北川透『現代詩論集成1』(13)(思潮社、2014年09月05日発行)
Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
十二 放棄の構造 鮎川信夫覚書
北川は鮎川の詩がリアリティを失わないのは、鮎川の詩が「独特の放棄の構造」を持っているからだと言う。これを補足して、
と書き、さらに、
と説明しなおしている。
このとき「放棄」と「自己放棄」という二種類のことばがつかわれている。これが、私にはよくわからない。
この「放棄(自己放棄)」を北川が分類している「三つのモティーフ」と関係づけるとさらにややこしい。北川はその三つを、以下のように分類する。
(一)文明批評と戦争体験を踏まえたもの
(二)私性の闇
(三)老年の心境
(一)は、個人的体験を超えた体験と言えるかもしれないので「自己」中心的なことばではないかもしれない。しかし、どんな体験であっても「自己」の体験である。戦友をなくしたという体験を踏まえて鮎川はことばを動かしているように思える。そこから「自己」を抜き取ってしまうのは、あまりにも乱暴な気がする。(二)は「私」性というくらいだから「自己」が不可欠である。(三)も鮎川の心境だから「自己」が必然的に含まれる。私には、どうにもよくわからない。
で、最初に引用した文章から推測で書くのだが、北川がここで問題にしている「放棄(自己放棄)」というのは、「表現」に限定されることがら、「修辞」の問題なのではないのか。鮎川は、日本人が知らず知らずに指向してしまう「無」への共感、日本の伝統的な美意識、自然への共感、生活の実感にたよらない表現をめざすということに限定されているのではないのか。「無意識の自己放棄(無意識的自己の放棄)」と、そこに「無意識」を補って読む必要があるのかもしれない。
そうだとすると「修辞」は「無意識の修辞」、無意識のことばの運動ということになると思うが……。
「死について」という作品に言及した文章。
そうすると「修辞」というのは、単なる表現上の問題ではなく、「修辞」こそが「意識(思想)」ということになる。
そうであるなら、これまで北川が書いてきた「理念」というのは、どうなるのだろうか。「理念」は「意識的修辞」と同じにならないか。「意識的修辞」に「理念」がやどることにならないか。
鮎川は、それまでの日本の詩が無意識に採用してきた「無」「日本的美意識」「自然感覚」と連動している「無意識的修辞」を拒絶し、違う方法で「意識的に修辞」する。その「修辞における意識」の確立を目指しているということにならないか。
--これでは、私の「感覚の意見」を書いているだけであって、北川の論に対する感想にならないかもしれない。
私の個人的な体験を書けば、「荒地」は、かっこいい「修辞」のかたまりであった。わたしにとっては詩はもともと「修辞」の形であった。そこに表現されている「理念」に共感しているのではなく、かっこいい「修辞」にひかれて読んでいるだけであった。あ、これを真似してみたい。そして、実際に何度も「コピー」というか「盗作」をしながら、「意味」を考えるのではなく「修辞」の方法を手に入れようとした。
私が「剽窃」しつづけた修辞の中にある意識が重要であり、それが「荒地」を特徴づけていると北側は言いたいのだろうか。
詩にとって「理念」とは何なのだろう。「修辞」とは何だろう
Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
十二 放棄の構造 鮎川信夫覚書
北川は鮎川の詩がリアリティを失わないのは、鮎川の詩が「独特の放棄の構造」を持っているからだと言う。これを補足して、
彼の放棄は東洋的な無への方向をもたない。日本的な美意識に癒着しない。自然回帰の気配を見せない。生活的な実感主義や心情告白に行かない。 ( 261ページ)
と書き、さらに、
「詩法」に《生活とか歌にちぢこまってしまわぬ/純粋で新鮮な嘘となれ》という詩句があるが、彼の自己放棄は、この《純粋で新鮮な嘘》に対する感性を、決して崩そうとしないのである。むろん、放棄とはそれでたい後退的な心性だが、鮎川の場合、それが同時に世界に対する悪意であり、拒否であり、そして自由でもあるような場所に成立するのは、自己放棄が自己救済でもある回路を断ち切っているからであろう。 ( 261ページ)
と説明しなおしている。
このとき「放棄」と「自己放棄」という二種類のことばがつかわれている。これが、私にはよくわからない。
この「放棄(自己放棄)」を北川が分類している「三つのモティーフ」と関係づけるとさらにややこしい。北川はその三つを、以下のように分類する。
(一)文明批評と戦争体験を踏まえたもの
(二)私性の闇
(三)老年の心境
(一)は、個人的体験を超えた体験と言えるかもしれないので「自己」中心的なことばではないかもしれない。しかし、どんな体験であっても「自己」の体験である。戦友をなくしたという体験を踏まえて鮎川はことばを動かしているように思える。そこから「自己」を抜き取ってしまうのは、あまりにも乱暴な気がする。(二)は「私」性というくらいだから「自己」が不可欠である。(三)も鮎川の心境だから「自己」が必然的に含まれる。私には、どうにもよくわからない。
で、最初に引用した文章から推測で書くのだが、北川がここで問題にしている「放棄(自己放棄)」というのは、「表現」に限定されることがら、「修辞」の問題なのではないのか。鮎川は、日本人が知らず知らずに指向してしまう「無」への共感、日本の伝統的な美意識、自然への共感、生活の実感にたよらない表現をめざすということに限定されているのではないのか。「無意識の自己放棄(無意識的自己の放棄)」と、そこに「無意識」を補って読む必要があるのかもしれない。
そうだとすると「修辞」は「無意識の修辞」、無意識のことばの運動ということになると思うが……。
「死について」という作品に言及した文章。
この自己批評的な軽みこそは、わたしが先に消去法で述べた東洋やら日本やら、自然やら生活やらに固執することから、みずからを解放しているにちがいない。それがこの詩人の成熟した近代意識というものであろう。 ( 269ページ)
そうすると「修辞」というのは、単なる表現上の問題ではなく、「修辞」こそが「意識(思想)」ということになる。
そうであるなら、これまで北川が書いてきた「理念」というのは、どうなるのだろうか。「理念」は「意識的修辞」と同じにならないか。「意識的修辞」に「理念」がやどることにならないか。
鮎川は、それまでの日本の詩が無意識に採用してきた「無」「日本的美意識」「自然感覚」と連動している「無意識的修辞」を拒絶し、違う方法で「意識的に修辞」する。その「修辞における意識」の確立を目指しているということにならないか。
--これでは、私の「感覚の意見」を書いているだけであって、北川の論に対する感想にならないかもしれない。
私の個人的な体験を書けば、「荒地」は、かっこいい「修辞」のかたまりであった。わたしにとっては詩はもともと「修辞」の形であった。そこに表現されている「理念」に共感しているのではなく、かっこいい「修辞」にひかれて読んでいるだけであった。あ、これを真似してみたい。そして、実際に何度も「コピー」というか「盗作」をしながら、「意味」を考えるのではなく「修辞」の方法を手に入れようとした。
私が「剽窃」しつづけた修辞の中にある意識が重要であり、それが「荒地」を特徴づけていると北側は言いたいのだろうか。
詩にとって「理念」とは何なのだろう。「修辞」とは何だろう
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