谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(4)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「タマシヒ」というタイトルの詩は不思議な紙に印刷されている。すこし透けて見える。詩は左側のページに印刷されている。裏側には何も印刷されていない。その次のページが、なんとなく透けて見える。
で、その詩は、
この詩も「タマシヒ」は「動かない」ものであるという印象につながる。「怖がる」というのはこころの動き。「はしゃぐ」というのは体の動き(こころの動きでもあるとおもうけれど)。けれど、タマシヒは「動かない」。そして、それは「こころ」よりも「体」よりも「深いところ」にいる。
その「深いところ」から目や耳を通して見たり聞いたりする、「ふだんと違って」見える。「ふだんと違って」聞こえる。たとえば「雑音の中から/澄んだ音」が。ふつうは、そういうものは聞こえない。
「タマシヒ」は自分が動かないだけではなく、ほかのものも「動かない」状態にするのかもしれない。このときの「動き」は「動揺」に近いかな? 動揺しているものを落ち着かせ、動揺をとめる。安定させる--それが「タマシヒ」。怖がったり、はしゃいだり、ざわめいたりという「動き」を静める。そうすると違ったものが見える、聞こえる。動き回る奥にある動かないものが見える、聞こえる。そういう状態に「世界」を変えるのが「タマシヒ」なのかもしれない。
そしてたぶん、その「動かないタマシヒ」「動かないもの/音」は、それぞれ「人間の肉体の奥」「世界の現象の奥」にあるという「意味」で統一される。「奥(深部)」という意味で統一される。
また、これは私の「誤読」の癖なのだが、
を私は「タマシヒ」は「いる(存在する)」という「意味」ではなく、「タマシヒ(が)入る」と感じてしまう。タマシヒが何かの奥に入ってく。そして、その奥にある何かをつかみ取る。あるいは共鳴する。(「肉体の奥(深部)」「現実の奥(深部)」に「入る」という動詞を誘う。
「いる」という状態をあらわすことばよりも、「動詞(入る)」の方が、いろいろなものが違って見えてきたり、澄んだ音が聞こえてくるという動きにあうようにも感じる。
あるいは「いる」は「ある」ではなくて、「生きている」という形が変化したもの(活用したのも)なのかもしれないなあ。「生きる」が動いているのかもしれないなあ。
「いる」が「ある」ではなく「生きている」「生きる」だと、動くものしか存在しないという私の世界に対する考え方と合致して、なんだかうれしい気持ちになる。「生きる」だと「入る」という動詞ともつながる。動いていることが「生きる」、その「動き」のひとつに「入る」という動詞もある。
タマシヒが生きて動いて、働きかけて、それで世界が違ってくる--そういうようなことを、この詩から言ってみたいなあ、とも思う。
谷川はそういうことを書いているわけではないのかもしれないが、私はそう読みたがっている。
いずれにしろ(?)、ことばが意味を誘い出す。とても「意味」の強い詩だと思う。
この詩で最初に驚くのは、しかしその「意味」ではない。すでに書いたことだが、詩を印刷している紙の向こう側に、何かが見える、といことである。ことばと写真(本)が表面と奥との感じをそのまま具体化している感じなのである。
で、ことばを印刷してある紙の向こう、ことばの向こうに見えるものが何かというと、ちょっと説明にむずかしい。そんなにくっきり見えるわけではないのだから。
それはページをめくって直に写真を見たときも同じである。いや、写真はきちんと写っているのだが、見なれないものなので、何かなあと一瞬考えてしまう。
水のようだな……。
水(泥水)がどこかから落ちている。それが崖の下で水たまりをつくっている。崖の下の方をたたきながら水はたまっているようで、水の落ちているところは波立って(泡立って?)いる。その波(泡)に太陽があたり、周辺が白く光っている。激しい泡の部分は太陽を半分吸収して、半分その光を弾いている。抽象画を見る感じがする。緑の草があり、黒い岩がある。
この奇妙な水の動きが「タマシヒ」? あるいは、その泥水の底にある透明な水? 濁った水というのは不純物を静めて上の方からだんだん透明になるのだが、もしかするとこの泥水の奥には全ての泥を受け入れる純粋で透明なほんものの水があるということ? 上からこぼれ落ちる泥水の音。その音の奥には音楽になるまえの純粋な音があるということ?
