詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ポール・グリーングラス監督「グリーン・ゾーン」(★★★)

2010-05-15 10:51:14 | 映画
監督 ポール・グリーングラス 出演 マット・デイモン、グレッグ・キニア、ブレンダン・グリーソン

 今回のすの演出は、あまりさえない。ハンドカメラを駆使して戦場の臨場感を伝えようとしているのだが、動きがはでになった分だけ緊密感に(あ、こんなことばはないかな?)に欠ける。
 「ユナイテッド93」「ボーン・アルティメイタム」(特に新聞記者が殺害されるまでの駅のシーン)が非常におもしろかったのは、そこに「日常」があったからだ。「ユナイテッド93」では起きていることそのものは非日常だけれど、携帯電話で家族と話す、あるいは航空管制が右往左往するという日常があった。「ボーン・アルティメイタム」では、事件(?)を知らないひとが駅を埋めつくし、ふつうに暮らしているという日常があった。異常なことのすぐそばに日常がある。その対比が映像に緩急をつくりだしていた。
 今回は、そういう日常がない。
 戦場だから日常などありうるはずがない--ということかもしれないが、いや、待てよ、と思う。イラクの国民全員が戦争に参加しているわけではない。アメリカが侵入してきて、かってに戦争を引き起こしている。軍人以外に、民間の抵抗勢力がいるかもしれない、テロリストがいるかもしれない。けれどは、国民の大半は、日常生活をしている。そういうひとが登場しない。そのために、非日常(戦争)が浮いてしまう。現実感覚をなくしてしまう。
 たしかに戦場は生半可な気持ちでは生きてはいけない場所だろうけれど、それは最前線の、敵と味方が戦闘を繰り返しているようなかぎられた場所である。破壊兵器を隠している場所は、なんといっても「隠し場所」なのだから、日常でなければならない。弾薬庫ではないのだから。また、将軍が隠れる場所も「隠れ場所」なのだから、日常でなければならない。
 日常が戦争に、日常がマット・デイモンの動きに絡みついてこないことには、その場の空気は緊密したものにはならない。ハンドカメラで不安定な映像をつないでみても、それはあくまで非日常、戦場だけの緊迫感であり、そんなところで観客(私だけかな?)は、はらはら、どきどきはしない。あ、予告編と同じじゃないか、と思ってしまうだけである。
 日常(異常を知らないひとびと)と非日常の接点でこそ緊迫感は高まる、ということをポール・グリーングラスは熟知しているはずである。だからこそ、マット・デイモンが登場する最初のシーンに、市民の「略奪」が描かれているのだ。マット・デイモンは、そこに大量破壊兵器が隠されていると信じて行動している。ところが市民はそんなことは知らない。ただそこにあるものを奪う、略奪するという「日常」を生きている。そして、その「日常」を隠れ蓑に、テロリスト(あるいは反米勢力? ないしは抵抗勢力?)が襲いかかってくる。
 いま、ここで、隠されている兵器が爆発したらどうなるんだ、という「不安」をマット・デイモンは知っている。そして観客も知っている。しかし、市民は知らない。このアンバランスが、緊迫感の決め手なのである。
 おもしろいのは、ここまでである。
 あとは、非日常に非日常が積み重ねられていくだけである。イラク人通訳がかろうじてイラクの日常、市民の怨念のようなものをスクリーンに持ち込むのだけれど、単なる脇役である。(最後に、主役を「ことば」で演じるけれど。)
 そしてイラクの「日常」がからみつくかわりに、アメリカ政府の「陰謀」がからみついてくる。マスコミ操作がからみついてくる。CIAがからみついてくる。あ、それはもしかするとアメリカの「日常」かもしれないけれど、市民感覚の「日常」ではない。それは、エンターテインメントの「日常」である。物語、ストーリーの「日常」、いいかえると「常套手段」である。
 映画の後半に起きることは、上手に(?)映像化されればされるほど、それは「うそ」そのものになる。戦場の緊迫感ではなく、戦場というストーリーの緊迫感になりさがってしまう。
 映像はどんどん過激になって、予告編でも使われたし、タイトルの文字のデザインにも流用されている車のガラスが銃撃を受け飛び散るシーンは、あ、美しい、と思わずうなってしまうけれど、ねえ、そんなもんが緊迫感かねえ、とも思ってしまうのである。
 映画だから、どうせマット・デイモンは死なない、と安心してしまうのである。だから、あ、美しい映像--というような、とんでもないことを感じてしまう。
 これが「ユナイテッド93」の場合はまったく逆だったなあ。飛行機が墜落し、全員が死ぬのは「事実」として知っている。結末はわかっている。それにもかかわらず、これって映画でしょ? 映画だったら、もしかすると、最後は全員が助かるんじゃない? 頑張れ、頑張れ、頑張れ、と出演者を応援してしまうんだなあ。

 ポール・グリーングラスさん、次はちゃんと日常を映像化し、非日常と緊密に組み合わせてくださいね。


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山口賀代子「うだつやま」、江里昭彦「魂は鳥に似て」

2010-05-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「うだつやま」、江里昭彦「魂は鳥に似て」(「左庭」16、2010年04月30日発行)

 山口賀代子「うだつやま」は、公園で見かけたかわいい少女と色白の少年、どんぐり顔の少年の3人の姿を見たときのことを書いている。それは、いまのことか、過去のことか分からないような書き出しである。

