谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(ナナロク社、2014年11月01日発行)
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』はいろんな仕掛け(?)のようなものがあり、そういうものに出会うたびに、私のことばは驚いてぱっと動くのだが、同時にことばが散らばってしまう感じにもなる。さっき思ったことと、今思ったことは関係があるのか、ないのか……。それを整えようとすると、私の肉体のなかにある何かが嫌がる。
これは、きっと整えてしまってはいけないのだ。ことばが動いたまま、それを書いていくしかないのだ、と思った。
私が最初に思ったのは、写真の数が詩の数より多いということ。次に本の紙質が統一されていないこと。つるつるとざらざら、さらには裏側が透けて見えるものもある。手触りが違う。眼で見ているのに、写真の手触りが違うと感じてしまう。手で実際に触ってもいるのだけれど、そのときの感触が視覚を不統一にする。
なぜ、こんな仕掛け(?)になっているのかな。
わからないまま、本の中を進んで行くのだが、その仕掛けのなかで私がいちばん驚いたのは、表紙のカバーをとると詩があらわれたこと。えっ、ここにも詩が(ことばが)隠されていたのか。そして、その詩は灰色の紙の上に銀色で印刷されている。灰色と銀色って、同じ色じゃない? 読みづらい。読むのを拒絶しているような、意地悪な印刷だなあ。ほんとうに読みたい人だけ読めばいい、と言っているみたい。
そうか、詩も写真も、ほんとうにそれに触れたい人が触れればそれでいいのかもしれない。--でも、そんなふうに考えるのはさびしい。ことばはもっと読まれたいと思っているかもしれない。写真ももっと見られたいと思っているかもしれない。作者の思いとは関係なく。
ことばから聞こえたもの、写真から見えたもの、本からつたわってきたものを書いてみる。表紙にある詩は最後になって、そこに詩があるとわかったので、読んだ順序にしたがって感想を書いていく。
「空」という作品。
知らないことば、意味のわからないことばはない。だから、すっと読むことができる。すっと読みながら、同時にそのすっと読んでしまって、そのことにとまどってしまう。書いてあることは、考えはじめると、何とも不思議なことばかり。
最初の2行の質問に私は答えられない。谷川は、しかし、答えを必要としていないのかもしれない。すぐに3行目で「生まれたての赤ん坊のように」ということばで、生まれたての赤ん坊ならことばを知らないので空ということばをつかわずに空をみることができるよ、と谷川自身で「答え」のようなものを出してしまう。
その「答え」は、またまたわからないことへとつづいていくのだが、谷川のことばに触れている瞬間は、何か「答え」に触れている気持ちになる。「言葉を忘れて」と「空という言葉を知らずに」に違うのだけれど、生まれたての赤ん坊は「空」ということばをつかわずに、たしかに空を見るのだろう。
でも、それは空? 私たちにとっては空だけれど、赤ん坊にとっても空? それはわからない。
だいたい、私は初めて空を見たのがいつか思い出せない。それが空と呼ばれるものだと知ったのがいつかも思い出せない。
谷川だって、そんなことを覚えているはずがないと私は思う。覚えていないけれど、まるで覚えているかのように谷川は書いている。自分の体験ではなくて、赤ん坊に初めて空を見せたときの反応を書いていると言えるかもしれないけれど、その「初めて」もあいまいだ。病院の窓から知らずに知らずに空を見ていたかもしれない。いつが「初めて」かなんて、わからない。
わからなのに、そうだなあ、と思う。谷川の書いていることばどおりだなあ、と何かが納得してしまう。「頭」ではない。「頭」は、いま、私が書いたように、あれこれと難癖をつけるのだが、「頭」が難癖をつけるまえに何かが納得してしまう。
3連目。そうなのか、思う。赤ん坊が「真剣」かどうかなんて、わからないのに、「真剣」ということばを受け入れてしまう。それだけではなく、あ、ここに「真実」というか「永遠」が書かれていると思ってしまう。ことばが自分で動いていって、必然的にたどりつく「真実」が書かれていると感じる。
ことばの運動、ことばにすることで初めてつかみとれる「真実」が、ここに書かれていると感じ、あ、谷川はすごいと思う。初めて空を見る赤ん坊の顔を、もう一度見てみたいと思う。赤ん坊が空を初めて見たときの顔を見たことがないのに、それを見たような気持ちになり、さらにもう一度見てみたいという気持ちになる。
とても不思議だ。
その不思議を不思議のままおいておいて、4連目。
