監督 リチャード・リンクレイター 出演 エラー・コルトレーン、ローレライ・リンクレイター、パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク
家族の12年間を12年間かけて撮影している。脚本は、たぶん主人公の少年の変化にあわせて、その時その時でつくりあげていったのだろう。とても自然で、その自然であることに、この映画の力を感じた。ストーリーをつくらない。ただ、時間を描く。それも時間の経過とともに何かが変わる--その変わり方に焦点をあてるのではなく、そこに時間がある。日常がある、ということだけに焦点をあてている。
だから見終わったとき、時間が、とてもあいまいになる。6歳のときに何があって、7歳のときに何があって……という「時系列」があいまいになる。母親が再婚して、離婚して、再婚してという「順序」は動かせないのだけれど、最初の再婚と次の再婚のあいだに「何年」があったのか、わからない。「いま」からふりかえると、それは同じように思い出される。--これは、現実に私たちが体験する「時間感覚」そのものである。10年前に体験したこともきのう体験したことも、それを思い出すとき、そこには「10年前」とか「きのう」という区別はない。時間の「隔たり」の差を無視して、となりあった形で思い出される。となりあったというよりも、同じ「時」のなかで思い出されると言った方がいい。「10年前」も「きのう」も「いま」という「一瞬」として思い出す。
それを象徴的に表現しているのが、主人公が大学へ入るために家を出るとき母親の態度。母は再婚を繰り返しているが、気分は「シングルマザー」だ。ひとりで懸命に子どもを育ててきた。そして子どもが自分のもとから離れていくとき、その長い長い苦労が「一瞬」に凝縮してしまって、どうしていいかわからなくなる。あらゆる「体験」は「いま」のなかにある。12年という「時」が「いま」という一瞬になって噴出してきて、母親を揺さぶる。その動揺、その混乱にはこころを揺さぶられる。
また最後の少年(青年?)が山頂で恋人に「なる」一瞬もおもしろい。二人は心情を具体的に語るわけではない。「好き」とか「愛している」とは言わない。何気ない会話のなかで、二人は二人の「過去(体験)」をなんとなく感じあう。母親が12年間を「一瞬」のうちに思い出し、混乱し、寂しさを感じたのに対し、二人は二人の「過去のすべての時間」が、「いま」という「時」のなかにゆっくりと滲み出てきているのを感じる。その「時」にゆっくりとなじみ、それを互いに受け入れ、気持ちが安らぐ。
どんなに長い時間も、「いま」という一瞬のなかにあらわれる。どんな「過去」も「いま」なのだ。--そういう「哲学(時間論)」に迫る映画である。
一回見た限りでは、どうしてもラストシーン(あるいはラストシーン近くの感動的なシーン)が「いま」になるから、それが印象を支配してしまうが、思い返すと、どの「いま」の映像も「過去」結びつきながら「いま」として、「そのとき」に動いていた。たとえば、母の二度目の再婚のあいての男が主人公に対して帰宅時間が遅いと怒る。ここはおれの家だ、おれのルールに従え、という感じ。その「おれがルール」という言い方は、その前の母の連れ合い、アルコール依存症の大学教授の男と同じである。その結果(か、どうかは明確には描かれていないが)、同じ「離婚」という結果(時間)へとつながっていく。「いま」のなかには、「過去」がしっかりとからみついている。「いま」は「過去」を含めて「いま」なのである。
こういう「時間論」を描いた映画のなかで、イーサン・ホークのキャラクターの変化はとても興味深い。だらしなく、無責任だった父親が、だんだん落ち着いてくる。無邪気な「こども青年」から「父親」に着実に変化していく。映画はイーサン・ホークに焦点をあてて進むわけではないので、彼の「いま」にどんな「過去」が噴出しているのかわかりにくいが、同じことが起きているのだということは感じられる。こどもの成長(6歳の少年とその姉の成長)にあわせて、彼自身が「おとな」になっているのである。
象徴的なのが、娘と恋人の話をするシーン(ファミリーレストラン?)。イーサン・ホークはボーイフレンドとセックスをしてもいいがコンドームをつかえ(避妊しろ)と注意する。こういうことは父親が娘にいうようなことではないだろうけれど、(たぶん娘に対しては同性の母親が注意することなのだと思うけれど)、イーサン・ホークはそれを語らずにはいられない。イーサン・ホークの「過去」が、そのとき噴出しているのである。イーサン・ホークとパトリシア・アークエットは避妊に考えが及ばなかった。その結果、姉と主人公の少年が生まれた。それはそれで「悪い」ことではないのだが、そのことがイーサン・ホークとパトリシア・アークエットをつまずかせた。そう語りながら、イーサン・ホークは少し「成長」する。
この変化を具体化するイーサン・ホークの演技はすばらしい。母親の、ラストの悲しみの演技が「一瞬」を強調することで胸に迫ってくるのと対照的に、イーサン・ホークは長い時間のなかで「過去」を少しずつ思い出しながら成長していく。この映画の隠し味になっている。
