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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本真維子『裾花』

2014-11-05 11:40:39 | 詩集
杉本真維子『裾花』(思潮社、2014年10月25日発行)

 杉本真維子『裾花』の詩篇には読点「、」が多い。その読点を書き込んでいる間、杉本が何を読んでいるのか、私にはよくわからない。ただ、ことばが次の瞬間に飛躍するので、そこには杉本にしか読むことのできない「何か」があるということはわかる。「何か」が何であるかわからないけれど、そのことばにならない「何か」を読むことで、杉本が先へ進んで行くという呼吸だけはわかる。また、その呼吸が、スムーズな息継ぎというよりは切羽詰まったものであるように感じられる。なぜ切羽詰まっていると感じるかというと、私はそういう「呼吸」をしないからである。そういう「呼吸」をしないから、あ、杉本は何か私の知らないものを見て、一瞬息を止め、吸って、もう一度ことばを動かしていると感じる。
 この「呼吸(読点のリズム)」についていくのは、私にはなかなか苦しいのだが、「青木町書店」で少し私自身の息が楽になった。書き出しが読みやすかった。

(どぶの臭いのする本屋の
奥で、汁のようなものが煮えている
いつも息をとめて彷徨い
「国語辞書はありますか」
と問う声が具材のようにまぜられていった
(たべろ、たべろ
母や父や、あたたかい友人の腕が
給仕する
食べこぼしの染みに怒り
飲み残しのテーブルをなぐり
いまはしんと静かな
文字のない、一冊の本のためにわたしは生きたい)

 状況と「呼吸」があう、「肉体」がその場(状況)のなかに入って行ける、そして同居する--そういう感じになれる。
 どぶの臭いがする本屋。においは不思議なもので、なれてしまうことができる。近くにあるどぶ。その臭いに本屋の人は気がつかない。無意識に除外してしまう。けれど、たまにそこへ行く人には気になる。そういう本屋の奥から、別のにおいがする。「奥で、」の読点「、」はどぶとは違うにおいを感じ、そのにおいをことばにするために肉体が動いている「間」である。そのにおいは「汁」のよう。味噌汁か何かだろう。それは「汁(食べ物)」なのだから基本的には「いいにおい」なのかもしれないが、どぶの臭いを肉体が覚えているので、どうしても「息を止め」る形になってしまう。息をするのは、ことばを発するときだ。「国語辞書はありますか」。杉本は辞書を買いに行ったことがあるのかもしれない。5行目の「具材」は、私には味噌汁の「具」のように思える。そこにも「におい」がある。「汁」のにおいから何かを嗅ぎ取っている「肉体」、その「呼吸」の仕方が感じられる。
 このあとに、読点「、」が増えてくる。
 「たべろ、たべろ」の読点は、どうしてそこにあるのか。ひらがながつづくので、読みやすさのために書かれた読点だと思うが、次の行の読点は、杉本独自の「息継ぎ」のように私には感じられる。