突然、生まれて初めて空を見た赤ん坊になった気持ちになる。初めて空を見た赤ん坊になって、「いま」空を見たい。「おとな」でありながら、「赤ん坊」の体験がしたい。赤ん坊は「自分の心に」空が欲しいなんて思わないだろう。「自分の心」というものを知るのは、空が空であると知るよりももっとあとだろう。
ここには「頭」で考えると、矛盾というか、わかりにくいことがぎっしりつまっているのだけれど、「頭」で反論せずに、谷川のことばをただ聞いているときは、そのことばが触れているものに直に触れている感じがする。そして、そのいままでことばにならなかったものに直に触れている感じが気持ちよくて、あ、詩だなあ、と思う。
そうだよなあ、生まれて初めて空を見るときの赤ん坊のこころを自分のこころに持ちたいよなあ……。あ、でも赤ん坊のこころではなく、谷川が書いているのは「本物の空」。うーん、でも、その「本物の空」というのは「赤ん坊の見た空」、そしてその「心」。それを見たときの「真剣」な何か。
ことばが交錯する。「本物の空」と「赤ん坊の見た空」「心」が重なり合い、ずれている。ひとつのことばでは言えない何かになっている。
それが「タマシヒ」?
わからない。
私は「魂」ということばを自分からつかったことがない。「魂」の存在を信じていない。「魂」が自分にあると考えたことも感じたこともない。
「こころ(感情)」はどうか。あるいは「精神(理性)」はどうか。これは、ある、と感じている。何かを見て、どきどきしたり、はらはらしたりする。そのとき実際に心臓の動悸がはやくなったりする。怒りながら、何かほかのこと(たとえば数字の計算)をしようとすると、うまくいかない。いつもと違った「動き」が体のなかで起きる。その違った動きの中に「こころ」とか「精神」があると、私は考えている。自分で制御できない「反応」が自分のなかで起きる--その反応を動かしているのものが「こころ」「精神」と考えている。
でも、「魂」は、私の肉体のなかで何かの動きをしているとは感じられない。それが肉体の動きになってあらわれているとは感じられない。だから、「存在していない」と私は考えているのだが、もちろん「動かない何か」(動きを静める何か)を「魂」と考えれば、それはあることになる。
谷川は、どう考えているのだろうか。「タマシヒ」とわざわざ旧かな、しかもカタカナで書いている。そこに谷川の何か特別な思いがあるのだろうか。
詩を読み返すと、
この3行が、かなり(?)不思議。
赤ん坊は何をした?
何もしていない。動かない。
で、この「動かない」が、私が「魂」は何かを考えたとき感じることとどこか通じる。「こころ」のように騒がない。泣いたり、笑ったりしないで、「動かない」をつくりだすもの。
そうか、ここから考えていけばいいのかもしれないなあ。
この「動かない」を谷川は、
と言いなおしている。「真剣」なとき、たしかにひとはときどき「動かない」。真剣に何かを聞いているとき、体は動かない。真剣に何かをしているとき、「こころ」は動かない。無心、ということが起きる。
「魂」は「動詞」とは反対(?)のところにあるのか。「動かない」もの、「無(ない)」という何かを感じさせるのが「魂」なのか。
そして、そのとき「魂」は近くにあるものと向き合っているのではなく、はるか遠くにあるもの、手のとどかないところにあるものと、ただ向き合っている。手のとどかないものと接している。接続している。つながっている。
その「つながった記憶」(宇宙とつながった記憶)を、
と谷川はもう一度、言いなおしている。「本物の空」というのは、赤ん坊の無心の(動かないこころ)がつながった「宇宙」。それが「自分の心」にほしい。それは、そこにあるだけで「動かない空」(動かない宇宙)と言えないだろうか。
もし、「魂」が「動かないもの(無)」であるなら、それがあってもいいかなあ、と私は、この詩を読み返しながら考えた。
「魂なんてない」という私の基本的な考え方と、「動かない(無)」は通じるからだ。--でも、これは私の「誤読」であって(勝手な読み方であって)、谷川が「タマシヒ」をどういうものと感じているのか、あるいは「定義」しているのか、この詩だけではわからないね。
それからページをめくって、最初の写真。空を無数の、ではないが、たくさんの、数えるのが面倒なくらいの鳥が飛んでいる。翼がかなり大きいが、なんという鳥かわからない。影だけになって、横につながっている。
ふーん、この空の向こう側に「宇宙」があるのかなあ、と私は詩のつづき、詩の印象をかかえたまま、思った。写真のことは、私はよくわからないので、そんなにじっくりとも見つめないのだが……。
そして、さらにページをめくって。
私は「あっ」と声を上げた。左のページに「私は王様」という谷川の詩があるのだが、右のページ、鳥と空の写真の裏側は、青一色。これって、地上からではなく、鳥の裏側、鳥のさらに上空(宇宙)から見た空の色? 私たちが空を見上げているときに見る空の裏側の色?
雲も何もなく、ただ一色。青があるけれど、無。
赤ん坊が見ていたのは、この青?
真剣になって宇宙と向きあって、宇宙の視線で空を見る。見下ろす、かな? そうすると、そこには青だけ。赤ん坊は、見えない。いるはずなのに、見えない。
見えているものの裏側(向こう側)に見えない無がある。無だから見えないのだけれど……。
あわてて、前のページにもどる。
空と鳥の写真が左側、右側は空白。詩の裏側のページは、白。空白。無。
えっ。
またページを逆戻り。
そこには頭にピンクの飾り(これ、何?)を載せた少年がいる。じっと前を見ている。視線が動かない。写真だから動かないのはあたりまえなのだが、動かないということがわかる。何を見ているかわからないけれど、動か「ない」ということがわかる。そこにも「無」がある。
その写真と空と鳥の写真の間に谷川の「空」がある。少年(写真)と空(写真)の間に「空(詩)」がある。そして、それは「無」でつながって、そこに「ある」。
何か、私の知らないことが、ここから始まる。
そういう感じが、うわーっと動いてくる。押し寄せてくる。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』はいろんな仕掛け(?)のようなものがあり、そういうものに出会うたびに、私のことばは驚いてぱっと動くのだが、同時にことばが散らばってしまう感じにもなる。さっき思ったことと、今思ったことは関係があるのか、ないのか……。それを整えようとすると、私の肉体のなかにある何かが嫌がる。
これは、きっと整えてしまってはいけないのだ。ことばが動いたまま、それを書いていくしかないのだ、と思った。
私が最初に思ったのは、写真の数が詩の数より多いということ。次に本の紙質が統一されていないこと。つるつるとざらざら、さらには裏側が透けて見えるものもある。手触りが違う。眼で見ているのに、写真の手触りが違うと感じてしまう。手で実際に触ってもいるのだけれど、そのときの感触が視覚を不統一にする。
なぜ、こんな仕掛け(?)になっているのかな。
わからないまま、本の中を進んで行くのだが、その仕掛けのなかで私がいちばん驚いたのは、表紙のカバーをとると詩があらわれたこと。えっ、ここにも詩が(ことばが)隠されていたのか。そして、その詩は灰色の紙の上に銀色で印刷されている。灰色と銀色って、同じ色じゃない? 読みづらい。読むのを拒絶しているような、意地悪な印刷だなあ。ほんとうに読みたい人だけ読めばいい、と言っているみたい。
そうか、詩も写真も、ほんとうにそれに触れたい人が触れればそれでいいのかもしれない。--でも、そんなふうに考えるのはさびしい。ことばはもっと読まれたいと思っているかもしれない。写真ももっと見られたいと思っているかもしれない。作者の思いとは関係なく。
ことばから聞こえたもの、写真から見えたもの、本からつたわってきたものを書いてみる。表紙にある詩は最後になって、そこに詩があるとわかったので、読んだ順序にしたがって感想を書いていく。
「空」という作品。
空という言葉を忘れて
空を見られますか?
