詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤理佐「鼻息顔のおばさんの親切」ほか

2014-11-04 10:47:54 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤理佐「鼻息顔のおばさんの親切」ほか(「朝日新聞」2014年11月02日朝刊)

 朝日新聞の「生活面」。そこに伊藤理佐「鼻息顔のおばさんの親切」という文章がのっていた。
 貧乏だった学生時代、大学の学生食堂を利用している。夕方4時をすぎるとおかずがセールになる。「昼は200円とか300円で売っていたおかずを100円で売り出す」。伊藤はそれを目当てに通う。ある日、おばさんが「あなた今日はいくら持ってんの?」と聞く。「200円」と答えると、なぜか4皿渡される。びっくりしながら、「取り消されないように」テーブルも運び、食べる。「チラッと見ると「ふんっ」という鼻息顔でおばさんは次の仕事に移動する」。このおばさん、昼に会っても知らん顔。無視する。しかし、夕方は……。

夕方は口をきいてくれる。質問はもう「いくら?」だけになった。「150円です」と答えると3皿出してくれる。200円だと4皿。
 そしてタヌキは太った、じゃなくて大きくなった。45歳。もしかしてわたし、今、おばさんより年上じゃないか? ……タヌキはそんなふうに人にやさしくしたい、いや冷たくしたい、と思うのだった。

 あ、いいなあ。うれしくて、文章を最初から読み直した。それだけではおさまらず、こうやってここに引用している。
 何がいいのか。私は、理屈っぽい人間なので、そして、詩の感想を書いているので、ちょっと詩と関係したことを書いておく。
 最後の「冷たくしたい」がいいのだが、それがいいのは「冷たくしたい」というだけでほかのことを言わないからだ。「冷たくしたい」のほんとうは「冷たい」とは違う。むしろ、その前の「やさしくしたい」である。
 「やさしくしたい」のだけれど、その「やさしく」はベタベタした感じではない。知らん顔。何かした後「ふんっ」と横をむいて無視するような方法。気を配るけれど、なれなれしくはしない。距離をおく。この距離感を「冷たくしたい」と言っている。
 行為は「接続」しているが、人間関係は「切断」している。個人的な関係はない。あくまで、食堂のおばさん、客という「事務的接続」。その「行為」を超えない。
 言いなおそうとすれば、いろいろに言いなおすことができる。そして、何度でも言いなおしたい気持ちになる。あの親切。そのこころ配り。きっと伊藤のことを思えばこそ、セールのさらに半額サービスはするけれど、ほかは無視する。伊藤がほかのことでも「甘える」ようになってしまっては困るからだ。それでは伊藤が「大きく」なれない、とかね。
 でも、そういうことを書かない。そういうことは読んだ人がかってに思えばいい。そして、そういう人がいるなあ、ということを思い出せばいい。
 いやあ、ほんとうにうれしくて、私はまた伊藤の文章をまた読み返しているのだが、ここからちょっと脱線する。
 2日の日記で「短い詩」について書いた。「ビーグル」25の特集に載ってる詩は行数こそ短いが、とても長い印象がある。それに比べると伊藤の文章は長い。長いけれど、とても短い印象がある。短いからすぐ読める。だからもう一度読みたいとも思う。
 で、その「短い」という印象を作り出しているのが、最後の「そんなふうにやさしくしたい、いや冷たくしたい、と思うのだった。」という文章。「やさしくしたい」と「冷たくしたい」という矛盾したことばが衝突している。「やさしく」の方は前の方にていねいに書いてあるのに、「冷たく」の方は説明がない。省略というよりも拒絶しているとさえ言える。わからなければわからないでいい、かってに考えて(感じて)という具合だ。
 この「省略(拒絶)」が文章を短くしている。
 ふと思い出したのだが、佐多稲子の「キャラメル工場」の最後、少女が便所で先生の手紙を握り締めて泣く場面も、いろいろなものが「省略」されている。そのときの少女の「思い」はまったく書いていない。説明が拒絶されている。拒絶されているのに、そこに動いているこころが手に取るようにわかる。「肉体」がかってにわかってしまう。で、その拒絶に会って、それでも「わかってしまう」何か、その「わかる」ということを確かめたくて、もう一度、この小説を読み返そうと思うのだ。そこに書かれていないことは、それまでのなかにきっと書かれている。だから読み返したいという気持ちにさせられる。
 伊藤の文章にもどると、伊藤は何度も何度も「ふんっ」というおばさんの拒絶に会っている。拒絶されるから何度でも会いたい。何度でも思い出したい。拒絶のなかに、ことばにならないもの、「肉体」でそのままつかみとるしかないもの、自分の「肉体」で返していくしかないものがある。
 省略(拒絶)が、不思議なことに「距離」を短くする。たぶん、その「距離(間/行間?)」のなかにあるものを自分でさぐりはじめる、自分のことばで考えはじめる--そういうことが「短く」ということと関係があるのだ。

 「ビーグル」の「短い詩」には、その「拒絶」がない。「距離」を説明(感情)で埋めてしまっている。そのために、とても「長い」感じがする。
 たとえば、宮内憲夫「オアシス」。

砂漠の真ん中、一握りのみどりに
まぁーるい小さな水たまり
太陽が作る、光の皮膜
水面の、そこを歩けるのは
あめんぼう、だけ
足もとを支える星のやわらかさ
どこから、来たのか?
だぁーれも、知らない

 ここで終われば「短い詩」なのに、

小さく、静まりかえった泉に
ゆっくり釣り糸を垂れて
ほっこりする
大きく、やさしい心を釣った

 「大きく、やさしい心」など、説明されたくはない。うんざり。もっと「冷たく」してよ、といいたくなる。
 峯澤典子「桃」も似た感じ。蜜をこぼす桃を描いているのだが、その2連目の

夜よりも
はるかにおもい
球体のひととき

 これが詩を「長く」している。「夜よりも/はるかにおもい(重い)」かどうかは、読者のかってに任せるといいのだと思う。
 しかし、山村由紀「煮干し」になると、何とも難しい。

タッパーのフタをいきおいよく開けたら
煮干しが床に散らばってしまった

   こ
  し し    つ つ
       へ ー
 し く し    く
    フ    レ

床で煮干しが文字になる
声はないのに声がする
白く乾いてくぼんだ目は
見えなくなった今も
とおい海をさがしている

 最後の三行はない方が「短い」。けれど、それがないと「声」がどんな声か想像するのが難しいかもしれない。
 それでも。
 私は、やっぱりない方がいいなあ、と思う。音楽的な印象が「とおい海」によって、「視覚」にもどってしまう。煮干しの形(視覚)から「文字」を引き出したのだから、山村の意識が視覚へ収斂していくのは自然なことなのだろうけれど、収斂する前の、「声」の部分が、瞬間的に世界が広がる(世界が新しくなる)のでおもしろい。ひらがな、かたかなの、「意味」になるまえの、音、音の形の音楽が楽しいのになあ、と思う。広がったまま、開かれたままの世界がいいのになあ、と思う。


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