詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リー・ダニエルズ監督「プレシャス」(★★★)

2010-05-04 20:45:30 | 映画


監督・脚本  リー・ダニエルズ 出演 ガボレイ・シディベ 、 モニーク 、 ポーラ・パットン 、 マライア・キャリー

 主役のアフリカ系少女の異様な体形に驚いてしまう。とてつもなく太っている。その少女が、両親の暴力に耐えている。暴力を振るわれても彼女にとっては両親であることにかわりはない。愛してもらいたい、という気持ちがあるのだろう。暴力に耐えながら、暴力を忘れるために夢を見る。その夢が、またまた変わっている。いや、かわっていない? どちらかわからない。わけがわからないくらい強烈である。彼女の体型と同じように、一回見たら忘れない。
 彼女は夢の中では、歌って踊れるスターである。そして人気タレントを恋もしているらしい。そんな夢を見ている場合なのか、という気持ちがしないでもないのだが、そんな疑問をかき消すように、彼女の夢は鮮烈である。夢の中で、ほんとうに生き生きしている。とても虐待を受けているようには感じられない。その明るさ、あるいは能天気さ。そんなふうに現実と完全に離れてしまわないと、虐待には耐えていけないのかもしれない。
 虐待から逃れるときだけではない。彼女は、なんでもない日常そのものの時間でも夢を見ている。毎朝、鏡を覗いて髪の手入れをする。そのとき鏡のなかでは、彼女は白人であり、金髪である。もちろん太ってなどいない。ふつうの(?)、思春期の少女そのままに、自分自身を「いちばんかわいい」と思って鏡を見ているのである。
 あ、そうなのだ。こころと肉体は別なのだ。どんな肉体をもっていても心は「共通」なのだ。
 それは、母も同じなのかもしれない。年をとって夫から相手にされない。夫が求めているのは若い肉体であり、その若さという点で、母は娘には絶対にかなわない。それが悲しい。それが悔しい。だから、父にレイプされる娘にさえ嫉妬する。なぜ、私が愛されないのか、と。
 あるいは、この映画は、虐待を受けていた少女が自立する物語ではなく、そんな少女と一緒に生きる母の苦悩を描いた作品といえるかもしれない。母を演じたモニークがアカデミー賞(助演女優賞)を獲得しているが、それは当然のことかもしれない。彼女の苦悩は、少女の場合と違って「夢」のなかで発散されないのだ。母は夢を見ない。母には現実しか見えない。いつも冷めているのだ。
 そして、どうするか。
 嘘をつくのである。どんなふうに孫の世話をしているか、どんなふうに求職活動をしたか――そして、その嘘で現実から生きるために必要な金(生活保護費)を手に入れる。嘘が母の「いのち」をつないでいる。
 この落差の激しさを、映画は厳しく描いている。そこがこの映画の一番すばらしい部分だと思う。
 映画だからしようがないのかもしれないが、この作品は、そのせっかく暴きだした現実の「いのち」のありようを、「愛」で見えなくしてしまう。少女の夢と母の嘘。そのどんな接触もありえない深淵を、他人の善意が埋めてゆく。そして少女をすくいだす。少女は愛に触れることで、無事に育っていく。ほんとうは「無事」ではなく、大きな現実の苦悩を背負い込むのだが、それでも愛そのものを生きることを学ぶ。自分の子供を愛し、育てていくことを決意する。――この結論(?)が、私には、ちょっと残念。少女が生きる力を獲得するのはいいけれど、なんだか「善意」のとらえかたが胡散臭い。現実って、ほんとうに、そんなふうに動いてくれるのだろうか。サンドラ・ブロックが主演女優賞を獲得した「しあわせの隠れ場所」と同じような不満が残る。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎「船へ ゲーリー・スナイダーと七つの国の詩人たちに」

2010-05-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋睦郎「船へ ゲーリー・スナイダーと七つの国の詩人たちに」(「現代詩手帖」2010年05月号)

