詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デイヴィッド・リーン監督「アラビアのロレンス」(★★★★★)

2010-05-11 16:19:53 | 午前十時の映画祭


監督 デイヴィッド・リーン 出演 砂漠、ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、アンソニー・クイン、ジャック・ホーキンス、オマー・シャリフ

 「午前十時の映画祭」14本目。
 2009年03月28日、KBCシネマで「アラビアのロレンス(完全版)」というのを見ている。そのときと印象がまったく変わってしまっている。(私の記憶のなかでは、昨年の秋に見た、ことになっているのだが、調べてみたら違っていた。2009年03月28日の「日記」に感想をアップしてあった。)
 印象の違いのいちばん大きな差は、スクリーンの大きさである。今回は天神東宝の5階の劇場で見た。見た目の印象では面積が2倍以上違う。だから迫力が違うのである。
 そして、これは不思議でしようがないのだが、スクリーンの大きさが違うと、なぜか、映像ではなく、音にまで神経が行き届いてしまう。気がつかなかった音を聞いてしまう。それが今回感じたいちばんの違いかもしれない。



 デイヴィッド・リーンは映像が美しい。ときには、その美しさが形におさまりすぎて窮屈な感じがするときもある。たとえば、この映画では冒頭のシーン。ピーター・オトゥールがオートバイに乗るまでのシーンを俯瞰画面でとらえている。スクリーンの左上方に頭が下向きになる形でオートバイが止まっている。右側には地面が写っている。その空白を利用してクレジットが出る。そのバランスが、とても美しい。決まりすぎているので、見ていて目が遊んでしまう。既視感がある。(実際に、この映画を見るのは私にとっては3度目になる。)
 たぶん、この既視感のせいなのだが、目に余裕が出てくる。映像をあまり真剣に追わなくなっていることに気がついた。そして、代わりに音に気がつくようになった。
 この映画は、音にもとても神経を配っている。またまた冒頭のオートバイのシーンだが、ピーター・オトゥールがどんどんスピードを上げていく。そうすると、風が耳を切る音が聞こえてくる。あ、と声を上げそうになる。私は、きょうまで、その音に気がつかなかった。バイクのエンジン音は聞こえていたが、風のぴゅんぴゅん(ほんとうは違う)という音は、きょうはじめて聞こえてきた。この映画は「音」の映画でもあるのだ。
 それは砂漠のシーンではもっと明確になる。ラクダが砂漠を踏みながら歩くときの音。砂が風に流されるときの音。そういう音がていねいに拾い上げられている。
 砂漠は何もない。障害物が何もない。砂だけがある。その何もない空間のなかで、アラブのひとたちの強靱な視力が生まれ、それはこの映画でも何度か描かれている。はるか遠く、ふつうの人(ピーター・オトゥール)には見ることのできない遠くの人間まで、彼らは見る。その小さな小さな点が人間の形になって近づいてくるのを巨大なスクリーンが再現する。そういうこともあって、この映画は、視力の映画のような印象があったのだが、そこには小さな音も正確に再現されていた。
 思えば、砂漠は沈黙の空間でもある。
 そこには「生活」というものがないので、「音」がない。ただ広い空間がある。そういうところで育った人間の耳は、やはり視力と同じように強靱に違いない。小さな音を敏感に聞き取るだろう。音の違いを聞き取るだろう。人間が歩くときの砂の音、ラクダがあるくときの砂の音。静かな風が砂を動かすときの音。砂嵐の前の砂の動く音。そういうものを、砂漠の住民は聞きわけるに違いない。その違いを信じて、デイヴィッド・リーンは映画に定着させている。
 砂漠の音がふつうの街の音とは違うという点は、こだま(やまびこ)のシーンでくっきりと描かれている。ピーター・オトゥールが歌を歌いながら砂漠をゆく。そうすると、切り立った岩山が彼の声をこだまにして返してくる。その「音」は輻輳する。何度も何度もこだまにある。音がそんなふうに私たちの日常が聞き取るものとは違っているということは、そういう音の違いを聞き取る耳を、やはり砂漠の人々は持っているということを証明するだろう。
 それは声の出し方にも影響する。どういう声が、その何もない空間、砂漠では遠くまでとどくか。砂漠の兵士たちが出征するとき、見送る人々は、ぴゅるるるというような笛のような声を出す。その声の「異質」な感じ。これもまた、砂漠が産んだものなのだ。

 砂漠の何もない空間、澄みきった空気のなかで磨き上げられた映像と音に触れていると、まるで自分が生まれ変わるような気持ちになってくる。
 これは、衝撃的だった。今までは、砂漠の映像の美しさに目を奪われて、耳がおろそかになっていた。目だけがスクリーンを追っていたのだ。映画は映像と音でできているが、その映像に神経を奪われすぎていて、音に気がつかなかった。しかし、そこにはちゃんと砂漠の音があったのだ。
 この私が体験した砂漠--視覚が鍛えられ、同時に聴覚も鍛えられ、いままでとは違った「肉体」で社会を見る、そこに生きているひとを見るということは、きっとアラビアのロレンス自身にも起きたことに違いない。
 彼は、本来の彼なら(つまり、砂漠に入り込まなければ)経験しなかったことを経験する。ひとを処刑する。少年が死んでいくのを見る。そういうことをとおして、彼自身が砂漠の人間になる。その砂漠の人間に生まれ変わるとき、その背後には、砂漠の空間、どこまでもどこまでも見渡せる空間、沈黙の空間も作用している。彼をとめるものは何もないのだ。視力がどこまでもどこまでも遠くまで行ってしまう、耳もまたどこまでもどこまでも遠くへ行ってしまう。そんな感覚のなかで、彼の「肉体」に潜んでいた何かが「たが」が外されたようにひろがっていく。
 「私はひとを二人殺しました。しかも楽しみました。」
 ロレンスは、そんなことを語るが、このことばさえ、そういうことを行ってしまうことさえ、障害物のない砂漠が引き起こした何かでもあるかもしれない。
 ぞくり、としてしまう。
 人間は、自然によってもつくられるのだ。戦争という体験だけではなく、砂漠という空間によっても人間はつくられるのだ。異質の空間にであったとき、人間は生まれ変わるのだ。