生まれたての赤ん坊のように
初めて空を見たとき
赤ん坊は泣かなかった
笑いもしなかった
とても真剣だった
宇宙と顔つき合わせて
それがタマシヒの顔
空が欲しい
言葉の空じゃなく
写真の空でもなく
本物の空を自分の心に
知らないことば、意味のわからないことばはない。だから、すっと読むことができる。すっと読みながら、同時にそのすっと読んでしまって、そのことにとまどってしまう。書いてあることは、考えはじめると、何とも不思議なことばかり。
最初の2行の質問に私は答えられない。谷川は、しかし、答えを必要としていないのかもしれない。すぐに3行目で「生まれたての赤ん坊のように」ということばで、生まれたての赤ん坊ならことばを知らないので空ということばをつかわずに空をみることができるよ、と谷川自身で「答え」のようなものを出してしまう。
その「答え」は、またまたわからないことへとつづいていくのだが、谷川のことばに触れている瞬間は、何か「答え」に触れている気持ちになる。「言葉を忘れて」と「空という言葉を知らずに」に違うのだけれど、生まれたての赤ん坊は「空」ということばをつかわずに、たしかに空を見るのだろう。
でも、それは空? 私たちにとっては空だけれど、赤ん坊にとっても空? それはわからない。
だいたい、私は初めて空を見たのがいつか思い出せない。それが空と呼ばれるものだと知ったのがいつかも思い出せない。
谷川だって、そんなことを覚えているはずがないと私は思う。覚えていないけれど、まるで覚えているかのように谷川は書いている。自分の体験ではなくて、赤ん坊に初めて空を見せたときの反応を書いていると言えるかもしれないけれど、その「初めて」もあいまいだ。病院の窓から知らずに知らずに空を見ていたかもしれない。いつが「初めて」かなんて、わからない。
わからなのに、そうだなあ、と思う。谷川の書いていることばどおりだなあ、と何かが納得してしまう。「頭」ではない。「頭」は、いま、私が書いたように、あれこれと難癖をつけるのだが、「頭」が難癖をつけるまえに何かが納得してしまう。
3連目。そうなのか、思う。赤ん坊が「真剣」かどうかなんて、わからないのに、「真剣」ということばを受け入れてしまう。それだけではなく、あ、ここに「真実」というか「永遠」が書かれていると思ってしまう。ことばが自分で動いていって、必然的にたどりつく「真実」が書かれていると感じる。
ことばの運動、ことばにすることで初めてつかみとれる「真実」が、ここに書かれていると感じ、あ、谷川はすごいと思う。初めて空を見る赤ん坊の顔を、もう一度見てみたいと思う。赤ん坊が空を初めて見たときの顔を見たことがないのに、それを見たような気持ちになり、さらにもう一度見てみたいという気持ちになる。
とても不思議だ。
その不思議を不思議のままおいておいて、4連目。
突然、生まれて初めて空を見た赤ん坊になった気持ちになる。初めて空を見た赤ん坊になって、「いま」空を見たい。「おとな」でありながら、「赤ん坊」の体験がしたい。赤ん坊は「自分の心に」空が欲しいなんて思わないだろう。「自分の心」というものを知るのは、空が空であると知るよりももっとあとだろう。
ここには「頭」で考えると、矛盾というか、わかりにくいことがぎっしりつまっているのだけれど、「頭」で反論せずに、谷川のことばをただ聞いているときは、そのことばが触れているものに直に触れている感じがする。そして、そのいままでことばにならなかったものに直に触れている感じが気持ちよくて、あ、詩だなあ、と思う。
そうだよなあ、生まれて初めて空を見るときの赤ん坊のこころを自分のこころに持ちたいよなあ……。あ、でも赤ん坊のこころではなく、谷川が書いているのは「本物の空」。うーん、でも、その「本物の空」というのは「赤ん坊の見た空」、そしてその「心」。それを見たときの「真剣」な何か。
ことばが交錯する。「本物の空」と「赤ん坊の見た空」「心」が重なり合い、ずれている。ひとつのことばでは言えない何かになっている。
それが「タマシヒ」?
わからない。
私は「魂」ということばを自分からつかったことがない。「魂」の存在を信じていない。「魂」が自分にあると考えたことも感じたこともない。
「こころ(感情)」はどうか。あるいは「精神(理性)」はどうか。これは、ある、と感じている。何かを見て、どきどきしたり、はらはらしたりする。そのとき実際に心臓の動悸がはやくなったりする。怒りながら、何かほかのこと(たとえば数字の計算)をしようとすると、うまくいかない。いつもと違った「動き」が体のなかで起きる。その違った動きの中に「こころ」とか「精神」があると、私は考えている。自分で制御できない「反応」が自分のなかで起きる--その反応を動かしているのものが「こころ」「精神」と考えている。
でも、「魂」は、私の肉体のなかで何かの動きをしているとは感じられない。それが肉体の動きになってあらわれているとは感じられない。だから、「存在していない」と私は考えているのだが、もちろん「動かない何か」(動きを静める何か)を「魂」と考えれば、それはあることになる。
谷川は、どう考えているのだろうか。「タマシヒ」とわざわざ旧かな、しかもカタカナで書いている。そこに谷川の何か特別な思いがあるのだろうか。
詩を読み返すと、
初めて空を見たとき
赤ん坊は泣かなかった
笑いもしなかった
この3行が、かなり(?)不思議。
赤ん坊は何をした?
