詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(7)

2014-11-14 10:27:49 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(7)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「おやすみ神たち」の裏側に透けて見えていた円と放射状のものは観覧車だった。皇帝ダリアの花びらのような尖端に観覧車の箱がついている。次のページには紙の皿(プラスチックの皿?)にのった花びら。さらに汚れた窓から見える風景、葉っぱに止まっている蝶(名前は知らない)、猫の肉球、母親に抱かれた不機嫌そうな赤ん坊とつづき、そのあと「空白」をはさんで「絶坊と希坊」。
 これは「絶望」と「希望」を人格化(?)して描いた詩?

絶坊というこの青臭いやつも
嗄(しゃが)れた声で歌うのだ
仔犬に鼻先で馬鹿にされながら
俺だって死にたくないと歌うのだ

林の日だまりに居心地悪く座り込んで
希坊は絶坊の嘲笑に耐えながら
ひそかに思っている
僕と君とは一卵性のふたごなのに

老いた名無しの女王は仏頂面だ
立派な名前の餓鬼どもだが
私は産んだ覚えはないよ
鰐(わに)の卵からでも孵(かえ)ったんだろ

 これを読みながら、私は、この夏に池井昌樹、秋亜綺羅と現代詩手帖で鼎談したときのことを思い出した。谷川俊太郎の『こころ』のなかにある「悲しみについて」。その三連目に「悲しげに犬が遠吠えをするとき/犬は決して悲しんでいない」という行があり、池井昌樹はこの「犬は詩のことだ」と言った。さらに朔太郎の「月に吠える」まで出してきた。秋亜綺羅も「そう思う」と言ったので、私は、思わず「ほんとうにそう思った?」と秋亜綺羅に問い返したりもした。
 私は、どうもそういう「読み方」ができない。
 詩に書かれていることは、「現実」ではなく、ほんとうは何か別のこと、という「読み方」がどうも苦手である。「絶坊」「希坊」は人間のことではなく「絶望/希望」という精神を象徴的(比喩的?)に書いている。そこに書かれている「表面的」なことばをそのままつかまえるのではなく、ことばの奥に動いている「精神」をつかみとり、明らかにする--というのが批評なのかもしれないけれど。批評とは、一般的にそこに書かれていることばから、まだことばになっていない「意味」を引き出すもの、鋭い分析で作者の思想(意味)を引き出すのが優れた批評であると言われているように思うのだが……。
 しかし、私は、そんなふうに読みたくない。「意味」を読み取りたくない。そこに書いてあるのは「意味」ではなく、「ほんとう」だと思いたい。
 「絶坊と希坊」に戻って言えば、そこには二人の子どもが書かれている。それは「絶望」や「希望」と似ているかもしれないけれど、そういう抽象的なもの、精神的なもの、感情的なもの、「意味」ではなく、ただの子ども。そう読みたい。子どもが、わかっているか、わからないのか、好き勝手なことを言っている。きっと「聞きかじった」ことばを真似して、こんなことも言えるんだぞ、と自慢している。互いに、自分の言っていることを心底信じているわけではない。反発しながら、それでも「ふたご」なので、いっしょにいてしまう。「ふたご」なので、違ったことをしていても、その「違い」がどこかでいっしょになっている。その、どこかでいっしょになる、一つになってしまう、ということが知らないことを言っているうちに知らず知らずにその「意味」を肉体で覚えることにつながる。「意味」が「肉体」のなかで生まれてくる感じ。
 そういう「ふたご」のふたりが「見える」ところが、私は好きだ。「意味」なんかつけくわえず、ただ「ふたご」を見ている感じが好き。谷川が「犬」と書いたら「犬」が見える。「ふたご」と書けば「ふたご」が見える。その感じのままで、私はなんだかうれしくなる。
 その「ふたご」に対して女王(母親)は「私は産んだ覚えはないよ/鰐の卵からでも孵ったんだろ」と突き放しているのもいいなあ。こういう乱暴なことはほんとうの母親でないと言えない。愛している実感の方が強いから、ことばでは適当な暴力もふるってしまう。大好きだからこそ「餓鬼ども」と呼んでも平気なのだ。
 「意味」を超えて、感情が生きている。
 「意味」を超えて、「生きている」という、その「生きる」が動いている。「いのち」が動いている。生きるよろこびがそこにある。「希望」とか「絶望」なんて「意味」はどうでもいい。「絶望」と「希望」の「関係」なんて、どうでもいい。「ふたご」が見える、その声が聞こえる、それを見ている母親が見える--三人がいっしょに生きているは、とてもうれしい。それだけだ。
 最後に、唐突に「鰐」が出てくるのもいいなあ。このふたご、そして母親の女王は鰐のいる世界にいるんだ。狂暴な自然。その狂暴さと向き合う肉体。「絶坊」「希坊」の「坊」は、やんちゃな感じがする。それと鰐が似合っていると思う。「希望」「絶望」だったら、まったく違うものになる。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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フェリックス・ハーングレン監督「100 歳の華麗なる冒険」(★★★)

