詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡本啓『グラフィティ』

2014-11-22 12:10:42 | 詩集
岡本啓『グラフィティ』(思潮社、2014年11月25日発行)

 岡本啓『グラフィティ』を読みながら、映画を見ている気持ちになった。あるいはアメリカ文学の翻訳を読んでいるような。
 描写(視線の動き方、ことばの切り取り方)が日本語の「なじみ」から少し逸脱している。
 タイトルのない巻頭の詩。

肩のあまったシャツ
もたれかけた指をはなすと
頬にニュースのかたい光があたった
あっおれだ、いま
映った、いちばん手前だ ほらあいつ、ほら
いまレンガを投げつける

 端正な映像(描写/カメラ)の3行のあと、説明を省略して口語(声/会話)が動く。そのリズムのなかに話者の「肉体」がある。「肉体」が履歴をもっていて、それを直接「肉体(耳)にぶつけてくる。
 こういう肉体表現を豊原清明も映画のシナリオで書いている。(たぶん岡本は知らないだろう。)映画の「文法」に親しんでいるのかもしれない。

きみは興奮しながらスープの豆を口に運ぶ
母親がひたしたスープ
煙がくるなか、担架を 肌のちがう二人が持ちあげて
走りさる

 「煙がくる」の「くる」という動詞は書かれてしまうとそのまま読んでしまうが、なかなか自分で書くのはむずかしい。対象の見方が日本語からは離れている。日本語では「火がくる」「水がくる」というような人間の手には負えないものは「くる」かもしれないが、煙は火に付随するもので主語として「くる」というのは、なかなかむずかしい。「主語」になりにくい。主語になるときは「襲ってくる」とか「這ってくる」とか、複合動詞の形になるかもしれない。「くる」のような単純な動詞の主語になるには存在感が薄い。
 で、あ、これは「翻訳」の文体、と私は思ってしまったのだが。

 こういう新鮮な感覚が随所にある。

掃除機がなっている
礼拝堂のなか
つるつるした木の背もたれ、お尻のところ
どの椅子も
そこだけニスが剥げている
きっと月曜は毎週そうしてきたんだ
Tシャツごしに
せなかの死亡をゆらすかれは
こちらを気にとめない                     (「椅子」)

 これも、映画。礼拝堂の内部が全景(遠景)でとらえられ、そこに掃除機の音(ノイズ/雑音)がある。礼拝堂の静けさと矛盾したノイズが、映像に活気を与える。カメラは全景から椅子へと動いていく。焦点がしぼられていく。眼(視線)が「つるつる」を通って触覚を刺戟する。それが「お尻」という「肉体」のボリュームへ動いていく。そういう径路を通って、再び「そこだけニスが剥げている」と視覚へ戻ってくる。
 そして、「きっと月曜は毎週そうしてきたんだ」と転調する。自分のこころの「声」を聞く。「声」をことばにする。
 映像と「声」の組み合わせ方が映画文法(アメリカ映画文法)にとても似ている。

あの日は それからつれだって
ワシントン・モニュメントのほうまで演説をみにいった
めのまえ
蚊がおんなの黒い肩にとまって
おぼえてる
すっぱかった すごいひとで
おれは息があがってた                   (「8.28.1963 」)

 岡本の実際の体験を描いているのかどうか、わからない。タイトルとなっている「日付(?)」からすると体験ではないのかもしれないが。
 群衆を「めのまえ/蚊がおんなの黒い肩にとまって」といきなりアップの映像でつかみとるところが映画的だ。それから「おぼえてる」と「声」を重ね、「すっぱかった」と視覚を別の感覚(味覚? 嗅覚?)に切り換えて、肉体で「人間」をつかみとる瞬間の文体の短さ、文体の速さがアメリカ文学のようで、新鮮だ。
 ほかにもこういう文体で書く詩人がいるかもしれないが、私は、最近、読んでいない。とても新鮮で、明るい気持ちになる。
 詩の内容(意味)は明るくないのかもしれないけれど、文体の強靱さが、読んでいて気持ちがいい。
 一方で、

シモバシラ
ちいさな地球のおと
一晩かけてゆっくり地面をもちあげた
そのちからに触れたくて
おもわず掘りおこす
やわらかなひかりを反射する
つめたいかけら                      (「グラフィティ」)

