谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(14)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「故郷」は「ひらがな」と対になっているように感じられる。
と、ことばのなかにあらわれた「いつか、どこか」で見たもの(こと)がタマシヒの故郷だと私は思うが、谷川はもうひとつの「故郷」を書く。
「ひらがな」と対になっていると感じるのは、
と、そこに「見えない」があるからかもしれない。「ひらがな」の「ここからはみえない」と「見えない」が重なる。「見えない」のに「ある」ということがわかる。
私は魂が「ある」とは思わない。それを「見た」ことがないからである。そういう人間が「タマシヒ」について書かれた詩の感想を書いているのは奇妙なことだけれど、「見えない」のに「ある」ということが「わかる」ということが、たぶん、谷川の詩と私をつないでいるのだと思う。
「見えない」のに「ある」ということが「わかる」。そして、それを「書く」ことができる。書いたときに「見えない」ものが「ある」ということが、ことばのなかで「事実」になる。
魂は「ない」。「ない」なら、それを考える(想像する)ことはできないのかもしれないが、「ある」と同様に「ない」も想像できる。そして「ない」と書いたときに「ない」がことばのなかで「事実」になる。
「ある」と「ない」がことばのなかで同じように「事実」になる。その「なる」になるようにことばが動く--そこにある「共通の何か」が気になる。
あ、だんだん、ややこしくなる。
中断しよう。詩に戻ろう。
音楽は不思議だ。音は一瞬一瞬消えてゆく。けれど聞いた音が「肉体」のなかに残り、音をつないでゆく。そのとき時間は次々にあらわれる音を追いかけると同時に、過去へも逆戻りしている。矛盾した方向へ広がっている。「いま」が「いま」ではなくなる。「いま」ドの音が聞こえても、その音だけでは音楽ではない。(そういう音楽もあるかもしれないが……。)いくつもの音が聞いた音(過去)のなかへ帰ってゆき、そこから新しい音となって「いま」を突き破って次の音(未来)になる。
そのとき「見えない地平」というのは、どこにある? 過去の方? 未来の方? それとも突き破られた「いま」のどこか? たぶん、「過去/未来/いま」の区別がない。区別がなくなるところに「見えない地平」がある。区別が「ない」と見え「ない」がいっしょになって「ある」に変わる瞬間。
「ない」と「ある」が交錯する。
これは、ほんとうに「どこまで帰る(どこまで広がる)」かわからない。わからないから「訝る」のだけれど、わからないを通り越して、どこかに「ある」らしい。その「地平」は。「とおくにやまなみがそびえているらしい」と同じように……。
音楽。
私は音痴で音楽はほとんど知らないが、谷川が音楽が好きなことはよくわかる。この詩がその例になるかどうかわからないが、音楽というのはそれまで出会ったことのない音が出会って新しい音に変わるよろこびのなかにある。
谷川の詩は、いつでも「変な音」を含んでいる。ここで、どうして、こんな音が出てくる?と言いたくなるようなことばが出てくる。そして、どうしてこんな音(こんなことば)?と思いながら、それを聞き終わった瞬間、あ、これがいい。いま聞いた音がもう一度聞きたいと思う。
二連目。
「この世」に対して「あの世」が出てくる。これは、ちょっと変だけれど、まあ、ことばはそんなふうに動くかもしれない。いや、そんなふうに動くと動きやすいから、そう書いているのだなと思う。いわゆる対句。私はこういうことばの動きを「頭で書いている」という具合に批判するのだけれど、批判とは関係なしに、これはこれで「対句」という音楽形式。私がいちゃもんをつけているだけ。
あっと驚くのは、最後の、
だいたい「寂しい」と「楽しい」は同居することばではなく、矛盾することばだ。「寂しく悲しい」か「にぎやかで楽しい」が一般的な言い方。だから、谷川の書いていることは変。
変なのだけれど、それがいい。
こういうところだね。音楽を感じるのは。あまりにもかけ離れた音が出会うのはいままでの「和音常識」からはありえない。知ったかぶりをして書くと、和音のコード進行からいうとありえない。でも、それが書かれた瞬間、それが存在し、その存在に触れた瞬間、「そうだ」と思う。「これこそ聞きたかった音」と思う。同時に、それを「知っている」と思う。
「寂しく楽しい」を知っている。
「寂しく楽しい」というのは矛盾しているから、そして矛盾だという声が自分のなかから(たぶん頭のなかから)聞こえるから、それをことばにすることができなかったけれど、「寂しく楽しい」は「知っている」。いつも感じている。感じながら、ことばにできなかった。
谷川より先にことばにすれば、私の方が詩人になれたのに。
二連目の「この世」「あの世」の対句の動きは、なんだかうるさいのに、そのうるさかったことも忘れて、最後の行で、ああ、いいなあ、と思う。
そして詩を最初から読み返す。「意味」というか、「論理」はわかったようで、わからない。タマシヒと音楽と故郷について書かれているということだけは「わかる」。それが「寂しくて楽しい」に変わるのも「わかる」。
「わからない」ものがある。それは「寂しい」。けれど「わからない」が「ある」と考えることができるのは、「楽しい」。「わからない」が「ない」ではなく「ある」と言えるのは、きっとことばにならない何かを「わかる」から。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「故郷」は「ひらがな」と対になっているように感じられる。
とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
