監督・脚本 リー・ダニエルズ 出演 ガボレイ・シディベ 、 モニーク 、 ポーラ・パットン 、 マライア・キャリー
主役のアフリカ系少女の異様な体形に驚いてしまう。とてつもなく太っている。その少女が、両親の暴力に耐えている。暴力を振るわれても彼女にとっては両親であることにかわりはない。愛してもらいたい、という気持ちがあるのだろう。暴力に耐えながら、暴力を忘れるために夢を見る。その夢が、またまた変わっている。いや、かわっていない? どちらかわからない。わけがわからないくらい強烈である。彼女の体型と同じように、一回見たら忘れない。
彼女は夢の中では、歌って踊れるスターである。そして人気タレントを恋もしているらしい。そんな夢を見ている場合なのか、という気持ちがしないでもないのだが、そんな疑問をかき消すように、彼女の夢は鮮烈である。夢の中で、ほんとうに生き生きしている。とても虐待を受けているようには感じられない。その明るさ、あるいは能天気さ。そんなふうに現実と完全に離れてしまわないと、虐待には耐えていけないのかもしれない。
虐待から逃れるときだけではない。彼女は、なんでもない日常そのものの時間でも夢を見ている。毎朝、鏡を覗いて髪の手入れをする。そのとき鏡のなかでは、彼女は白人であり、金髪である。もちろん太ってなどいない。ふつうの(?)、思春期の少女そのままに、自分自身を「いちばんかわいい」と思って鏡を見ているのである。
あ、そうなのだ。こころと肉体は別なのだ。どんな肉体をもっていても心は「共通」なのだ。
それは、母も同じなのかもしれない。年をとって夫から相手にされない。夫が求めているのは若い肉体であり、その若さという点で、母は娘には絶対にかなわない。それが悲しい。それが悔しい。だから、父にレイプされる娘にさえ嫉妬する。なぜ、私が愛されないのか、と。
あるいは、この映画は、虐待を受けていた少女が自立する物語ではなく、そんな少女と一緒に生きる母の苦悩を描いた作品といえるかもしれない。母を演じたモニークがアカデミー賞(助演女優賞)を獲得しているが、それは当然のことかもしれない。彼女の苦悩は、少女の場合と違って「夢」のなかで発散されないのだ。母は夢を見ない。母には現実しか見えない。いつも冷めているのだ。
そして、どうするか。
嘘をつくのである。どんなふうに孫の世話をしているか、どんなふうに求職活動をしたか――そして、その嘘で現実から生きるために必要な金(生活保護費)を手に入れる。嘘が母の「いのち」をつないでいる。
この落差の激しさを、映画は厳しく描いている。そこがこの映画の一番すばらしい部分だと思う。
映画だからしようがないのかもしれないが、この作品は、そのせっかく暴きだした現実の「いのち」のありようを、「愛」で見えなくしてしまう。少女の夢と母の嘘。そのどんな接触もありえない深淵を、他人の善意が埋めてゆく。そして少女をすくいだす。少女は愛に触れることで、無事に育っていく。ほんとうは「無事」ではなく、大きな現実の苦悩を背負い込むのだが、それでも愛そのものを生きることを学ぶ。自分の子供を愛し、育てていくことを決意する。――この結論(?)が、私には、ちょっと残念。少女が生きる力を獲得するのはいいけれど、なんだか「善意」のとらえかたが胡散臭い。現実って、ほんとうに、そんなふうに動いてくれるのだろうか。サンドラ・ブロックが主演女優賞を獲得した「しあわせの隠れ場所」と同じような不満が残る。