詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒木時彦「drawing 」、時里二郎「言葉の裂(きれ)」

2014-11-02 12:28:47 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木時彦「drawing 」、時里二郎「言葉の裂(きれ)」(「ビーグル」25、2014年10月20日発行)

 「ビーグル」25が「作品特集・短い詩」を組んでいる。私は長い間詩を書くことを止めていたので、最近はリハビリリのようにして短い詩を書いている。私の場合は、短さを狙っているわけではなく、単に長い詩が書けないというだけのことなのだが。一方で、小学生や中学生のとき書いていた詩(宿題や何かで書かされた詩)は20行も書かなかったなあという思いもある。漢詩絶句も短いよなあ。短いのが詩の本来の形かなあ……。
 ほかの詩人はどんな「短い詩」を書くのかな、という興味で読みはじめたが、うーん、どれも長い。とても長い。どの詩も1ページに納まっているから、行数としては「短い」のだが、印象としては「長い」。
 どうしてだろう。
 そう考えながら読み進んで、荒木時彦「drawing 」。あ、これは「短い」。

コップの水を飲む

          小鳥が

  鳴いている

  内側から外側へ
移動

頭上に見えるのは空だ

 「短い」と感じたのは、ことばがばらばら(?)に配置されているからかもしれない。(ブログでは詩の形を正確に再現できない。「ビーグル」で確認してください。)空白がことばを短く感じさせる。
 それだけではないようにも思う。
 ことばが指し示している「対象」が身近でわかりやすい。これも「短い」には重要なのかもしれない。知っていることばの方が知らないことばよりも「肉体」になじむ。「肉体」が覚えていることばがはすばやく動くので「短く」感じるのだと思う。
 さらに。
 この詩の動きの中心になるのだと思うが、「内側から外側へ」ということばが複雑である。ことばそのものは単純だが「複雑」に読むことができる。
 「内側から外側へ/移動」したのは、誰か。
 情景としては、書かれていない「私(主語/話者)」がコップの水を飲んでいて、そのとき小鳥の声が聞こえたということなのかもしれないが、そのあとに「内側から外側へ」ということばが来た瞬間、私には、小鳥がコップの縁に止まって水を飲んでいる姿が見えてしまった。小鳥がコップの縁の円周を歩きながら水を飲んでいる。囀りながら水を飲んでいる。そのときの円周の動きというのは「内側から外側へ」ではなく、円周上の移動なのだが、水がコップの内側にあるために、一瞬錯覚したのだ。コップの水はどこから飲もうと一様に減っていくのだが、小鳥はいま飲んでいる場所の水が減ったので、水の外側(円周)を移動しながら、もっと水の多い「内側」を探して移動する。それは物理的には「内側から外側へ」という移動ではないのだが、小鳥の気持ち(?)としては、こっちの「内側」はだめだから、あっちの「内側」の水を飲むために、とりあえず水の「外側」を移動していく、という感じ。
 こんなことは、書いていない。「誤読」である。
 だから、というと強引になりすぎるのだけれど、だから詩である。だからおもしろい。何か「誤読」を誘うものがある。読み終わった瞬間、さっき感じたことは「間違っている」なあ、と思う。思いながら、その「間違い」はおもしろいかも、と思う。そこに詩はないだろうか。
 作者の気持ちは気持ちとしてあるのだろうけれど、それを無視して、私(読者)の気持ちがかってに動く。かってに動いて、いままで気がつかなかったもの(こと)を、「わかった」ように感じる。そういう瞬間が、詩なのではないかなあと、私は思っている。
 そういうことが、荒木の詩、特に「内側から外側へ」ということばに出会ったときに起きた。そして、この詩が「短い」ので、その印象が、そのまま詩全体の印象になる。印象の核になる。その一行のなかに、詩の全部があるという印象になる。
 これが「短い」ということなのだろうと思った。

