谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(7)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「おやすみ神たち」の裏側に透けて見えていた円と放射状のものは観覧車だった。皇帝ダリアの花びらのような尖端に観覧車の箱がついている。次のページには紙の皿(プラスチックの皿?)にのった花びら。さらに汚れた窓から見える風景、葉っぱに止まっている蝶(名前は知らない)、猫の肉球、母親に抱かれた不機嫌そうな赤ん坊とつづき、そのあと「空白」をはさんで「絶坊と希坊」。
これは「絶望」と「希望」を人格化(?)して描いた詩?
これを読みながら、私は、この夏に池井昌樹、秋亜綺羅と現代詩手帖で鼎談したときのことを思い出した。谷川俊太郎の『こころ』のなかにある「悲しみについて」。その三連目に「悲しげに犬が遠吠えをするとき/犬は決して悲しんでいない」という行があり、池井昌樹はこの「犬は詩のことだ」と言った。さらに朔太郎の「月に吠える」まで出してきた。秋亜綺羅も「そう思う」と言ったので、私は、思わず「ほんとうにそう思った?」と秋亜綺羅に問い返したりもした。
私は、どうもそういう「読み方」ができない。
詩に書かれていることは、「現実」ではなく、ほんとうは何か別のこと、という「読み方」がどうも苦手である。「絶坊」「希坊」は人間のことではなく「絶望/希望」という精神を象徴的(比喩的?)に書いている。そこに書かれている「表面的」なことばをそのままつかまえるのではなく、ことばの奥に動いている「精神」をつかみとり、明らかにする--というのが批評なのかもしれないけれど。批評とは、一般的にそこに書かれていることばから、まだことばになっていない「意味」を引き出すもの、鋭い分析で作者の思想(意味)を引き出すのが優れた批評であると言われているように思うのだが……。
しかし、私は、そんなふうに読みたくない。「意味」を読み取りたくない。そこに書いてあるのは「意味」ではなく、「ほんとう」だと思いたい。
「絶坊と希坊」に戻って言えば、そこには二人の子どもが書かれている。それは「絶望」や「希望」と似ているかもしれないけれど、そういう抽象的なもの、精神的なもの、感情的なもの、「意味」ではなく、ただの子ども。そう読みたい。子どもが、わかっているか、わからないのか、好き勝手なことを言っている。きっと「聞きかじった」ことばを真似して、こんなことも言えるんだぞ、と自慢している。互いに、自分の言っていることを心底信じているわけではない。反発しながら、それでも「ふたご」なので、いっしょにいてしまう。「ふたご」なので、違ったことをしていても、その「違い」がどこかでいっしょになっている。その、どこかでいっしょになる、一つになってしまう、ということが知らないことを言っているうちに知らず知らずにその「意味」を肉体で覚えることにつながる。「意味」が「肉体」のなかで生まれてくる感じ。
そういう「ふたご」のふたりが「見える」ところが、私は好きだ。「意味」なんかつけくわえず、ただ「ふたご」を見ている感じが好き。谷川が「犬」と書いたら「犬」が見える。「ふたご」と書けば「ふたご」が見える。その感じのままで、私はなんだかうれしくなる。
その「ふたご」に対して女王(母親)は「私は産んだ覚えはないよ/鰐の卵からでも孵ったんだろ」と突き放しているのもいいなあ。こういう乱暴なことはほんとうの母親でないと言えない。愛している実感の方が強いから、ことばでは適当な暴力もふるってしまう。大好きだからこそ「餓鬼ども」と呼んでも平気なのだ。
「意味」を超えて、感情が生きている。
「意味」を超えて、「生きている」という、その「生きる」が動いている。「いのち」が動いている。生きるよろこびがそこにある。「希望」とか「絶望」なんて「意味」はどうでもいい。「絶望」と「希望」の「関係」なんて、どうでもいい。「ふたご」が見える、その声が聞こえる、それを見ている母親が見える--三人がいっしょに生きているは、とてもうれしい。それだけだ。
最後に、唐突に「鰐」が出てくるのもいいなあ。このふたご、そして母親の女王は鰐のいる世界にいるんだ。狂暴な自然。その狂暴さと向き合う肉体。「絶坊」「希坊」の「坊」は、やんちゃな感じがする。それと鰐が似合っていると思う。「希望」「絶望」だったら、まったく違うものになる。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「おやすみ神たち」の裏側に透けて見えていた円と放射状のものは観覧車だった。皇帝ダリアの花びらのような尖端に観覧車の箱がついている。次のページには紙の皿(プラスチックの皿?)にのった花びら。さらに汚れた窓から見える風景、葉っぱに止まっている蝶(名前は知らない)、猫の肉球、母親に抱かれた不機嫌そうな赤ん坊とつづき、そのあと「空白」をはさんで「絶坊と希坊」。
これは「絶望」と「希望」を人格化(?)して描いた詩?