ここからはみえない (「ひらがな」)
と、ことばのなかにあらわれた「いつか、どこか」で見たもの(こと)がタマシヒの故郷だと私は思うが、谷川はもうひとつの「故郷」を書く。
タマシヒのこの世での故郷は音楽
耳に聞こえる音が描く見えない地平を越えて
タマシヒは帰ってゆく
どこまで帰るのだろうとヒトは訝(いぶか)る
「ひらがな」と対になっていると感じるのは、
耳に聞こえる音が描く見えない地平を越えて
と、そこに「見えない」があるからかもしれない。「ひらがな」の「ここからはみえない」と「見えない」が重なる。「見えない」のに「ある」ということがわかる。
私は魂が「ある」とは思わない。それを「見た」ことがないからである。そういう人間が「タマシヒ」について書かれた詩の感想を書いているのは奇妙なことだけれど、「見えない」のに「ある」ということが「わかる」ということが、たぶん、谷川の詩と私をつないでいるのだと思う。
「見えない」のに「ある」ということが「わかる」。そして、それを「書く」ことができる。書いたときに「見えない」ものが「ある」ということが、ことばのなかで「事実」になる。
魂は「ない」。「ない」なら、それを考える(想像する)ことはできないのかもしれないが、「ある」と同様に「ない」も想像できる。そして「ない」と書いたときに「ない」がことばのなかで「事実」になる。
「ある」と「ない」がことばのなかで同じように「事実」になる。その「なる」になるようにことばが動く--そこにある「共通の何か」が気になる。
あ、だんだん、ややこしくなる。
中断しよう。詩に戻ろう。
音楽は不思議だ。音は一瞬一瞬消えてゆく。けれど聞いた音が「肉体」のなかに残り、音をつないでゆく。そのとき時間は次々にあらわれる音を追いかけると同時に、過去へも逆戻りしている。矛盾した方向へ広がっている。「いま」が「いま」ではなくなる。「いま」ドの音が聞こえても、その音だけでは音楽ではない。(そういう音楽もあるかもしれないが……。)いくつもの音が聞いた音(過去)のなかへ帰ってゆき、そこから新しい音となって「いま」を突き破って次の音(未来)になる。
そのとき「見えない地平」というのは、どこにある? 過去の方? 未来の方? それとも突き破られた「いま」のどこか? たぶん、「過去/未来/いま」の区別がない。区別がなくなるところに「見えない地平」がある。区別が「ない」と見え「ない」がいっしょになって「ある」に変わる瞬間。
「ない」と「ある」が交錯する。
これは、ほんとうに「どこまで帰る(どこまで広がる)」かわからない。わからないから「訝る」のだけれど、わからないを通り越して、どこかに「ある」らしい。その「地平」は。「とおくにやまなみがそびえているらしい」と同じように……。
音楽。
私は音痴で音楽はほとんど知らないが、谷川が音楽が好きなことはよくわかる。この詩がその例になるかどうかわからないが、音楽というのはそれまで出会ったことのない音が出会って新しい音に変わるよろこびのなかにある。
谷川の詩は、いつでも「変な音」を含んでいる。ここで、どうして、こんな音が出てくる?と言いたくなるようなことばが出てくる。そして、どうしてこんな音(こんなことば)?と思いながら、それを聞き終わった瞬間、あ、これがいい。いま聞いた音がもう一度聞きたいと思う。
二連目。
この世での故郷の先に
あの世での故郷があるのではないか
タマシヒは多分それを知っている
そう思ってヒトはもどかしく
寂しく楽しい
「この世」に対して「あの世」が出てくる。これは、ちょっと変だけれど、まあ、ことばはそんなふうに動くかもしれない。いや、そんなふうに動くと動きやすいから、そう書いているのだなと思う。いわゆる対句。私はこういうことばの動きを「頭で書いている」という具合に批判するのだけれど、批判とは関係なしに、これはこれで「対句」という音楽形式。私がいちゃもんをつけているだけ。
あっと驚くのは、最後の、
寂しく楽しい
だいたい「寂しい」と「楽しい」は同居することばではなく、矛盾することばだ。「寂しく悲しい」か「にぎやかで楽しい」が一般的な言い方。だから、谷川の書いていることは変。
変なのだけれど、それがいい。
こういうところだね。音楽を感じるのは。あまりにもかけ離れた音が出会うのはいままでの「和音常識」からはありえない。知ったかぶりをして書くと、和音のコード進行からいうとありえない。でも、それが書かれた瞬間、それが存在し、その存在に触れた瞬間、「そうだ」と思う。「これこそ聞きたかった音」と思う。同時に、それを「知っている」と思う。
「寂しく楽しい」を知っている。
「寂しく楽しい」というのは矛盾しているから、そして矛盾だという声が自分のなかから(たぶん頭のなかから)聞こえるから、それをことばにすることができなかったけれど、「寂しく楽しい」は「知っている」。いつも感じている。感じながら、ことばにできなかった。
谷川より先にことばにすれば、私の方が詩人になれたのに。
二連目の「この世」「あの世」の対句の動きは、なんだかうるさいのに、そのうるさかったことも忘れて、最後の行で、ああ、いいなあ、と思う。
そして詩を最初から読み返す。「意味」というか、「論理」はわかったようで、わからない。タマシヒと音楽と故郷について書かれているということだけは「わかる」。それが「寂しくて楽しい」に変わるのも「わかる」。
「わからない」ものがある。それは「寂しい」。けれど「わからない」が「ある」と考えることができるのは、「楽しい」。「わからない」が「ない」ではなく「ある」と言えるのは、きっとことばにならない何かを「わかる」から。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。