 高橋睦郎「船へ ゲーリー・スナイダーと七つの国の詩人たちに」には何回か数字が出てくる。タイトルにも「七つの国」とある。その「数字」に私は惹きつけられた。

私たちは 乗りこんだ
一つの船 七つの国の詩人たち
一週間 七日のあいだ
めいめいの詩を めいめいに朗読
共通の詩 もう一つの声について
論じあった あげくのこと

 3行目の「一週間 七日のあいだ」。ここに私は、この詩のすべてを見た、ここに詩がある、と感じた。
 学校教科書的に、国語作文風にいうと、これはことばの重複である。「一週間」は「七日」に決まっている。「一週間」か「七日のあいだ」のどちらかで「意味」は充分につうじる。わざわざいいかえる必要はない。
 ところが、3行目で、その言い換えがあるために、「一」と「七」が同じものであることが明確になるのだ。3行目の「一」と「七」は2行目の「一」つの船、「七」つの国の詩人たちの「一」と「七」と重なり、そこには「七」つの国の詩人たちがいるのだけれど、そこにそうしているのは、実はその「七」が「一」だからである。
 「詩人」という「一」であり、そしてそれは5行目の「もう一つの声」の「一」につながっていく。詩人というのはどんなにたくさんいても、同じ「一」の声をもとめているのだ。同じ「一」の声と結びつくことで、詩人になる。それを確認する。その旅なのだ。高橋が参加していた旅は。
 そして、いったん「一」になれば、それはどこへ行こうと「一」なのである。それがどこであっても「一」つの声につながる「いのち」をそこに出現させる。つまり、詩を出現させる。だから、もう何を書いてもいい。何を書いても、その「一」に触れているから、詩なのだ。

言葉と論理を すべて忘れ
頭と心を からっぽにして
軽くなって さて 何処へ?
塵あくた ゆれる波づら
高く 低く 群れる海どり
高層ビルの ひしめき立つ
半島 と 島 のあいだの
海峡を抜け 外洋に出て
インドへ? アラビアへ?
アララトへ? アトランティスへ?

 ワープロでは出てこない文字があるので、あとは省略。(「現代詩手帖」で確認してください。)そういう旅、インドもアラビアも区別しない「一」つのものにつながるものとしてとらえてしまう旅のあと、また、数字が出てくる。

--けれど きっかり五時間後には
めくるめく 五億年から 帰ってくる

 詩人が旅をしたのは、「五時間」ではなく「五億年」。「五」という「一」の文字のなかで「時間(1時間、2時間という単位)」と「億年(年という単位)」が結びついて、そのはるかなひろがりを一気に「一」つにしてしまう。
 それが詩なのだ。
 場所も時間も超えてしまう。場所も時間も超越することばの力が詩である。それは「何億もの」人間、ひとりひとりの人間の違いさえも超越してしまう力をもっている。

 最後にもう一度数字が出てくる。

いったい何処へ 行こうというのか
私という船は? 船を乗っ盗った
我儘な 数えきれない船客たちは?

 どこに数字がある?と質問されるかもしれない。「数えきれない」が数字である。「無数」という数字である。
 いま、何気なく「無数」と書いて、書きながら気づいたのだが、これは不思議なことばである。「ぜろ」を「無数」とは言わない。「数」がないなら、それこそ「ぜろ」なのに、「無数」というとき私たちは、数えきれない、多くの数を思う。
 そしてその「無数」とは、実は「一」つの数なのだ。
 この詩には「一」「七」「五」という数字がでてきたが、その最後には「無数」という数字がでてきて、その「無数」は「一」「七」「五」という数と同じように「一」つなのだ。「一」のことがらとしてあらわすことのできるものなのだ。 

 一則多。多則一。「多」のかわりに、高橋は「無(数)」をおいている。それは詩の最後(ことばの運動の最後)になってきたもののように見える(構成ささている)が、書き出しの部分で、すでにすべてを含んでいる。



高橋睦郎詩集 (現代詩文庫 第 1期19)
高橋 睦郎
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする