詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リチャード・リンクレイター監督「6才のボクが、大人になるまで。」(★★★★)

2014-11-26 21:57:09 | 映画
監督 リチャード・リンクレイター 出演 エラー・コルトレーン、ローレライ・リンクレイター、パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク

 家族の12年間を12年間かけて撮影している。脚本は、たぶん主人公の少年の変化にあわせて、その時その時でつくりあげていったのだろう。とても自然で、その自然であることに、この映画の力を感じた。ストーリーをつくらない。ただ、時間を描く。それも時間の経過とともに何かが変わる--その変わり方に焦点をあてるのではなく、そこに時間がある。日常がある、ということだけに焦点をあてている。
 だから見終わったとき、時間が、とてもあいまいになる。6歳のときに何があって、7歳のときに何があって……という「時系列」があいまいになる。母親が再婚して、離婚して、再婚してという「順序」は動かせないのだけれど、最初の再婚と次の再婚のあいだに「何年」があったのか、わからない。「いま」からふりかえると、それは同じように思い出される。--これは、現実に私たちが体験する「時間感覚」そのものである。10年前に体験したこともきのう体験したことも、それを思い出すとき、そこには「10年前」とか「きのう」という区別はない。時間の「隔たり」の差を無視して、となりあった形で思い出される。となりあったというよりも、同じ「時」のなかで思い出されると言った方がいい。「10年前」も「きのう」も「いま」という「一瞬」として思い出す。
 それを象徴的に表現しているのが、主人公が大学へ入るために家を出るとき母親の態度。母は再婚を繰り返しているが、気分は「シングルマザー」だ。ひとりで懸命に子どもを育ててきた。そして子どもが自分のもとから離れていくとき、その長い長い苦労が「一瞬」に凝縮してしまって、どうしていいかわからなくなる。あらゆる「体験」は「いま」のなかにある。12年という「時」が「いま」という一瞬になって噴出してきて、母親を揺さぶる。その動揺、その混乱にはこころを揺さぶられる。
 また最後の少年(青年?)が山頂で恋人に「なる」一瞬もおもしろい。二人は心情を具体的に語るわけではない。「好き」とか「愛している」とは言わない。何気ない会話のなかで、二人は二人の「過去(体験)」をなんとなく感じあう。母親が12年間を「一瞬」のうちに思い出し、混乱し、寂しさを感じたのに対し、二人は二人の「過去のすべての時間」が、「いま」という「時」のなかにゆっくりと滲み出てきているのを感じる。その「時」にゆっくりとなじみ、それを互いに受け入れ、気持ちが安らぐ。
 どんなに長い時間も、「いま」という一瞬のなかにあらわれる。どんな「過去」も「いま」なのだ。--そういう「哲学(時間論)」に迫る映画である。
 一回見た限りでは、どうしてもラストシーン(あるいはラストシーン近くの感動的なシーン)が「いま」になるから、それが印象を支配してしまうが、思い返すと、どの「いま」の映像も「過去」結びつきながら「いま」として、「そのとき」に動いていた。たとえば、母の二度目の再婚のあいての男が主人公に対して帰宅時間が遅いと怒る。ここはおれの家だ、おれのルールに従え、という感じ。その「おれがルール」という言い方は、その前の母の連れ合い、アルコール依存症の大学教授の男と同じである。その結果(か、どうかは明確には描かれていないが)、同じ「離婚」という結果(時間)へとつながっていく。「いま」のなかには、「過去」がしっかりとからみついている。「いま」は「過去」を含めて「いま」なのである。
 こういう「時間論」を描いた映画のなかで、イーサン・ホークのキャラクターの変化はとても興味深い。だらしなく、無責任だった父親が、だんだん落ち着いてくる。無邪気な「こども青年」から「父親」に着実に変化していく。映画はイーサン・ホークに焦点をあてて進むわけではないので、彼の「いま」にどんな「過去」が噴出しているのかわかりにくいが、同じことが起きているのだということは感じられる。こどもの成長(6歳の少年とその姉の成長)にあわせて、彼自身が「おとな」になっているのである。
 象徴的なのが、娘と恋人の話をするシーン(ファミリーレストラン?)。イーサン・ホークはボーイフレンドとセックスをしてもいいがコンドームをつかえ(避妊しろ)と注意する。こういうことは父親が娘にいうようなことではないだろうけれど、(たぶん娘に対しては同性の母親が注意することなのだと思うけれど)、イーサン・ホークはそれを語らずにはいられない。イーサン・ホークの「過去」が、そのとき噴出しているのである。イーサン・ホークとパトリシア・アークエットは避妊に考えが及ばなかった。その結果、姉と主人公の少年が生まれた。それはそれで「悪い」ことではないのだが、そのことがイーサン・ホークとパトリシア・アークエットをつまずかせた。そう語りながら、イーサン・ホークは少し「成長」する。
 この変化を具体化するイーサン・ホークの演技はすばらしい。母親の、ラストの悲しみの演技が「一瞬」を強調することで胸に迫ってくるのと対照的に、イーサン・ホークは長い時間のなかで「過去」を少しずつ思い出しながら成長していく。この映画の隠し味になっている。
                     (2014年11月26日、ソラリアシネマ9)



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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(19)

2014-11-26 10:52:59 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(19)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「仮に」は「露骨」な詩である。「露骨」と書いてしまうのは、そこに動いている「論理」が強すぎるからである。論だだけが動いているようにも見える。意味をつくり、意味で読者を感動させようとしているようにも見える。「意味」が「露骨」なのかもしれないなあ。

私は知っている
タマシヒを語る資格はないということを
そんなもの誰にもないということを

でも騙(かた)らずにはいられない
名辞(めいじ)以前を統(す)べる見えない力が
自分を生かしていると信じるから

仮にそれをタマシヒと呼んで
私は自分を解き放とうとしている
金銭がもたらす現世の諸々から

 「タマシヒ」の存在は信じないが、ものの名前以前(名づけること/分節以前)の世界を統一する力があって、その力が自分を生かしている。その力は「名辞以前のもの」なので「名前」はない。仮に谷川は「タマシヒ」と呼ぶ。それが谷川を「現世」から解き放つ。
 そういうことが書かれているのだが。
 私は、その「意味」を少しひねくれた角度から見てゆきたい。
 この「論理」のなかで私がおもしろいと感じるのは、「騙る」ということば。
 「かたる」は「語る」であり、「騙る」でもある。「語る」と書いたとき、そこにはほんとうも嘘もある。「騙る」は嘘しかない。「騙る」は「だます」でもある。「だます」は「騙す」と書く。
 でも、だれを。
 「他人」を「騙す」と同時に「自分」を「騙す」。タマシイはない、と「私(谷川と仮に仮定しておく)」は知っている。だからその知っている「私」をまず「騙す」。タマシヒはあると、言い聞かせる。それから「理由」を探す。タマシヒがあるという根拠を探す。
 しかし、ないものは探したって、ない。だから、違うことをする。「論理」でつくりだしてしまう。「ない」のだから、「ある」にするにはつくりだすしかない。その「ある」を生み出すのが「論理」である。ほんとうは、そのとき何かをつくりだされたのではなく、何かをことばのなかにつくりあげたようにみせかける「論理」があるだけなのだが……。
 谷川はこの「論理」なのかで、ふたつの「虚(存在しないもの)」を衝突させている。ひとつは「名辞以前」。「名前」とは「未分節」の世界(混沌)から「もの」を「分節」したもの。名前がなければ、そこには分節はない。「未分節」。この「未分節」は、「ある」とはいわずに「ない」として処理するのが論理の経済学である。
 もう一つの「ない(虚)」は「見ない力」。見えないのだから「ない」。「ない」と意味を「分節」してしまうとなにかがあるように見えるが、そこには「論理」があるだけで、何も「ない」。
 しかし、ことばは不思議なもので、そこに「ない」ものを「ない」ということばをつかって「思考」のなかに存在させてしまうこともできる。「思考」は「論理」になって共有され「ある」が確固としたものになる。
 「ない」が「ある」。「ない」を定着させる「論理がある」。
 そして、この「虚」と「虚」の衝突は、一転して「実」に転換する。ことばの経済学ではなく、ことばの化学反応、あるいはことばの「理論物理学」のようなものか。
 「ない」と「ない」が「論理(ことば)」のなかで、「ある」もののようにしてぶつかりあって、そのときに生じる力が「自分(私)」を生み出す。「肉体」を生み出すのではなく、別なことば(思考)を生み出す。「ない」が「ある」と考える力が、「自分」というものになる。「自分(思考)」になって生まれる。これは先に書いたように、単にそういう「論理」が生み出されているだけなのだが……。

 こういうことは「正確」に書こうとすると、ごちゃごちゃしてしまうので、書き飛ばしてしまうしかない。書き飛ばしながら、次の機会に、そのことばがととのえられるのを待つしかない。

 谷川はタマシヒを信じない。けれど、「ない」ものをも語る(騙る)ことができる。ことばは「ない」ものをも「ある」という形で表現できる。そういうことをしてしまうことばが「ある」。そして、それが「自分を生かしている」と信じる。
 「ない」ものを「ある」というだけでは矛盾してしまうので、その「ないもの」を仮に「タマシヒ」と呼ぶ。「ある」と騙してことばを動かすと、そこに「論理」が生まれてくる。人は「論理」を信じてしまう。
 馬鹿だから--とは谷川は書いていないが。馬鹿だから、という感想は私の勝手な脱線なのだが、人間はついつい「論理」にもたれかかってしまう。論理なんてでっちあげだから、そんなものは「ない」、私はそれを信じない、と言えばいいのに、人間はなかなかそういうことができない。--馬鹿だから。

 脱線した。
 谷川は、私とは違った具合に考える。違った人間なのだから、違った具合に考えるのが当然なのだが。
 どう考えるか。
 「ない」を「ある」と主張するとき、その「ある」に美しい名前をつける。「名辞」する。「分節」する。そうすることで、自分を美しい世界へ解き放つ。「名辞以前」を統治する力が自分(私/谷川)を生かしている/谷川は生かされているのだが、そこに自分自身の「名辞する」という動詞としての自分を動かす。見えない力に統治されるままでいるのではなくて、自分で自分を動かす。そのために「ことば」がある。
 「ことば」は谷川にとって、自分を生み出していく「方法」なのである。
 どんなふうに生み出すか。
 繰り返しになってしまうが「タマシヒ」という美しいことばをつかって、谷川自身を美しく生み出す。「魂」や「たましい」「タマシイ」ではなく、「タマシヒ」という独特の表現をつかっているのは、そのことばのなかに谷川が生み出したことばであることを刻印するためかもしれない。
 この「生み出し」を谷川は「解き放つ」と書く。
 それは、そこまでの論理を追った限りでは、名辞以前から始まる世界を統治する力からの解き放ちであるはずなのだが、谷川は、そのことを一瞬どこかへ押しやって、

金銭がもたらす現世の諸々から

 と書く。金銭で動いている現世から、金銭に支配されない美しい世界へ、ということだろう。
 この最終行は、それまでの「論理」からいうと「嘘」なのだが、この嘘のつき方が谷川は巧みだ。哲学的なややこしいことを書いていたのではなく、現世の、平凡なことを書いているだけなんですよ、とシラを切ってしまう。
 ここに何といえばいいのだろう、「露骨」な何かがあって、それが、それが魅力でもある。露骨なものだけがもちうる親近感(密着/接続感)がある。
 そうだよね、金銭で動いている現世はいやだよ、そういう世界じゃなく美しいタマシヒの世界で遊んでみたいよなあ。読者(私)は納得してしまう。

 ところで、この作品の右ページは真っ暗(真っ黒)。真っ暗と書いてしまうのは、その前のページ(裏のページ)が夜の猫の写真だからである。猫は葉っぱの影に目を隠している。その隠した目で、葉っぱの向こうの闇をみつめたら、こういう具合に真っ暗なのだろうか。
 そして、その真っ暗は、谷川のタマシヒが脱出してきた世界なのかな? タマシヒを真っ暗から取り出して、白い紙の上にすくい上げたのかな?
 この詩を書いたとき、谷川は、詩が印刷されている白いつるつるの美しいページを夢みていたのかな。それとも何も見えなくて、右ページのような、真っ暗ななかにいて、その暗闇のなかでことばを動かしていたのかな?
 そんなことも考えた。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
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坂道--小倉金栄堂の迷子

2014-11-26 01:25:38 | 
坂道--小倉金栄堂の迷子

本のなかの坂道をのぼると、
街灯のひかりが石畳の石の一個一個の丸みを磨いていた。
「しばらく前に雨が通っていったからだ」
前を歩いているひとのことばはそう翻訳されていたが、
「この坂を上までいっしょに歩いてみないか」という意味だとわかった。
並んで息をあわせると坂道は古めかしい漢字の名前に変わった。
そして坂の上の小さなホテルの前ではまた聞き慣れないカタカナの通りに。
受け付けの男が椅子を出して座っていた。たばこを吸うと、
その周辺に男の表情が広がるのが見えた。
「きょうはここまで。またいつか別の坂道で」
目を見ないまま、そんな意味のことばを聞かされて、
私は前に長くのびる影を追いかけるようにして来た道を下った。
背後、二階の部屋の明かりがつくのを見なかったが、
本のなかでは私は明かりがつくまで佇っているのだった。

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