そのまちをたずねたのがいつのことだったか
おもいだそうとするがおもいだせない
なのにきおくのそこからゆるゆるとうかびあがってくるものがある

(略)

少女は言った
「わたしこの子嫌い
ふたりで あっちで
遊ぼう」

「どんぐり」はうごかなかった
長い時間が過ぎたようなきがするが
ほんの数分のことだったかもしれない
「ひとりだって遊べるもん」と呟いて駆けおりていく
少年の背を見送ったのは

「邯鄲」という中国の故事がある
わたしはその少年の夢に迷い込んだのだろうか
それとも 六歳の春にみるはずの夢を みているのだろうか
崩れかけた城が目の前にある

もどってきたのか とちゅうなのかここにいるわたしは

 幼い子供の姿に自分の過去を重ね、ふと、遠い昔を思い出す。そのとき、「いま」は「いま」であって、「いま」ではない。そうかといって、それではそれが「過去」かといえば「過去」でもない。
 その、どう名づけていいのかわからない「時間」を、山口は「とちゅう」ということばでとらえている。「もどってきたのか とちゅうなのか」という表現から正確に判断すれば(?) 、それは「とちゅう」ととらえているとはいえないかもしれない。けれども、この「とちゅう」ということばに、私はとてもひきつけられた。
 ボルヘスを夢中にさせた「邯鄲」--それは、きっと、「とちゅう」ではない。
 ボルヘスの「邯鄲」は、二つの夢が「距離」を失って、いわば「コインの裏表」のような感じになる。結晶に昇華してしまっている。山口の見たものも「裏表」かもしれないが、「とちゅう」ということばが、その「裏」「表」のあいだに、不思議な距離をつくりだしている。結晶になるまえの、いりみだれた感じが残っている。
 
 どうも、うまく言えない。

 「いま」と「過去」が、重なり合うのではなく、「いま」と「過去」のあいだ、その「とちゅう」で出会っている。
 山口は、そうなのだ、「出会っている」のだ。
 何かと、交錯し、ぶつかり、ふたつの細胞がばらばらにいりまじって、区別のつかない「ひとつ」になるというよりも、「出会っている」のだ。
 山口も「結晶」を夢見ているのかもしれない。「結晶」への「とちゅう」と言っているのかもしれない。
 よくわからない。
 わからないけれど、私は、その「とちゅう」に、「肉体」を感じたのだ。「頭」ではなく、「肉体」を。ボルヘスとは違うものを。
 たぶん、この一篇だけでは、はっきりしない何か。それが、山口を、山口のことばを動かしていると思う。



 「とちゅう」とは何なのだろう。たとえば「俳句」。俳句の描く世界に「とちゅう」はあるだろうか。俳句は遠心・求心の硬い結合--その結晶。たしかに、芭蕉の句は結晶という感じがする。でも、蕪村は?
 何か、結晶からはみだすものかある。そのことばは、結晶するかわりに、「とちゅう」にある。「とちゅう」は、「ここ」をどこかへと動かして、不安定にする。その不安定が、しかし、おもしろい。
 私は、完全に読み違えているかもしれない。
 山口の詩を読んで、そのつづきで江里昭彦「魂は鳥に似て」を読んだために、そう感じるだけなのかもしれない。でも、なぜか、あ、江口も「とちゅう」を描いている、と感じたのだ。結晶ではなく、「とちゅう」を描いている、と。

結界の椿さざんか鳥を呼ぶ

 「鳥」が私には具体的には見えない。からすではないなあ、ハトでもないし、雀でもないなあ。よくわからないまま「呼ぶ」だけがわかる。そこに「動詞」が動いていることがわかる。この「動詞」の感覚が、芭蕉の動詞のように世界を結晶化させずに、なにか動いている感じがする。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

 は「しみ入る」によって、蝉の声と静けさを硬く結びつけている。まるで「岩」のように。
 でも、江里の「呼ぶ」には鳥と椿さざんかとのあいだに距離がある。それが「とちゅう」という感じを浮かび上がらせる。

河口にて四分五裂のながれかな

さびしさや猫のぬくもり集めても

飼い犬も野良もそれぞれ雨を避け

風容れて仏壇いつもゆきどまり

 どの句にも「とちゅう」のひろがりがある。結晶には結晶の無限の宇宙というひろがりがあるが、「とちゅう」はそうではなく、有限のひろがりである。有限のあたたかさが、そこにはある。
 抽象的なことばかり書いてしまうが、そういう気持ちにさせられる。



 急に思い出して、山口の詩にもどるのだが、山口の書いている「邯鄲」は有限なのだ。無限ではなく有限--そのあたたかさを感じる。
 それは、山口の見ているものが、山口とぴったり重なる可能性のある「六歳の少女」ではなく、「どんぐり」の少年ということとも関係があるかもしれない。
 少女と山口のつながり、少年と山口との隔たり。その違いのなかにあるものが、必然的に「間」をつくりだし、「間」があるから「とちゅう」ということばが生まれる。
 山口にとって「間」と「とちゅう」なのかもしれない。
 「間」と収縮し、ゼロになり、その瞬間ビックバンを起こし、一気に無限になる。それが俳句の遠心・求心だとすれば、「とちゅう」とはけっして収縮しえないなにかである。「とちゅう」は、その両端にビッグバンをひきおこさない何かと何かの「出会い」をみるのである。



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