 あ、「頭上に見えるのは空だ」という行が残っている?
 これは、鳥になった私が水を飲み終えて、空へ帰るために空を見上げているところ。
 荒木は、部屋の内側にいて水を飲み、鳥の声を聞いて部屋から外側へ移動し(部屋から庭とか、ベランダとかに出て)鳥はどこだろう、とまわりを見まわした。鳥は見つからなかったが、高い空が見えた--ということを書いているのかもしれないけれど、私はすっかり「鳥の気持ち」になってしまった。

 と書いただけでは、実は「嘘」の感想になる。
 この詩は、実は「後半」がある。あるいは「別のもう一篇」なのかもしれないが。「*」マークをはさんで、次のことばがある。

湖面には様々なものが映っている。空や雲、水際の木々の葉や、湖上を飛び交う鳥、光の粒、自分の姿。小石や砂、水草、小さな魚が透けて見える。湖面では、映っているものと、透けているものが、すべて等しく見える。湖の底がどのようになっているのかは分からない。しかし、湖の深さというものは、その湖面そのものに宿っているようにも思える。

 うーん、とたんに詩が長くなったという感じがする。「散文詩」でことばがつまっている。ことばとことばの間に余白がないから、ことばが長々と連続していると感じるのか。ことばのそれぞれが独立した感じがないから、長いと感じるのか。
 「しかし」ということばが、とても私には「浮いて」見える。そこには「もの」ではなく「論理」が動いているからかもしれない。もの(こと)が単に描写(ドローイング)されているだけではなく、「論理」が入り込んでいるから長く見えるのかもしれない。「論理」というのは、作者(荒木)がつくり出した「論理」である。荒木は、こう思っている。それを読者も受け入れてほしい--そういう感じで「論理」が動く。「論理」というのはいつでも、話者の「論理」の押しつけになる。
 (「しかし」以前に、「すべて等しく見える」という部分から、実は「論理」は始まっているのだけれど、ちょっと面倒なので、いちばんわかりやすい「しかし」ということばを例に書いたのだけれど……。)
 で、この「論理の押しつけ」(意味の強要)という点から、コップの水と小鳥の部分にもどると……。
 その前半には「論理」のことばがない。「内側から外側へ」というのは非常に物理的で明確なことばだけれど、「内側」と「外側」の説明を荒木が省略しているために、そこに「論理」が見えない。「論理」が欠落している。その結果(?)、「論理」は、そのことばを読んだひとが自分でつくらなければならない。もし、論理を必要とするならば。
 私はとても理屈っぽい人間なので、その「論理」の欠落を補ってしまう。主語を「水を飲む私(人間/詩人)」ではなく、「水を飲む小鳥」にして「論理(意味)」をつくってしまう。
 「論理」というのは繰り返しになるが、それを言うひとが自分の都合にあわせてつくりだすものである。自分で納得し、その納得を他人に押しつけるための方便として「論理」というものがある。
 私の「誤読」は、私の「かって」なのである。そして、こういう「かって」が許され、好きな風に「意味」をでっちあげることができたときに(好きな風に自分が納得できたときに)、私は詩を感じているのだ。それを詩と読んでいるのだ。

 あ、「短い詩」というテーマ(?)から、ずれてしまったかな?
 そうでもないのかな?
 「論理」を押しつけてくると感じられることばは、それがどんなに短くても「長い」と感じてしまう。あんたの論理なんか聞きたくない、という気持ちになってしまう。「聞きたい」という気持ちが強ければ、「長い」とは感じないということかもしれないけれど。

 もうひとつ、長さ、短さについて時里二郎の詩を読みながら思ったことを書いておく。「言葉の裂(きれ)」。

むへ ぬち たげ わか やよ そひ
綾にからまる消息の驟雨の向こう
きいろい空をふく かぜ
急ぎあしをたばねて
やも ひけ むせ ほき
めかくしをして 少しずつ口写しに
鳥のかたこと 鳥のことかたを
かたり たかり かりたたた かたりりりり

