詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェームズ・アイヴォリー監督「眺めのいい部屋」(★★★★)

2010-05-17 19:08:17 | 午前十時の映画祭

監督 ジェームズ・アイヴォリー 出演 ヘレナ・ボナム=カーター、デンホルム・エリオット、ジュリアン・サンズ、ダニエル・デイ・ルイス

 イギリス映画は色彩が美しい。特に緑と黒が美しい。
 この黒の美しさと、ヘレナ・ボナム=カーターの黒い目が調和して、気持ちがいい。ヘレナ・ボナム=カーターが弾くピアノも当然黒い。彼女の容貌にぴったりあっている。一方、恋人が黒い髪、黒い目のダニエル・デイ・ルイスと青い目、金髪のジュリアン・サンズと対照的なのも、この映画ではとても効果的だ。黒と黒も強靭な輝きだが(たとえばティム・バートンが好むヘレナ・ボナム=カーターとジョニー・ディップの組み合わせ)、ヘレナ・ボナム=カーターの黒は、瞬間的にぱっと輝く、その輝きが青い目、金髪の明るさに照らされるとき、さらに美しくなる。輝きが、透明に変わる。ヘレナ・ボナム=カーターが、ダニエル・デイ・ルイスではなく、最終的にジュリアン・サンズを選ぶのは必然だね。そうしないと、映像の美しさが半減してしまう。
 この映画は、色彩計画がとても綿密に立てられているのだ。
 小説では、色彩はどんなふうに描かれているのか。原作を読みたくなる映画である。



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北川透『わがブーメラン乱帰線』(2)

2010-05-17 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(2)(思潮社、2010年04月01日発行)

 きのうの感想のつづき--のはずだけれど、つづいているかどうかはわからない。つづくかどうかは、わからない。
 私は昨年秋に網膜剥離の手術を受けた。その後、パソコンに向き合うのは連続30分までと自己規制しているので、書くのもとぎれとぎれだ。そして一晩寝てしまえば、もうきのうのことは忘れている。
 でも、つづかなかったからといって、これから書く感想が間違っているかどうかはわからない。つづかないことによって、きのうのことばではたどりつけないものにたどりつくかもしれない。まあ、これは希望的観測。どうでもいいことだね。

 北川の「朗読しないための朗読詩の試み」が、完成予想図(?)をもって書き始められたものであるかどうかはわからないが、私は、設計図なしに動き始めたことばだと感じている。そして、そう感じるからというわけでもないのだけれど、私もそれにならって完成予想図なしに、この感想を書き始めている。
 北川の詩を読んで、どんなふうに私のことばが反応するのか--それをそのまま、再現したいとだけ思っている。



((夕方、団地の奥まったところにある、わたしの家の道路がわずかに濡れていることに気づいた。

 この行に出会ったとき、私は、ふいにその行を書き換えたいという欲望に襲われた。その行を書き換え、そこから私のことばを動かしてみたいと思った。詩を書きたい、と思ったのだ。

((夕方、団地の奥まったところにある、わたしの家の道路がわずかにずれていることに気づいた。

 道路が「ずれる」ということは、ありえない。「ずれる」としたら、地図とか、私自身の「意識」というものだろう。
 そして、その「意識」ということばを思いついた瞬間、私は、また急に北川の詩にひきもどされたのだ。
 北川のことばはナンセンスに動く。道路に「意味」があるとしたら、北川のナンセンスは「ずれた」道路である。「ずれる」ことによって、実際にあるものと「意識」の結びつきをゆさぶり、ことばが「意識」であることを明確にする。
 自由なことばとは、自由な意識のことなのだ。過激なことばとは、過激な意識のことなのだ。疾走することばとは、疾走する意識のことなのだ。
 そう思って読み進んでいって、またまた不思議な気持ちになる。

((夕方、団地の奥まったところにある、わたしの家の道路がわずかに濡れていることに気づいた。誰かが水をこぼしたのだろうか。

 このことばは、実際に書くことができる。「気づいた」は過去のことだから、そのことを思い出して書いていることになる。「誰かが水をこぼしたのだろうか。」は想像したことがらである。このとき、「わたし」は文字を書ける、ことばを動かすことができる状況にいる。
 ところが。

皮膚の内外の穴という穴は、げぼげぼ吐いている。でも、身体には不思議な浮力があって、げぼげぼ、げぼげぼしながら、流されていく。家ごと流されているのか、わたしだけが家の外を流されているか、もう分からない。助けて! 助けて! と叫ぶけど、げぼげぼ、げぼげぼ言っているだけで、たぶん、声にはなっていない。

 これって、どうやって書いているの?
 体中水浸し。そればかりか、自分の身体からも水を吐き、助けて、助けてと声にならない声で叫びながら水に流されている。そんなことをしながら、文字が書けるはずがない。そんなふうに自分を描写できるはずがない。
 その「できないこと」、それをことばは「書く」ことができる。

 ここに、ことばの「秘密」がある。詩の(文学の)秘密がある。
 ことばは現実とは関係ないことを書くことができるのだ。実際に体験しなかったこと、体験するはずもないことを、実際にあるかのように書くことができる。そして、それは書き方次第で単なるばかなうそになり、あるときは現実よりもつよい真実になり、ひとを動かしてしまうことさえある。

 北川は、詩を書くことで、ある意味で私たち読者にうそをいい、騙しているのだが、それが成功しているということは、もしかすると、現実に流通していることばが真実に見えても、ほんとうは「うそ」かもしれないという可能性を浮かび上がらせる。
 北川の書いている溺れそうになりながらのことばは明確にうそとわかるが、そうではないことばが現実に「流通」していないか。
 そういう「流通言語」と北川のことばは直接対決していないが(直接的に「流通言語」のうそをあばいてはいないが)、直接対決しないだけに、よけいに厳しく「流通言語」を叩いているようにも感じられる。
 ことばは、どんなふうに動いていけるのか、それは意識をどんなふうに覚醒させるのか、あるいは覚醒を装って眠りに陥れるのか……。

 そんなことを考えなければならないのかもしれない。
                               (つづく、予定)





萩原朔太郎 「言語革命」論
北川 透
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