谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(3)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
少年(「私は王様」の「王」)は「ここにいる」。そして、「ここ」ではないどこかを見つめている。「どこへでも行ける」と感じている。そのとき、少年が見つめているのは何か。
詩は小説ではないのだけれど、私は、いま、そんな具合にこの詩集を読みはじめている。で、その三つめの作品。「向かう」。
「向かう」は「むかう」と読む。でも、私は思わず「むこう」と読んでしまった。「タマシヒ」と谷川が「旧かな」で表記していた影響を受けている。「むこう」は「旧かな」では「むかふ」と書くと思う。「むかふ」と書いていないのだから「むこう」と読むのは間違いなのだけれど「か」の文字にひっぱられて、そう読んでしまったらしい。
「いまここにいる私」は「むこうにはいない」という「意識」が動いている。詩のページの裏側、写真のページの裏側というときの裏側が「向こう側」という感じになっているのかもしれない。少年が家の入り口に座って、そこではない場所(むこう)を見ているという意識も動いているのだと思う。
さらに「むこう側」と「むかう(向こう側へ行く)」が「むかふ」(旧かな)の場合は、より密接な感覚だなあということも思った。「むこうへ、むかう」が旧かなの方が「肉体」に迫ってくる。そういう無意識(?)があって、「向かう」を「むこう」と読んでしまったのかなあとも思った。
詩は、進軍する兵士を書いているのかもしれない。「誰も」と始まるので、集団を思い浮かべてしまった。いままで見てきた少年とは違った人間が描かれているのだと思った。純粋に遠くを見つめる少年と兵士ではイメージの落差が大きすぎてとまどうけれど、少年の見つめている遠く(向こう側)ではなく、少年の背後の遠く(逆の向こう側)には兵士の進軍した時代があったということか。--と、考えると、少しめんどうになるかも。
この詩で、私が、はっとしたのは、
という1行。「タマシヒ」は置き去りにできるものか。「タマシヒ」を動かないものかもしれないと私は考えはじめているが、その「動かない」は徹底しているのかもしれない。人間が動いても、「タマシヒ」は最初のすみかから動かない。最初の場所を離れない、ということか。
これは「こころを残してくる」と、どう違うだろう。出征する兵士、知らない土地を進む兵士は、歩きながら我が家のことを思う。それは「こころを残してきた」からなのだろう。
「タマシヒ」も、そんなふうに「残る」のだろうか。
「残る」と「置き去り」はどう違うだろう。「残る」は自動的。主語が、こころ、あるいは「タマシヒ」。「置き去り」は「置き去りにされる」。主語は「私」。こころや「タマシヒ」を「置き去りにする」。
そうであるなら、「タマシヒ」は動かないというよりも、人間が「タマシヒ」を動かないものにしているとも言える。動かさないことで「タマシヒ」に何かの意味や価値をつけくわえているようにも思える。
少なくとも、この詩では、谷川は「置き去りにする」ことで「タマシヒ」を人間がどう取り扱っているかに触れていると思う。
こんなことを考えると詩の全体を無視したことになってしまうのか。谷川の書こうとしていることを無視したことになってしまうのか。そうかもしれないが、私はこの1行が気になって、こんなふうに書いてしまうのだ。
さて、この詩の主人公は「タマシヒ」をどこに置き去りにしてきたのか。本に、写真にもどろうか。
家の入り口で遠くを見つめる少年、その座っている場所だろうか。そこから「タマシヒ」は何を見つめているのだろう。舗道(道)か、壁か、いや、そこに見えるものを見ているのは歩いている人間が見るものであって、「タマシヒ」はまったく違ったもの、私が想像できないものを見ているかもしれない。
たとえば、「向かう」の詩の裏側にあるピンクのバケツやザル。(詩の「向こう側/裏側」ということは、少年が見ている壁(道?)の「向こう側/反対側」、少年のこころの奥底にあるものかもしれない。)バケツやザルは、少年の家の一部かもしれない。あるいは緑のなかを流れる灰色の、泥に汚れた川。その川にかかる橋。少年の家の近くの風景かもしれない。
で、その裏側。緑と橋の裏側には。
緑とピンク。1ページが対角線で切られ、右上が緑、左下がピンク。これは何? 写真? それともデザインされた印刷?