絶坊というこの青臭いやつも
嗄(しゃが)れた声で歌うのだ
仔犬に鼻先で馬鹿にされながら
俺だって死にたくないと歌うのだ
林の日だまりに居心地悪く座り込んで
希坊は絶坊の嘲笑に耐えながら
ひそかに思っている
僕と君とは一卵性のふたごなのに
老いた名無しの女王は仏頂面だ
立派な名前の餓鬼どもだが
私は産んだ覚えはないよ
鰐(わに)の卵からでも孵(かえ)ったんだろ
これを読みながら、私は、この夏に池井昌樹、秋亜綺羅と現代詩手帖で鼎談したときのことを思い出した。谷川俊太郎の『こころ』のなかにある「悲しみについて」。その三連目に「悲しげに犬が遠吠えをするとき/犬は決して悲しんでいない」という行があり、池井昌樹はこの「犬は詩のことだ」と言った。さらに朔太郎の「月に吠える」まで出してきた。秋亜綺羅も「そう思う」と言ったので、私は、思わず「ほんとうにそう思った?」と秋亜綺羅に問い返したりもした。
私は、どうもそういう「読み方」ができない。
詩に書かれていることは、「現実」ではなく、ほんとうは何か別のこと、という「読み方」がどうも苦手である。「絶坊」「希坊」は人間のことではなく「絶望/希望」という精神を象徴的(比喩的?)に書いている。そこに書かれている「表面的」なことばをそのままつかまえるのではなく、ことばの奥に動いている「精神」をつかみとり、明らかにする--というのが批評なのかもしれないけれど。批評とは、一般的にそこに書かれていることばから、まだことばになっていない「意味」を引き出すもの、鋭い分析で作者の思想(意味)を引き出すのが優れた批評であると言われているように思うのだが……。
しかし、私は、そんなふうに読みたくない。「意味」を読み取りたくない。そこに書いてあるのは「意味」ではなく、「ほんとう」だと思いたい。
「絶坊と希坊」に戻って言えば、そこには二人の子どもが書かれている。それは「絶望」や「希望」と似ているかもしれないけれど、そういう抽象的なもの、精神的なもの、感情的なもの、「意味」ではなく、ただの子ども。そう読みたい。子どもが、わかっているか、わからないのか、好き勝手なことを言っている。きっと「聞きかじった」ことばを真似して、こんなことも言えるんだぞ、と自慢している。互いに、自分の言っていることを心底信じているわけではない。反発しながら、それでも「ふたご」なので、いっしょにいてしまう。「ふたご」なので、違ったことをしていても、その「違い」がどこかでいっしょになっている。その、どこかでいっしょになる、一つになってしまう、ということが知らないことを言っているうちに知らず知らずにその「意味」を肉体で覚えることにつながる。「意味」が「肉体」のなかで生まれてくる感じ。
そういう「ふたご」のふたりが「見える」ところが、私は好きだ。「意味」なんかつけくわえず、ただ「ふたご」を見ている感じが好き。谷川が「犬」と書いたら「犬」が見える。「ふたご」と書けば「ふたご」が見える。その感じのままで、私はなんだかうれしくなる。
その「ふたご」に対して女王(母親)は「私は産んだ覚えはないよ/鰐の卵からでも孵ったんだろ」と突き放しているのもいいなあ。こういう乱暴なことはほんとうの母親でないと言えない。愛している実感の方が強いから、ことばでは適当な暴力もふるってしまう。大好きだからこそ「餓鬼ども」と呼んでも平気なのだ。
「意味」を超えて、感情が生きている。
「意味」を超えて、「生きている」という、その「生きる」が動いている。「いのち」が動いている。生きるよろこびがそこにある。「希望」とか「絶望」なんて「意味」はどうでもいい。「絶望」と「希望」の「関係」なんて、どうでもいい。「ふたご」が見える、その声が聞こえる、それを見ている母親が見える--三人がいっしょに生きているは、とてもうれしい。それだけだ。
最後に、唐突に「鰐」が出てくるのもいいなあ。このふたご、そして母親の女王は鰐のいる世界にいるんだ。狂暴な自然。その狂暴さと向き合う肉体。「絶坊」「希坊」の「坊」は、やんちゃな感じがする。それと鰐が似合っていると思う。「希望」「絶望」だったら、まったく違うものになる。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。