2014-11-14 10:25:19 | 映画
監督 フェリックス・ハーングレン ロバート・グスタフソン、イバル・ビクランデル、ダビド・ビバーグ

 スウェーデン版「フォレスト・ガンプ」と書いてしまうと、もうそれでおしまいのような気がするが。
 ミソは主人公が波瀾万丈の人生を生きるというよりも、 100歳になって、こんな気ままな生き方ができるのは波瀾万丈の人生を生きてきたから、波瀾万丈のなかで何が起きても生きて行けるという「実感」をつかみ取ったから、ということかな。
 いろいろおかしいシーンがあるのだが、私が最初に大笑いしたのは主人公がバスの切符を買うシーン。北欧だからシニア割引がある。(けっこうルーズで、私はノルウェー・ベルゲンのケーブルカーに乗ったとき65歳と言ったら半額で乗れた。)で、係員が「65歳以上?」と聞くのだ。 100歳なのだから、どう見たって65歳以上。もちろん答えをきかずに、「そうだよね」というようなことを自問自答して切符を売る。
 私は自分の経験もあって、大声を出して笑ったのだが、まわりが誰一人笑わない。
 あ、こうなると映画がおもしろくなくなる。かつて大阪のロフトで「フランキー・フランク」を見たとき、私が笑うたびに間を置いてふたつ席を離れたおじさんが笑う。ほかは誰も笑わない。私が笑う、おじさんが笑う。掛け合い漫才のように、少しずれて。私とおじさんの間の女性は映画を見るというよりもひっきりなしにノートに何ごとかを書いている。うーん、だんだん笑いにくくなる。大阪人って、変。
 同じように福岡の人も変かも。
 コメディーなのに12歳未満は見られない制限つきの映画。笑いには皮肉(人間批評)がいっぱいだし、映像もかなりえげつない(ただし血は思いの外飛び散らない)。こういう映画って、声を出して笑わないと、体の中に変なものが溜まってしまう。
 私は最初の私の笑い声があまりにも響いたので(ほかに誰も笑わなかったからね)、あとは抑え気味に笑うようにしたのだが。
 次に笑いをこらえることができなかったのが、やっぱりバスの切符売り場の男が出てくるシーン。男はお爺さんを見張っていなかった(?)という理由で、お爺さんに大金が入った鞄をあずけた若者に暴行される。それで警察に被害届を出しにゆく。そのときの「供述」がまだるっこしい。それで、ついてきた妻がかわりに話のポイントを整理して警官に言う。この間合いが、あ、夫婦だねえ、こういう夫婦いるねえ……と笑わせる。
  100歳の主人公と、たまたま出会った老人が、鞄を追いかけてきた若者を冷凍死させてしまったあとのエピソードもおかしい。死体を捨てにいく途中、サッカーを教えている男(高齢者)に目撃される。その目撃したことを警官に聞かれ、説明するとき、「いっしょにいた若者はあいさつもしない」と苦言をつけくわえる。死んでいるからあいさつなんかできないのだけれど、そうか、老人は若者があいさつをしないことに不満を持っているのか、ということがわかる。そこに若者に対する批判もあれば、老人の人生観へのめくばりもある。
 どのシーンも、こういう感じ。
 いかげんな感じのストーリーなのだけれど(映画だからいいかげんでいいのだけれど)、その細部がいいかげんではない。きちんと人間を見ている。瞬間瞬間にあらわれる、そこに生きている人間の「本質」のようなものがちらりちらりとのぞく。そのちらりちらりがいい。
 波瀾万丈なのだけれど、そこに「こういう人いるなあ」と感じさせるものがある。こんなことでよく生きてこれたなあ。こんな感じだから生きて行けるんだろうなあ、とも言える。で、見終わったあと、こんな感じで生きていきたいなあ、と思う。人間なんて、いずれは死ぬのだから、好き勝手をした方が勝ちなのだ。
 あ、もっと大声で笑いつづければよかった。そうしたらもっと楽しくなれた。もっと笑えば、誰かがつられて笑い出したかも。観客が笑ったからといって映画そのものが変わるわけではないが、いっしょに笑うとみんなで見ている、これが映画だって気持ちになれるからね。
                       (2014年11月12日、KBCシネマ1)




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窓から逃げた100歳老人
クリエーター情報なし
西村書店
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映画館のロビーでチラシを見ていると

2014-11-14 00:06:53 | 
映画館のロビーでチラシを見ていると

映画館のロビーでチラシを見ていると、そのひとは近づいてきて、
「新しいチラシを見るとたちまち
これから見る映画よりもチラシの映画を先に見たくなる」
とはしゃいだ声で私に言うのである。

このことを詩に書くには四行目を別なことばにしないといけないのだが、
「どうして先に見ることができないんだろう、
時間は、未来だけどうして律儀にしかやってこれないのだろう」
私はそのひとに答えてしまって、答えながら
自分の声がそのひとを無視しているような響きに悲しくなった。
過去は、そのひとと最初にあった書店も、
そのひとと別れることにした公園も順序を入れ換えながら何度もやって来るのに。





*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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