谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(8)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「罪」という作品は、何枚かの写真がつづいたあとに「絶坊と希坊」と同じ紙質の紙に印刷されている。詩は左側のページに印刷されているのだが、その詩よりも、右側のページの詩が向き合っている灰色と黄色の模様が気になる。灰色の部分は「土」の灰色のよう。土色が混じっている感じ。美しく響きあっている。それが一点透視の道路のように描かれている。
しかし、これは何だろう。
黄色はタクシーの色。黄色は電信柱に描かれた模様の色。灰色はコンクリートの色、アスファルトの色。黄色は少年のシャツの襟の部分の色。灰色は、日陰になった部分の家の壁の部分の色……。
私は答えのようなものを探して空を飛ぶ鳥と、その裏側の青のように、何か「答え」のようなものがあるかもしれない。前のページをめくってみる。あれこれ思ってみるが、ことばにして確かめたいという強い気持ちにまではなれない。
そして、詩を読むと
そこに「探す」ということばが出てきている。詩に書かれている「探す」というとことばは、私が灰色と黄色の組み合わせにつながる何かを写真の中に探していたことを思い出させる。
これは詩を書いた谷川の意図とは関係がない。
たぶん。
そして、無関係なのだけれど、私の何かを引きずってしまう。
「探す」ということは「盗ミ/犯シ/妬ミ/騙シ/戦イ/殺シ」ということと同じなのか。私は写真を見ながら何かを盗み、何かを犯し、何かを妬み、何かを騙し、何かと戦い、何かを殺しているのか。--そうかもしれないと思う。川島の写した「美」を盗み、奇妙な言いがかりで犯す。そこには私の妬みが入っているかもしれない。感動しているのに、感動していないふりをしたり、ほんとうに感動している部分とは違った部分について語ることで騙したり、そうなふうに写真と戦い、写真を殺しているかもしれない。
動詞は、たいていの場合、誰かとの接触をもつ。他人に働きかけ、自分にそのはねかえりがある。そこには何かしら他人を否定してしまうようなものがあるかもしれない。知らず知らずに罪を犯しているのかもしれない。
こうやって詩の感想を書いていることもそうかもしれない。
私は谷川の書いていること(書こうとしたこと)を台無しにしているかもしれない。この本をつくった人の行為をすべて壊しているかもしれない。
しかし、どうすることもできない。私が書いていることが、谷川のことばを殺し、川島の写真を殺し、本をつくった人のすべてを殺してしまっているのだとしても、何か言いたい。言わないと、この本を読んだ気持ちになれない。
人間はどうしたって罪を生きるしかない。そうであるなら、楽しく罪を生きたい。つまり、言いたいことは全部言ってしまいたい。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「罪」という作品は、何枚かの写真がつづいたあとに「絶坊と希坊」と同じ紙質の紙に印刷されている。詩は左側のページに印刷されているのだが、その詩よりも、右側のページの詩が向き合っている灰色と黄色の模様が気になる。灰色の部分は「土」の灰色のよう。土色が混じっている感じ。美しく響きあっている。それが一点透視の道路のように描かれている。
しかし、これは何だろう。
黄色はタクシーの色。黄色は電信柱に描かれた模様の色。灰色はコンクリートの色、アスファルトの色。黄色は少年のシャツの襟の部分の色。灰色は、日陰になった部分の家の壁の部分の色……。
私は答えのようなものを探して空を飛ぶ鳥と、その裏側の青のように、何か「答え」のようなものがあるかもしれない。前のページをめくってみる。あれこれ思ってみるが、ことばにして確かめたいという強い気持ちにまではなれない。
そして、詩を読むと
ミンナ探シテイルノダト思ウ
何ヲ探シテイルノカモ分カラズニ
ドウシテ探シテイルノカモ分カラズニ
盗ミ
犯シ
妬ミ
騙シ
戦イ
殺シ
探シカタヲ探シテ
生キテ
死ヌ
そこに「探す」ということばが出てきている。詩に書かれている「探す」というとことばは、私が灰色と黄色の組み合わせにつながる何かを写真の中に探していたことを思い出させる。
これは詩を書いた谷川の意図とは関係がない。
たぶん。
そして、無関係なのだけれど、私の何かを引きずってしまう。
「探す」ということは「盗ミ/犯シ/妬ミ/騙シ/戦イ/殺シ」ということと同じなのか。私は写真を見ながら何かを盗み、何かを犯し、何かを妬み、何かを騙し、何かと戦い、何かを殺しているのか。--そうかもしれないと思う。川島の写した「美」を盗み、奇妙な言いがかりで犯す。そこには私の妬みが入っているかもしれない。感動しているのに、感動していないふりをしたり、ほんとうに感動している部分とは違った部分について語ることで騙したり、そうなふうに写真と戦い、写真を殺しているかもしれない。
動詞は、たいていの場合、誰かとの接触をもつ。他人に働きかけ、自分にそのはねかえりがある。そこには何かしら他人を否定してしまうようなものがあるかもしれない。知らず知らずに罪を犯しているのかもしれない。
こうやって詩の感想を書いていることもそうかもしれない。
私は谷川の書いていること(書こうとしたこと)を台無しにしているかもしれない。この本をつくった人の行為をすべて壊しているかもしれない。
しかし、どうすることもできない。私が書いていることが、谷川のことばを殺し、川島の写真を殺し、本をつくった人のすべてを殺してしまっているのだとしても、何か言いたい。言わないと、この本を読んだ気持ちになれない。
地球トイウ星ガ
哀シミニ彩ラレテイルノヲ
神モドウスルコトモ出来ナイ
人間はどうしたって罪を生きるしかない。そうであるなら、楽しく罪を生きたい。つまり、言いたいことは全部言ってしまいたい。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。