(2014年11月26日、ソラリアシネマ9)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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家族の12年間を12年間かけて撮影している。脚本は、たぶん主人公の少年の変化にあわせて、その時その時でつくりあげていったのだろう。とても自然で、その自然であることに、この映画の力を感じた。ストーリーをつくらない。ただ、時間を描く。それも時間の経過とともに何かが変わる--その変わり方に焦点をあてるのではなく、そこに時間がある。日常がある、ということだけに焦点をあてている。
だから見終わったとき、時間が、とてもあいまいになる。6歳のときに何があって、7歳のときに何があって……という「時系列」があいまいになる。母親が再婚して、離婚して、再婚してという「順序」は動かせないのだけれど、最初の再婚と次の再婚のあいだに「何年」があったのか、わからない。「いま」からふりかえると、それは同じように思い出される。--これは、現実に私たちが体験する「時間感覚」そのものである。10年前に体験したこともきのう体験したことも、それを思い出すとき、そこには「10年前」とか「きのう」という区別はない。時間の「隔たり」の差を無視して、となりあった形で思い出される。となりあったというよりも、同じ「時」のなかで思い出されると言った方がいい。「10年前」も「きのう」も「いま」という「一瞬」として思い出す。
それを象徴的に表現しているのが、主人公が大学へ入るために家を出るとき母親の態度。母は再婚を繰り返しているが、気分は「シングルマザー」だ。ひとりで懸命に子どもを育ててきた。そして子どもが自分のもとから離れていくとき、その長い長い苦労が「一瞬」に凝縮してしまって、どうしていいかわからなくなる。あらゆる「体験」は「いま」のなかにある。12年という「時」が「いま」という一瞬になって噴出してきて、母親を揺さぶる。その動揺、その混乱にはこころを揺さぶられる。
また最後の少年(青年?)が山頂で恋人に「なる」一瞬もおもしろい。二人は心情を具体的に語るわけではない。「好き」とか「愛している」とは言わない。何気ない会話のなかで、二人は二人の「過去(体験)」をなんとなく感じあう。母親が12年間を「一瞬」のうちに思い出し、混乱し、寂しさを感じたのに対し、二人は二人の「過去のすべての時間」が、「いま」という「時」のなかにゆっくりと滲み出てきているのを感じる。その「時」にゆっくりとなじみ、それを互いに受け入れ、気持ちが安らぐ。
どんなに長い時間も、「いま」という一瞬のなかにあらわれる。どんな「過去」も「いま」なのだ。--そういう「哲学(時間論)」に迫る映画である。
一回見た限りでは、どうしてもラストシーン(あるいはラストシーン近くの感動的なシーン)が「いま」になるから、それが印象を支配してしまうが、思い返すと、どの「いま」の映像も「過去」結びつきながら「いま」として、「そのとき」に動いていた。たとえば、母の二度目の再婚のあいての男が主人公に対して帰宅時間が遅いと怒る。ここはおれの家だ、おれのルールに従え、という感じ。その「おれがルール」という言い方は、その前の母の連れ合い、アルコール依存症の大学教授の男と同じである。その結果(か、どうかは明確には描かれていないが)、同じ「離婚」という結果(時間)へとつながっていく。「いま」のなかには、「過去」がしっかりとからみついている。「いま」は「過去」を含めて「いま」なのである。
こういう「時間論」を描いた映画のなかで、イーサン・ホークのキャラクターの変化はとても興味深い。だらしなく、無責任だった父親が、だんだん落ち着いてくる。無邪気な「こども青年」から「父親」に着実に変化していく。映画はイーサン・ホークに焦点をあてて進むわけではないので、彼の「いま」にどんな「過去」が噴出しているのかわかりにくいが、同じことが起きているのだということは感じられる。こどもの成長(6歳の少年とその姉の成長)にあわせて、彼自身が「おとな」になっているのである。
象徴的なのが、娘と恋人の話をするシーン(ファミリーレストラン?)。イーサン・ホークはボーイフレンドとセックスをしてもいいがコンドームをつかえ(避妊しろ)と注意する。こういうことは父親が娘にいうようなことではないだろうけれど、(たぶん娘に対しては同性の母親が注意することなのだと思うけれど)、イーサン・ホークはそれを語らずにはいられない。イーサン・ホークの「過去」が、そのとき噴出しているのである。イーサン・ホークとパトリシア・アークエットは避妊に考えが及ばなかった。その結果、姉と主人公の少年が生まれた。それはそれで「悪い」ことではないのだが、そのことがイーサン・ホークとパトリシア・アークエットをつまずかせた。そう語りながら、イーサン・ホークは少し「成長」する。
この変化を具体化するイーサン・ホークの演技はすばらしい。母親の、ラストの悲しみの演技が「一瞬」を強調することで胸に迫ってくるのと対照的に、イーサン・ホークは長い時間のなかで「過去」を少しずつ思い出しながら成長していく。この映画の隠し味になっている。
(2014年11月26日、ソラリアシネマ9)
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