詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(13)

2014-11-13 12:26:02 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(13)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 十二 放棄の構造 鮎川信夫覚書

 北川は鮎川の詩がリアリティを失わないのは、鮎川の詩が「独特の放棄の構造」を持っているからだと言う。これを補足して、

彼の放棄は東洋的な無への方向をもたない。日本的な美意識に癒着しない。自然回帰の気配を見せない。生活的な実感主義や心情告白に行かない。      ( 261ページ)

 と書き、さらに、

「詩法」に《生活とか歌にちぢこまってしまわぬ/純粋で新鮮な嘘となれ》という詩句があるが、彼の自己放棄は、この《純粋で新鮮な嘘》に対する感性を、決して崩そうとしないのである。むろん、放棄とはそれでたい後退的な心性だが、鮎川の場合、それが同時に世界に対する悪意であり、拒否であり、そして自由でもあるような場所に成立するのは、自己放棄が自己救済でもある回路を断ち切っているからであろう。  ( 261ページ)

 と説明しなおしている。
 このとき「放棄」と「自己放棄」という二種類のことばがつかわれている。これが、私にはよくわからない。
 この「放棄(自己放棄)」を北川が分類している「三つのモティーフ」と関係づけるとさらにややこしい。北川はその三つを、以下のように分類する。
(一)文明批評と戦争体験を踏まえたもの
(二)私性の闇
(三)老年の心境
 (一)は、個人的体験を超えた体験と言えるかもしれないので「自己」中心的なことばではないかもしれない。しかし、どんな体験であっても「自己」の体験である。戦友をなくしたという体験を踏まえて鮎川はことばを動かしているように思える。そこから「自己」を抜き取ってしまうのは、あまりにも乱暴な気がする。(二)は「私」性というくらいだから「自己」が不可欠である。(三)も鮎川の心境だから「自己」が必然的に含まれる。私には、どうにもよくわからない。
 で、最初に引用した文章から推測で書くのだが、北川がここで問題にしている「放棄(自己放棄)」というのは、「表現」に限定されることがら、「修辞」の問題なのではないのか。鮎川は、日本人が知らず知らずに指向してしまう「無」への共感、日本の伝統的な美意識、自然への共感、生活の実感にたよらない表現をめざすということに限定されているのではないのか。「無意識の自己放棄(無意識的自己の放棄)」と、そこに「無意識」を補って読む必要があるのかもしれない。
 そうだとすると「修辞」は「無意識の修辞」、無意識のことばの運動ということになると思うが……。
 「死について」という作品に言及した文章。

この自己批評的な軽みこそは、わたしが先に消去法で述べた東洋やら日本やら、自然やら生活やらに固執することから、みずからを解放しているにちがいない。それがこの詩人の成熟した近代意識というものであろう。              ( 269ページ)

 そうすると「修辞」というのは、単なる表現上の問題ではなく、「修辞」こそが「意識(思想)」ということになる。
 そうであるなら、これまで北川が書いてきた「理念」というのは、どうなるのだろうか。「理念」は「意識的修辞」と同じにならないか。「意識的修辞」に「理念」がやどることにならないか。
 鮎川は、それまでの日本の詩が無意識に採用してきた「無」「日本的美意識」「自然感覚」と連動している「無意識的修辞」を拒絶し、違う方法で「意識的に修辞」する。その「修辞における意識」の確立を目指しているということにならないか。

 --これでは、私の「感覚の意見」を書いているだけであって、北川の論に対する感想にならないかもしれない。
 私の個人的な体験を書けば、「荒地」は、かっこいい「修辞」のかたまりであった。わたしにとっては詩はもともと「修辞」の形であった。そこに表現されている「理念」に共感しているのではなく、かっこいい「修辞」にひかれて読んでいるだけであった。あ、これを真似してみたい。そして、実際に何度も「コピー」というか「盗作」をしながら、「意味」を考えるのではなく「修辞」の方法を手に入れようとした。
 私が「剽窃」しつづけた修辞の中にある意識が重要であり、それが「荒地」を特徴づけていると北側は言いたいのだろうか。

 詩にとって「理念」とは何なのだろう。「修辞」とは何だろう


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(6)