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小池昌代『コルカタ』(6)

2010-05-11 00:00:00 | 詩集
小池昌代『コルカタ』(6)(思潮社、2010年03月15日発行)

 インドを旅行して、小池は、わたし「は」いる、ではなく、わたし「も」いる、という「声」を出す人間に生まれ変わっている。そのとき、とてもおもしろいことが起きている。小池は日本から、一葉、ウルフ、石牟礼、泰淳、タゴールの「ことば」をもってきた。その「ことば」が消えているのだ。小池は、もう「一葉、ウルフ、石牟礼、泰淳、タゴール」とは言わないのだ。
 わたし「も」いる、といいはじめたとき、実は小池は、わたし「は」いると言っていることになる。自分の声ではっきりと語りはじめていることになる。
 その「声」に、一葉、ウルフ、石牟礼、泰淳、タゴールがたとえまじっていたとしても、それは一葉、ウルフ、石牟礼、泰淳、タゴールではなくて、むしろ、小池がいまいるところ、「インド」のひとの「声」と共通するものにかわってしまっている。
 「決心」は、そんなふうに生まれ変わった小池の、もうひとつの姿をあらわしている。

ドアは二つ
どちらにする?

奥のほうから 開けてみる
とーんと 指先で ドアを つついて
下と脇に 白い陶器
穴がない 困ったな

手前を開けると こちらには穴がある
どこから見ても 便器である
ただ そのなかに
こんもりと 山をなしたる排泄物
その汚れ方、量、匂い、危険性、すべてにおいて、最大級といってよいものだ
周囲には うなる ハエや蚊の群れ

しかし躊躇は 一瞬だけ
すばやく下半身をむきだしにすると
まるでものすごく 遠いものに
橋を渡すような決心で
右と左に 足をかけ しゃがみこみ
わたしは
穴の上に 自分をさらす
長いような短い 数秒が
ぽたりぽたり
解かれるように ゆっくりと すぎていく

すごいです! こんなところで よくやりましたね
ドアを開けると
待っていてくれた後藤さんが褒めてくれた(そのひとも 山を見たのだ)
たいしたことないわよ
そう言いながら
わたしは すこし でなく だいぶ 得意になる
ただ おしっこを したにすぎないのに

 一葉やウルフ、タゴールのことばのかわりに、「後藤さん」の声が語りかけてくる。「すごいです! こんなところで よくやりましたね」。それと同じような会話を小池が日本でもしたことがあるかどうか。たぶん、ない。だいたい、同じ状況がないのだから、日本では、そんなふうにことばは動かない。
 そして、それに対して「たいしたことないわよ」と答える。その「声」。
 そのとき、小池は「日本人」なのだろうか。

 わたし「は」いる、ではなく、わたし「も」いる--そう言うとき、わたしも「いる」は、わたしもインド人で「ある」ということなのかもしれない。
 わたしは、いま、ここにいる。インドにいる。そしてインド人と同じトイレをつかっている。そのとき、わたしは「すごいです! こんなところで よくやりましたね」と言う「日本人」ではなく、「たいしたことないわよ」とインド人の「声」で答えるのである。
 そして、それはインド人で「ある」を超えて--つまり、超えないことには、日本人で「ある」ことと矛盾してしまうからなのだが、人間で「ある」になる。
 そこには人種にくくられた国民がいるのではなく、「いのち」をかかえて生きている「人間」がいるだけである。その「人間」の「いのち」の次元で、小池はインド人と出会っている。
 ただ、汚いトイレでおしっこをしただけで。--たしかに、それは「だだ」にすぎない。けれど、その「ただ」と呼ばれている「おしっこ」をするということは、人間ならだれでもしなければならないことのひとつである。「肉体」がそうすることを求めている。「肉体」が求めていることに「ただ」というものはない。
 「頭」が、何かと比較して、その「肉体」の欲求を「ただ」と呼んでいるだけにすぎない。
 小池は、また一歩、インドの内部へ入り込んだのである。生まれ変わったのである。
 --おおげさだろうか。おおげさかもしれない。けれど、同行の「後藤さん」、小池の行動を直接見ているひとが「すごいです!」と感嘆するのだから、やはり生まれ変わったのである。

わたしは すこし でなく だいぶ 得意になる

 自慢話(?)というのは、私はあまり信用しないけれど、こういう自慢話は信じるなあ。いいなあ、と思う。私は小池という人間を直接は知らないが、こういう自慢話をする正直なひとは好きだなあ。

 この詩集は、竹田朔歩の『鳥が啼くか π』が95点以上の詩集であるのに対して、もしかすると70点くらいの詩集かもしれない。でもねえ。その70点であっても、私は、小池の詩集の方が好きなのだ。
 好きになってしまうと、それ以外のことはどうでもよくなってしまう。



ことば汁
小池 昌代
中央公論新社

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