 わーっ、美しい、と思わず声を上げてしまう。
 「むへ ぬち たげ わか やよ そひ」というのは何のことか。わからない。次の行を読むと「綾」に関する「呼び方」なのだろうという推測はできる。「綾」には幾種類もあり、そのひとつひとつに名前をつけているのだと推測できる。(誤読できる。)その瞬間に、「暮らし」が見える。ひとが見える。ひとの動きが見える。見えるといっても、私には「綾」の区別ができないから、それがはっきりわかるわけではないのだが、ひとが「綾」を織っている姿、そのときの手の動き、糸の選び方なんかが、ぱーっと広がって見える。
 断片的なことばなのに、「情報量」が非常に多い。非常に多いのだけれど、ひとつひとつが明確な結晶になっている。ことばにぶれがない。強いことばだ。この強靱さが、詩を「短い」と感じさせる。ほんとうは膨大な「長さ」をうちに秘めているのだけれど、「暮らしのなかの作業の充実(肉体の動かし方の定型化法)」「人間の動き」がくっきり見えるので「長い」と感じない。
 「論理(綾の織り方)」が「肉体」となって、そこにある。ことばのひとつひとつが「肉体」をともなっている。そういう感じだな。
 その「肉体」を時里は「口写し」で自分の「肉体」のなかに入れている。小鳥の囀りのような、短いことば。そのことばのなかにある充実をそのまま時里の肉体にしようとしている。この「交渉」が美しい。
 どんなに短くても、世界と明確に向き合えることばがある。短いけれど、とても長いことばだ。そこにある時間はとても長い。けれど、瞬間として結晶化できることばがある。「短い詩」というのは、きっとこういうことばでできている。
 「神話のことば」(ことばの神話)と言えるかもしれないなあ。

 でも、この詩にも実は後半がある。

名井島(ないじま)の博物館に保管されている 言葉の裂(きれ)を見てまわる
とひ ひづ まん ゆふ さひ
既に詩はヒトのものではなく 言語に特化したアンドロイドの詩の時代
あの大異変(カタストロフ)を詩に記したら彼らのほとんどは廃棄された
回収された言語チップに残されていた最後の言葉の破片が凍結保存されている
ことのはに瓦礫はない ことのはに終息はない
ことのはの産毛(うぶげ)のひかり ことのはの息のもがき
みわ うれ さへ かめ              あは

 この部分を読むと、私が「綾」と思ったのは、実は「方言」のことだとわかるのだが、まあ、それは置いておいて……。
 とたんに詩が長くなったという印象に変わってしまう。ことばが独立していない。ことばが何かを「論理的に語る」ための要素になっている。
 豊かな方言が破壊され、いまは、断片として収集・保管されている。そのことばは「口語」として「肉体」から出てくることはなくなってしまった。しかし、どのことばも「瓦礫」ではない、ことばのなかにある「息」をひきつぐ必要がある。「ことば」はどれも美しい--そういうことが書かれている、とわかる。
 時里のいいたいこと(主張)はとてもよくわかる。
 でも、「主張」がわからなかった前半の方が、私にはとても美しいと思える。美しさは「論理」とは無関係に存在する。この「無関係」が充実すると、詩は「短い」ものになる。「裂(きれ)」、つまり「織物(ストーリー)」から切り離された断片のことば(方言)、文脈から独立した(文脈から無関係になった)ことば--そこに詩の根源があるように思う。根源を直接つかめば、それは「短い詩」になるのだろうなあ。

memories
荒木 時彦
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時里 二郎
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走り去った雨が

2014-11-02 00:57:56 | 
走り去った雨が

走り去った雨が夜また警固の四つ角にもどってきた。
ビルの窓のなかへ引き返した明かりも再び雨のなかへ広がってくる。

北へ向かう大正通りのアスファルトに両側の光が集まってくるのは
雨粒が風に舞って乱れるからなのか、

ビルの間を落ちてくる空の暗さに押さえつけられてなのか、
長い長い逆さまの、輪郭のうるんだ町が生まれる。

バス停の立ち話は肩がぬれた透明な影になり、
「あしたは澄んだ晴れの真昼と、美しい夕焼けになるだろう




*



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