2014-11-13 09:59:33 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(6)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「おやすみ神たち」も裏側が透けて見える紙に印刷されている。「今朝」と同じように「ざらざら」の面にことばが印刷されている。詩の裏側は写真で、その写真がかなりくっきり見える。
 詩は見開きの長い作品。その右側のページには、「今朝」を読んだときに透けて見えた滝を裏側からもう一度透かしてみる感じで見える。滝のある世界の裏側、あるいは奥から滝を見ている感じ。空を飛んでいる鳥の写真を見たあとの、裏側から真っ青な「空」そのものを見た感じと共通するといえばいいのか。空(鳥)の写真の場合、そこには青しかなかったが、今度はことばが書かれている。世界の内側で、ことばが動いている。そして、その動きは「今朝」の側からは見えない。「今朝」から見える世界(現象)の裏側(深奥)からだけ見える。しかも、それは「ことば」として見える……。
 詩の半分(後半)の裏側には何やら幾何学模様。円と放射線が組み合わさった抽象的な図柄が透けて見える。滝の裏側に入って見つめなおした世界を抽象化して図形にすると、世界はそういう見取り図になる? そういうことを考えてみたい衝動にかられる。
 ことばを読みながら、そのことばが何か違ったものになりたがっているのが、ことばの裏の写真(それは現実の裏側?の写真、撮った写真ではなく、撮ることで必然的に抱え込んだ裏側なんだけれど……)から見えるような気がする。裏側から見てしまった(?)わたしが、かってにことばの欲望を感じているだけなのかもしれない。私の欲望をことばの欲望と言いかえているだけなのかもしれない。
 --こういうこと(いま書いたこと)は、妄想の類の、想像力の暴走に過ぎないのだけれど、本を読むというのは、そういう暴走を抱えながら、そこにとどまり、書かれたことばと向き合うことなんだろうなあ。自分の中に生まれてくる暴走を、そこに書かれていることばで整理するということもしれないなあ。
 あ、何を書いているか、わからなくなりそう。

 印刷の「見かけ」ではなく、谷川のことばを読んでみる。

神はどこにでもいるが
葉っぱや空や土塊(つちくれ)や赤んぼにひそんでいるから
私はわざと名前を呼んでやらない
名づけると神も人間そっくりになって
すぐ互いに争いを始めるから

 これは何かなあ。どの行にも、知らないことばはない。けれど、わかったようでわからない。「名づけると神も人間そっくりになって/すぐ互いに争いを始める」というのは、そのわかったようでわからないことのチャンピオンのようなものだ。人間はたしかにひっきりなしに争い(喧嘩/自己主張)をするからなあ。でも、それと「神」との関係は?
 うーん。
 次の連で、谷川は一連目を言いかえている。(と、思う)

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家
人々の自分勝手な祈りの喧騒をよそに
名無しの神たちはまどろんでいる
彼ないし彼女らの創造すべきものはもう何も無い
人間が後から後からあれこれ製造し続けるから

 一連目を言いかえているというより、「人間と神との関係」を別の角度からとらえなおしているといった方がいいのかもしれない。人間が、ことばにしろ、なんにしろ、あまりにも何かをつくりすぎる。(こうやって、私も、ことばを書きつづけているが。)でも、神はそのつくったもののなかにはいない。神がつくったのではないのだから。いるとしたら「コトバとコトバの隙間」、あるいは「創造物と創造物の隙間」にいて、それらをそっとつなぎあわせているのかもしれない。つなぎあわせということで、「コトバ」や「創造物」を支えているのかもしれない。--と谷川は書いているわけではないが、私は勝手に考えた。
 でも、それは神がしたいことなのかな? 神がしなければならないことと感じてやっているだけのことなのかな? しなければならない、そうやって人間を支えなければならないと神は責任感を感じているのだろうか。そういう生き方が神の「必然」なのだろうか。私のことばはどんどん暴走してしまうなあ。「論理」にならない。

おやすみ神たち
貴方がたったの一人でも八百万(やおろず)でも
はるか昔のビッグバンでお役御免だったのだ
後は自然が引き受けてそのまた後を任されて
人間は貴方の猿真似をしようとしたが

いつまでも世界をいじくり回しても
なぞなぞの答えが見つかる訳もなく
創ったつもりで壊してばかり
空間はどこまでも限りなく
時間はスタートもゴールも永遠のかなた--