 という日本の古典文学のような繊細なことばもある。漢字とひらがなのバランスを考えながらことばをていねいに動かしている。

排水溝へとつづく砂のながれも
みずをほしがってた                    (「ペットボトル」)

 という美しい二行もいいなあ。

 でも、詩が長くなるにつれて、映像と声の交錯が、モノローグになってしまっているような感じがする。それが岡本の本質なのかもしれないけれど、私は前半の映画そのものをアメリカ文学の文体で再現した感じの詩が好きだなあ。

グラフィティ
岡本啓
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15)

2014-11-22 11:10:10 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「アイ」は「故郷」とも「ひらがな」とも違うタマシヒを書いている。違うのだけれど、強く結びついているとも感じる。

一人のカラダがもう一人のカラダの深みに沈むとき
タマシヒはさらに深いところにいる
情に流されず
知に惑わされることもなく
人はヒトデナシという生きものになっていて…

タマシヒに守られて
アイに近づく

 一行目はセックスを連想させる。セックスを書いているのだと思う。セックスをするときタマシヒはどこにあるか。セックスとタマシヒは共存できるか。
 私はもともと魂の存在を信じないので、魂とセックスの関係を考えたことがないのだが、魂ほどセックスに似合わないことばはないように思う。「大和魂のセックス」なんて、変だよね。きっと人はセックスするとき、セックスにおぼれるとき、魂のことなんか考えない。
 そのことを谷川は、「タマシヒはさらに深いところにいる」と書いている。この「さらに深いところ」というのはカラダが沈み込んでいる深みよりもさらに深いという意味だけれど……。
 私は馬鹿だから何でも具体的に考えてしまうのだが、一行目の「一人のカラダ」と最初に書かれているのは男だろう。それが「もう一人のカラダの深みに沈む」とは女のカラダの深みに沈む。ペニスがヴァギナの奥に沈み込むと想像する。
 そのまま「論理」的に考えると、それよりも深いところ、ペニスが沈み込んだところよりも深いところ--これは、どこ? 女の子宮?
 うーん、変だぞ。男のタマシヒは女のカラダの奥にあることになってしまう。
 どこで間違えたのか。男のペニスが女のヴァギナに入っていくことがセックスととらえる男根主義(マチズム)が間違っている。私は古い人間なので、ついつい男根主義の手順(?)でセックスを想像してしまうようだ。反省。
 男と女が肉体をあわせる。結びつく。そのとき肉体に起きていることは、入る/入られるということではないのだろう。それは「便宜上」の動作であって、肉体はもっとほかのことをしている。簡単に言うと、男は女の肉体のなかに入っていくふりをして、自分の肉体の奥へ入って行っている。そして奥から、いままで自分が体験して来なかった快感をひっぱり出そうとしている。男根主義者なら女のなかから快感を引き出し、女によろこびを与える、というかもしれないけれど、そういう欲望も男の肉体のなかにあるのだから、男は男で自分の肉体と欲望を貪っている。自分に夢中になっているというのが恥ずかしいので、女によろこびを与えると嘘をつくのである。
 そういう「夢中」のさらに「深いところ」にタマシヒは「いる」と谷川は書いているのだろう。肉体のよろこびに夢中になる欲望(本能)とは別のところにタマシヒは「いる」と。
 で、そういうタマシヒから人間を見ると……。

人はヒトデナシという生きものになっていて…

 うーん。「ヒトデナシ」か。そうか、「ヒトデナシ」か。そうだろうなあ。「ヒトデナシ」だろうなあ。
 これは、別な言い方をすると「タマシヒデナシ」かもしれない。
 タマシヒではない、タマシヒとは別なもの。
 そう考えると「大和魂のセックス」というのが変ということもよくわかる。魂とセックスは決していっしょにならないのだ。魂がセックスを「魂でなし」と呼ぶのだ。ヒトが人を「ヒトデナシ」と呼ぶときがあるように。
 「タマシヒデナシ」ということばはないから、そのことばをつかって考えるのはむずかしいが、これを「ひとでなし」で考えてみると。
 「ヒトデナシ」と批判されても、そのときその人は「ヒト(人間)」なのだし、また、その「ヒトデナシ」と呼ばれる行為を止めるというのもむずかしい。どうしても「ヒトデナシ」になってしまう。ならずにはいられない。
 「ヒトデナシ」のなかには、セックスのことばで言えば「エクスタシー」が含まれている。自分が自分でなくなってしまう快感が。