何もしていない。動かない。
で、この「動かない」が、私が「魂」は何かを考えたとき感じることとどこか通じる。「こころ」のように騒がない。泣いたり、笑ったりしないで、「動かない」をつくりだすもの。
そうか、ここから考えていけばいいのかもしれないなあ。
この「動かない」を谷川は、
とても真剣だった
宇宙と顔つき合わせて
それがタマシヒの顔
と言いなおしている。「真剣」なとき、たしかにひとはときどき「動かない」。真剣に何かを聞いているとき、体は動かない。真剣に何かをしているとき、「こころ」は動かない。無心、ということが起きる。
「魂」は「動詞」とは反対(?)のところにあるのか。「動かない」もの、「無(ない)」という何かを感じさせるのが「魂」なのか。
そして、そのとき「魂」は近くにあるものと向き合っているのではなく、はるか遠くにあるもの、手のとどかないところにあるものと、ただ向き合っている。手のとどかないものと接している。接続している。つながっている。
その「つながった記憶」(宇宙とつながった記憶)を、
空が欲しい
と谷川はもう一度、言いなおしている。「本物の空」というのは、赤ん坊の無心の(動かないこころ)がつながった「宇宙」。それが「自分の心」にほしい。それは、そこにあるだけで「動かない空」(動かない宇宙)と言えないだろうか。
もし、「魂」が「動かないもの(無)」であるなら、それがあってもいいかなあ、と私は、この詩を読み返しながら考えた。
「魂なんてない」という私の基本的な考え方と、「動かない(無)」は通じるからだ。--でも、これは私の「誤読」であって(勝手な読み方であって)、谷川が「タマシヒ」をどういうものと感じているのか、あるいは「定義」しているのか、この詩だけではわからないね。
それからページをめくって、最初の写真。空を無数の、ではないが、たくさんの、数えるのが面倒なくらいの鳥が飛んでいる。翼がかなり大きいが、なんという鳥かわからない。影だけになって、横につながっている。
ふーん、この空の向こう側に「宇宙」があるのかなあ、と私は詩のつづき、詩の印象をかかえたまま、思った。写真のことは、私はよくわからないので、そんなにじっくりとも見つめないのだが……。
そして、さらにページをめくって。
私は「あっ」と声を上げた。左のページに「私は王様」という谷川の詩があるのだが、右のページ、鳥と空の写真の裏側は、青一色。これって、地上からではなく、鳥の裏側、鳥のさらに上空(宇宙)から見た空の色? 私たちが空を見上げているときに見る空の裏側の色?
雲も何もなく、ただ一色。青があるけれど、無。
赤ん坊が見ていたのは、この青?
真剣になって宇宙と向きあって、宇宙の視線で空を見る。見下ろす、かな? そうすると、そこには青だけ。赤ん坊は、見えない。いるはずなのに、見えない。
見えているものの裏側(向こう側)に見えない無がある。無だから見えないのだけれど……。
あわてて、前のページにもどる。
空と鳥の写真が左側、右側は空白。詩の裏側のページは、白。空白。無。
えっ。
またページを逆戻り。
そこには頭にピンクの飾り(これ、何?)を載せた少年がいる。じっと前を見ている。視線が動かない。写真だから動かないのはあたりまえなのだが、動かないということがわかる。何を見ているかわからないけれど、動か「ない」ということがわかる。そこにも「無」がある。
その写真と空と鳥の写真の間に谷川の「空」がある。少年(写真)と空(写真)の間に「空(詩)」がある。そして、それは「無」でつながって、そこに「ある」。
何か、私の知らないことが、ここから始まる。
そういう感じが、うわーっと動いてくる。押し寄せてくる。
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