私は神たちに子守唄でも歌ってやろう

 神たちに呼びかけながら、人間の行為を反省している。
 「意味」が非常に強い。言いかえると、谷川が言いたいと思っていることが、ここには非常にたくさんつまっている。どの詩も同じようなことを言っているのかもしれないが「非常にたくさん」という印象がする。それは、この詩が「論理的」だからである。「論理」を感じさせるからである。二連目の「彼ないし彼女ら」という言い回しが象徴的である。「神」が「彼」であるか「彼女」であるか、単数であるか複数であるかは、どうでもいいことである。だから三連目でも「たったの一人でも八百万でも」と言いなおされているのだが、こういう「言い直し」は批判への自己防禦のようなものである。神には「彼」だけではなく「女神」もいるというようなことを誰かが言い出すと、それに対してもう一度答えなければならない。そういう「めんどう」をあらかじめ「彼ないし彼女ら」ということばで封じておく。それは「論理」ではなく「論法のひとつ」という見方もあるかもしれないが、文体のなかに「論法」(他人の批判を想定し、準備をする)があるということが「論理」を優先しているという証拠である。誤解されてもかまわない。ほうりだしてしまえ、というのが詩であるとすれば、ここに書かれているのは「論理」である。正確にことばをたどり、「意味」をつかみ取ることを求める文体である。「論理」をたどりやすくするためにことば飛躍を抑える、そしてことばとことばの「隙間」をさらにことばで埋めていっているというような感じが「長い」という印象を与えるのだと思う。
 で、この本でおもしろいなあ、と思うのは……。
 そんなふうに谷川が一生懸命「論理」を動かして、自分の言いたいことを書いているのに、その詩の印刷の仕方が、これまで読んできた詩のなかでいちばん読みにくいということである。論理をたどろうとする意識を印刷が邪魔する。白い紙に黒いインクでくっきりと印刷するのではなく、写真を印刷した紙の裏側に印刷している。しかも、その紙を通して写真の「裏側」が見える。真白な紙、裏の透けない紙に印刷された文字を読むようには読めない。
 ことばと写真を向き合わせるというのなら、もっとほかの方法があるはずである。わざわざ、裏側が透けて見える紙に印刷する必要はない。
 でも、これは「わざと」しているのだと思う。
 わざと「読みにくく」している。読みにくいと、どうしても立ち止まる。読者を立ち止まらせようとしている。立ち止まって何をするか、何を考えるか--それは、別問題。そんなことまでは谷川も写真を撮った川島も、本をつくったデザイナーも「強制」はしない。ただ、ちょっと読むスピード、感じるスピード、それから何かを思うスピードにブレーキをかけたがっているように感じる。
 谷川自身もそう思っているかもしれない。
 ストレートに論理(意味)を追わずに、立ち止まって、脱線して、よそ見して、と歳目かけているように感じる。--だから、私は脱線したと書くと、「誤読」の「自己弁護」になるのだが。

 それはそれとして。
 私は、こういう長い詩(論理的に「意味」を語る詩)よりも、ことばをぱっぱっとまきちらした感じの「隙間」の多い詩の方が好きなので、
 そうか、この詩が詩集のタイトルになっているのか、これがいちばん谷川の言いたいことだったのかなあ、これが谷川のこの詩集のなかではいちばん好きな詩なのかなあ、ほんとうかなあ、とちょっと考えた。
 そして、唐突に、また別なことを思った。
 谷川はこの本のなかでは繰り返し「タマシヒ」のことを書いている。繰り返すことで、何かが「生み出されている」。いや、何かが「生まれている」。谷川が詩を作っているのではなく、どこかで、詩の方が「生まれてきている」と言えばいいのだろうか。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し、書く。そうすると、「同じ」であるはずのものが、少しずつ違った形で、ことば自身の力で「生まれてくる」という感じ。ひとつの詩では書き切れなかったものが、「生まれたがっている」。そして、「生まれてくる」。
 そんなふうにして動いていくことばがある、と思う。

おやすみ神たち
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ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
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水の上を雲が

2014-11-13 00:31:10 | 
水の上を雲が

水の上を雲が過ぎ去っていくのを見ていると、
ケヤキ通りで見かけた人のことを思い出した。

その人は物思いに沈んでいて私に気がつかなかった。
一度は近づき、それから離れてしまった人。

つづきを読もうとして間違った本を開いてしまって、
傍線を引いたことばに出会ったみたい。

幻の波。幻の風。
水の上には雲が去った後の十一月の空の青。






*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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