このあと、本の方は写真がつづいていく。交差点を走る車、ケースにはいったオレンジ(みかん?)、だれもいないテラスにテーブルと椅子、だれもいない真昼の道路を山羊のようなものが二匹走っている。その切り詰められた影。何を煮ているのか、鍋のなかの料理。夜の道路の車の光の流れ。
そういうものの「奥」にもタマシヒは「いる」のか。生きているのか。
「タマシヒ」というタイトルの詩は不思議な紙に印刷されている。すこし透けて見える。詩は左側のページに印刷されている。裏側には何も印刷されていない。その次のページが、なんとなく透けて見える。
で、その詩は、
タマシヒは怖くない
怖がる心より深いところに
タマシヒはいる
タマシヒは静かだ
はしゃぐ体より深いところに
タマシヒはいる
ヒトが目を通して
タマシヒで見つめると
色んなものが
ふだんとは違って見えてくる
ヒトが耳を通して
タマシヒで聞こうとすると
雑音の中から
澄んだ声が聞こえてくる
この詩も「タマシヒ」は「動かない」ものであるという印象につながる。「怖がる」というのはこころの動き。「はしゃぐ」というのは体の動き(こころの動きでもあるとおもうけれど)。けれど、タマシヒは「動かない」。そして、それは「こころ」よりも「体」よりも「深いところ」にいる。
その「深いところ」から目や耳を通して見たり聞いたりする、「ふだんと違って」見える。「ふだんと違って」聞こえる。たとえば「雑音の中から/澄んだ音」が。ふつうは、そういうものは聞こえない。
「タマシヒ」は自分が動かないだけではなく、ほかのものも「動かない」状態にするのかもしれない。このときの「動き」は「動揺」に近いかな? 動揺しているものを落ち着かせ、動揺をとめる。安定させる--それが「タマシヒ」。怖がったり、はしゃいだり、ざわめいたりという「動き」を静める。そうすると違ったものが見える、聞こえる。動き回る奥にある動かないものが見える、聞こえる。そういう状態に「世界」を変えるのが「タマシヒ」なのかもしれない。
そしてたぶん、その「動かないタマシヒ」「動かないもの/音」は、それぞれ「人間の肉体の奥」「世界の現象の奥」にあるという「意味」で統一される。「奥(深部)」という意味で統一される。
また、これは私の「誤読」の癖なのだが、
タマシヒはいる
を私は「タマシヒ」は「いる(存在する)」という「意味」ではなく、「タマシヒ(が)入る」と感じてしまう。タマシヒが何かの奥に入ってく。そして、その奥にある何かをつかみ取る。あるいは共鳴する。(「肉体の奥(深部)」「現実の奥(深部)」に「入る」という動詞を誘う。
「いる」という状態をあらわすことばよりも、「動詞(入る)」の方が、いろいろなものが違って見えてきたり、澄んだ音が聞こえてくるという動きにあうようにも感じる。
あるいは「いる」は「ある」ではなくて、「生きている」という形が変化したもの(活用したのも)なのかもしれないなあ。「生きる」が動いているのかもしれないなあ。
「いる」が「ある」ではなく「生きている」「生きる」だと、動くものしか存在しないという私の世界に対する考え方と合致して、なんだかうれしい気持ちになる。「生きる」だと「入る」という動詞ともつながる。動いていることが「生きる」、その「動き」のひとつに「入る」という動詞もある。
タマシヒが生きて動いて、働きかけて、それで世界が違ってくる--そういうようなことを、この詩から言ってみたいなあ、とも思う。
谷川はそういうことを書いているわけではないのかもしれないが、私はそう読みたがっている。
いずれにしろ(?)、ことばが意味を誘い出す。とても「意味」の強い詩だと思う。
この詩で最初に驚くのは、しかしその「意味」ではない。すでに書いたことだが、詩を印刷している紙の向こう側に、何かが見える、といことである。ことばと写真(本)が表面と奥との感じをそのまま具体化している感じなのである。
で、ことばを印刷してある紙の向こう、ことばの向こうに見えるものが何かというと、ちょっと説明にむずかしい。そんなにくっきり見えるわけではないのだから。
それはページをめくって直に写真を見たときも同じである。いや、写真はきちんと写っているのだが、見なれないものなので、何かなあと一瞬考えてしまう。
水のようだな……。
水(泥水)がどこかから落ちている。それが崖の下で水たまりをつくっている。崖の下の方をたたきながら水はたまっているようで、水の落ちているところは波立って(泡立って?)いる。その波(泡)に太陽があたり、周辺が白く光っている。激しい泡の部分は太陽を半分吸収して、半分その光を弾いている。抽象画を見る感じがする。緑の草があり、黒い岩がある。
この奇妙な水の動きが「タマシヒ」? あるいは、その泥水の底にある透明な水? 濁った水というのは不純物を静めて上の方からだんだん透明になるのだが、もしかするとこの泥水の奥には全ての泥を受け入れる純粋で透明なほんものの水があるということ? 上からこぼれ落ちる泥水の音。その音の奥には音楽になるまえの純粋な音があるということ?
このあと、本の方は写真がつづいていく。交差点を走る車、ケースにはいったオレンジ(みかん?)、だれもいないテラスにテーブルと椅子、だれもいない真昼の道路を山羊のようなものが二匹走っている。その切り詰められた影。何を煮ているのか、鍋のなかの料理。夜の道路の車の光の流れ。
そういうものの「奥」にもタマシヒは「いる」のか。生きているのか。
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