頭の数行。それは「視覚」(文字)の世界の暴走なのに、それに強引に「音」の世界(♯)を持ち込み、そうすることで、文字を音にかえながら、またその音を文字として残すという、きつく絡み合った関係を描き出す。
この強引さは、いやあ、貴重なものだなあ、と思う。
この暴走が、そのまま作品全体を支配するなら、これはたいへんな傑作になっただろうなあと感じさせる数行である。
軽業師のように直角に覚めて竹田 朔歩思潮社このアイテムの詳細を見る