 私はきのう(11月21日)、映画「俺たちに明日はない(ボニー&クライド)」を見た。二人は銀行強盗を重ねる。殺人もやってしまう。「ヒトデナシ」の行為だ。その最初の犯行のときの快感が「エクスタシー」。その瞬間、失業者であることを忘れる。ウェートレスであることを忘れる。何と名づければいいのかわからないが、たしかに「いままでの自分」の「外」にいる、自分を突き破って「外」に出た感じがある。自分が自分でなくなってしまう。何でもできるんだとうい悦びで肉体が満たされる。
 そういうことに対して、親の世代は「ヒトデナシ」とひとくくりにする。「ヒト」の道義に外れる、ということである。人間にはしてはいけないことがあり、それをすると「ヒトデナシ」になる。
 そう考えるとタマシヒは「道義」のようなものかもしれない。「道義」のように、変わらずにある何かに通じるものかもしれない。

 脱線したかな?

 谷川の詩がおもしろいのは、「ヒトデナシ」のような、論理ではうまく追うことのできない何かをつかんだあと、それが「意味」になる前に、そこからぱっと飛躍してしまうところだ。

タマシヒに守られて
アイに近づく

 セックスを描き、「ヒトデナシ」という「声」を聞き取り、そこから一気に「アイ」に飛躍する。この「アイ」は「愛」かもしれないし、英語の「I(私)」かもしれないが、「ヒトデナシ」になって自分から飛び出してしまって、そのあとで初めて「愛」に近づく。逸脱していく「私」をタマシヒが「愛」へと導く。
 「愛」は自分のに閉じこもっていては愛にはならない。愛とは、自分が自分ではなくなってしまってもいいと覚悟して、他人についていくこと、他人に従って自分の外へ出ていくことだから。自分ではなくなることによって、初めてほんとうの自分(アイ/I)になる。
 それこそ「情に流されず/知にも惑わされることもなく」、強い「愛」そのものになるのかもしれない。

 --こんなめんどうくさいことを谷川は書いているのではないのかもしれない。けれど、なぜか、こんなふうに私はめんどうくさいこと考えてしまう。
 谷川の書いていることばはどれもこれも簡単なことばというか、聞いたことのあることばなのだが、その「聞いたことがある」を私は自分の「肉体」のなかに探し回ってしまう。これは、いつ、どこで、どんなときに聞いたのだろう。そのとき私の「肉体」は何をしていたのだろう。それを思い出そうとすると、手探りになってしまう。
 手探りして、何かが見つかるわけではないのだが、手探りをしているとふと何かに触れたように感じる瞬間がある。あ、これはあれかな、とことばにならないまま、「あれ」を感じる。

 セックスと「ヒトデナシ」と「タマシヒ」と「アイ」。論理的に言いなおそうとすると、ごちゃごちゃしてしまうけれど、それはきっと「知に惑わされている」のだろう。「知」を捨てて(論理的になることを止めて)、きょうは「ヒトデナシ」と「アイ」がどこかでつながっているぞ、とだけ覚えておこう。

 この「アイ」のとなり(左ページ)に洗濯したシャツの写真。針金のハンガーに五枚。右側の三枚は風のせいでシャツがくっついている。左の二枚は離れている。光があたっている。影もある。その光と風と影の動きに、私は「肉体」を感じてしまう。それを着ていた「肉体」のことを思ってしまう。
 「アイ」というよりもセックスについて思ったからだろうか。




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あの日に、

2014-11-22 01:30:13 | 
あの日に、

きょうをあの日に戻したい。
噴水が枯れてしまって冬の光は行き場を失なっていた。
あの日、さらに別なあの日をひっぱり出してきて、
池の中央に並んだ杭にユリカモメを止まらせてみる。
水面に逆さまの白い形を見るために。
さらにあしたと別なあしたを入れ換えてみるが、
あの日は、もう直せないところまで直した記憶。
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