ことばと写真に「裏側(向こう側?)」があるという感じで見てきたつづきで書くと、これはピンクのバケツと山の緑の純粋な姿。詩の裏の空白の白、鳥が飛んでいる空の無の青のように、何か少年の暮らしの「本質」のようなものかもしれない。形を超えて、光といっしょにある色。形になる前のただの色。
「タマシヒ」のひとつのとらえ方。それを詩と写真以外のものでも表現しようとしているのかもしれない。そんなことを思って、奥付をみると……。
という文字が「著者 谷川俊太郎 川島小鳥」と並んで印刷してある。
あ、これは詩と写真の本を超えたものだね。詩と写真だけを見て、何かを語ってもそれでは半分しかこの本に触れていないことになる。
わああ、たいへんだ。
私はことばには関心があるけれど、本にはあまり関心がない。写真にも関心がないし、装丁にも関心がない。本と向き合いつづけられるかなあ。
このまま読んでいくと「誤読」というよりも、とんでもない「逸脱」ということになるかも。
少年(「私は王様」の「王」)は「ここにいる」。そして、「ここ」ではないどこかを見つめている。「どこへでも行ける」と感じている。そのとき、少年が見つめているのは何か。
詩は小説ではないのだけれど、私は、いま、そんな具合にこの詩集を読みはじめている。で、その三つめの作品。「向かう」。
「向かう」は「むかう」と読む。でも、私は思わず「むこう」と読んでしまった。「タマシヒ」と谷川が「旧かな」で表記していた影響を受けている。「むこう」は「旧かな」では「むかふ」と書くと思う。「むかふ」と書いていないのだから「むこう」と読むのは間違いなのだけれど「か」の文字にひっぱられて、そう読んでしまったらしい。
「いまここにいる私」は「むこうにはいない」という「意識」が動いている。詩のページの裏側、写真のページの裏側というときの裏側が「向こう側」という感じになっているのかもしれない。少年が家の入り口に座って、そこではない場所(むこう)を見ているという意識も動いているのだと思う。
さらに「むこう側」と「むかう(向こう側へ行く)」が「むかふ」(旧かな)の場合は、より密接な感覚だなあということも思った。「むこうへ、むかう」が旧かなの方が「肉体」に迫ってくる。そういう無意識(?)があって、「向かう」を「むこう」と読んでしまったのかなあとも思った。
誰も立ち止まらなかった
路傍の野花を振り向きもせず
子どもらの泣き声に耳をかさず
歩き慣れない道に躓きながら
タマシヒを置き去りにして
ひとりも立ち止まらずに
果たすべき約束もなく
nowhere に向かっていた
潮騒のように行進曲が聞こえてくる
詩は、進軍する兵士を書いているのかもしれない。「誰も」と始まるので、集団を思い浮かべてしまった。いままで見てきた少年とは違った人間が描かれているのだと思った。純粋に遠くを見つめる少年と兵士ではイメージの落差が大きすぎてとまどうけれど、少年の見つめている遠く(向こう側)ではなく、少年の背後の遠く(逆の向こう側)には兵士の進軍した時代があったということか。--と、考えると、少しめんどうになるかも。
この詩で、私が、はっとしたのは、
タマシヒを置き去りにして
という1行。「タマシヒ」は置き去りにできるものか。「タマシヒ」を動かないものかもしれないと私は考えはじめているが、その「動かない」は徹底しているのかもしれない。人間が動いても、「タマシヒ」は最初のすみかから動かない。最初の場所を離れない、ということか。
これは「こころを残してくる」と、どう違うだろう。出征する兵士、知らない土地を進む兵士は、歩きながら我が家のことを思う。それは「こころを残してきた」からなのだろう。
「タマシヒ」も、そんなふうに「残る」のだろうか。
「残る」と「置き去り」はどう違うだろう。「残る」は自動的。主語が、こころ、あるいは「タマシヒ」。「置き去り」は「置き去りにされる」。主語は「私」。こころや「タマシヒ」を「置き去りにする」。
そうであるなら、「タマシヒ」は動かないというよりも、人間が「タマシヒ」を動かないものにしているとも言える。動かさないことで「タマシヒ」に何かの意味や価値をつけくわえているようにも思える。
少なくとも、この詩では、谷川は「置き去りにする」ことで「タマシヒ」を人間がどう取り扱っているかに触れていると思う。
こんなことを考えると詩の全体を無視したことになってしまうのか。谷川の書こうとしていることを無視したことになってしまうのか。そうかもしれないが、私はこの1行が気になって、こんなふうに書いてしまうのだ。
さて、この詩の主人公は「タマシヒ」をどこに置き去りにしてきたのか。本に、写真にもどろうか。
家の入り口で遠くを見つめる少年、その座っている場所だろうか。そこから「タマシヒ」は何を見つめているのだろう。舗道(道)か、壁か、いや、そこに見えるものを見ているのは歩いている人間が見るものであって、「タマシヒ」はまったく違ったもの、私が想像できないものを見ているかもしれない。
たとえば、「向かう」の詩の裏側にあるピンクのバケツやザル。(詩の「向こう側/裏側」ということは、少年が見ている壁(道?)の「向こう側/反対側」、少年のこころの奥底にあるものかもしれない。)バケツやザルは、少年の家の一部かもしれない。あるいは緑のなかを流れる灰色の、泥に汚れた川。その川にかかる橋。少年の家の近くの風景かもしれない。
で、その裏側。緑と橋の裏側には。
緑とピンク。1ページが対角線で切られ、右上が緑、左下がピンク。これは何? 写真? それともデザインされた印刷?
ことばと写真に「裏側(向こう側?)」があるという感じで見てきたつづきで書くと、これはピンクのバケツと山の緑の純粋な姿。詩の裏の空白の白、鳥が飛んでいる空の無の青のように、何か少年の暮らしの「本質」のようなものかもしれない。形を超えて、光といっしょにある色。形になる前のただの色。
「タマシヒ」のひとつのとらえ方。それを詩と写真以外のものでも表現しようとしているのかもしれない。そんなことを思って、奥付をみると……。
ブックデザイン 寄藤文平+鈴木千佳子(文平銀座)
プリンティングディレクター 谷口倍夫(サンエムカラー)
という文字が「著者 谷川俊太郎 川島小鳥」と並んで印刷してある。
あ、これは詩と写真の本を超えたものだね。詩と写真だけを見て、何かを語ってもそれでは半分しかこの本に触れていないことになる。
わああ、たいへんだ。
私はことばには関心があるけれど、本にはあまり関心がない。写真にも関心がないし、装丁にも関心がない。本と向き合いつづけられるかなあ。
このまま読んでいくと「誤読」というよりも、とんでもない「逸脱」ということになるかも。
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