母や父や、あたたかい友人の腕が

 「たべろ、たべろ」と母か父かが子供に言っている。店にきた客なんか気にせずに、おまえはしっかりご飯を食べろ、というような口調が響いてくる。杉本は読点を書いているが、そのリズムはむしろ読点がないのが一般的だと思う。三音節の「たべろ、たべろ」のあとその三音節にあわせて「母や父や」ということばが動き、次に一瞬「空白」がある。「間」がある。「たべろ、たべろ」ということばはあたたかい。「汁」もあたたかい。「あたたかい」家庭がそこにある。手(腕)を動かして給仕している、そのあたたかい手の動きが見える。そこに「あたたかい」ということばがつづくのは、とても自然な感じがするのだが、その「あたたかい」のことばの次に、変なことばが出てくる。「あたたかい」腕(手/家庭)なのに、「友人」ということばが闖入してくる。この闖入の「予感」のようなものが、「父や母や」のあとの読点「、」にある。
 「あたたかい家庭/腕(手)」(日常の光景)の、もう一歩、奥へ入っていく「予感」。
 杉本は、そのとき何を見たのだろう。感じたのだろう。つかんだのだろう。どぶの臭いのする本屋。店の奥には家族が食事をする部屋がある。汁のにおい、具のにおいが店にまで流れてくる。当然、そこで食べている「家族」の動き、腕の動きも感じられる。見えるかもしれない。その「家族(腕/手)」に杉本は、別の「家族(腕/手)」を重ねている。杉本が知っている「友人」の家族かもしれない。友達の家へ行ったとき、友達はたまたま食事中だった。すぐに遊びに行こうとする子供を母か父かが「たべろたべろ」(食べてから遊べ)と叱っている。さらに怒って動く手、テーブルの汚れが見える。そういう光景が一瞬かさなるのかもしれない。あるいは「友人」は書店の子供かもしれない。子供と杉本が友人ということなもしれない。いずれにしろ、あ、この光景は見たことがある--そういう瞬間的な「記憶」の乱入、それによってことばがちょっとゆらぐ。そのときの揺らぎ混乱が読点「、」になっている。その揺らぎ(読点、呼吸)が「母や父や」と「友人」をつなぐ。読点に「あたたかい」という橋をかけて「母や父や」と「友人」を結ぶ。
 そのあとの光景は、書店の家の風景なのか、「友人」の家の風景なのか、わからない。杉本自身の家庭の風景もまじっているかもしれない。いずれにしろ、それはいまではなく、「過去」の光景だ。杉本の「肉体」が覚えている、言いかえると杉本が「呼吸」の動きのなかにある光景だ。
 いまは、そういう雑然とした「あたたかい」家庭は、本屋のさらに「奥に」消えている。「いまはしんと静かだ」。においも、本のにおいしかしないかもしれない。
 いまは存在していない様々なにおい、においといっしょにある光景を、杉本は「文字」がないと言いかえている。
 そして、そういう「光景/においの混合」はないのだけれど、その「ない光景」を「一冊の本」のように感じる。
 --そんな具合に、私はこの詩を「誤読」する。
 「一冊の本のためにわたしは生きたい」は、青木書店の記憶をこういう具合に書き留めることで、その記憶といっしょに「生きたい」という祈りを書いているのかもしれない。「文字のない」のあとの読点「、」は比喩(比喩がつくりだす論理)を飛躍させるための踏み切り台のようにも見える。

 青木町書店は、もしかすると古書店かもしれない。2連目を読むと、そう思う。「国語辞書はありますか」という状況とは違うのだが。辞書を古書店で買う場合は、ふつうの辞書ではないだろうから。……。
 2連目の読点「、」はさらに断絶(飛躍)が多い。

支払いの、硬貨で、喋った
数える店員の手のむこうで
女たちの古い、裸体が破れている
たくさんの阿鼻、まだ、血は巡っているから
本を思い通りに触ることの
激しさにおののく
布ずれのような
吐息のような、それは、だんだん、にんげんの形になって
もっとも朽ちない、歯のつやは、うっすら
背表紙に残した、ここの
本屋はあまりにもにおう

 このときの「本屋のにおい」は何だろう。もう「どぶ」は感じていないだろう。味噌汁も忘れてしまっている。「本」自体が呼吸してきた人のにおいがみちている。女の裸体の写真が見える本には、その本を利用した人(思い通りに触る人の)の「吐息」がしみこんでいるかもしれない。そこに1連目ででてきたあたたかい腕(手)、怒る手という肉体が甦ってくる。「古い」けれど「朽ちない」。「にんげんの形」にことばを補って、私は「にんげんの欲望(本能)の形」と誤読してしまう。
 書かれている読点「、」の呼吸が、知らず知らずに他人の(本を愛した人間の)呼吸に変わり、その呼気と肉体が発するにおいをびっしりと並んだ本に感じている杉本が見える。

 私は「誤読」が趣味だから、そこに書かれていることばを書いた人の「ストーリー」とは無関係に、書いた人の意図したストーリーから解放して、自分の欲望にあわせて読む。そのとき、私は書いた人の「意図(頭)」ではなく、呼吸に自分の呼吸をあわせてみる。こういう呼吸の仕方をするのはどういうときかな? どういうときにこういう呼吸をしてきたかな、と「肉体」の奥をまさぐってみる。
 「鏡の人」は、牛をする人(あるいは、その光景を写真に撮る人)が登場しているように思える。牛をしたときの大量の血--それが流れて、

(裾花川のまわりが
 ながれこむ鮮血で黒かった、
 モノクロの航空写真を、日の射した図書館で
 めくっていく)

 血が黒く写っている。モノクロ写真。しかし、モノクロ写真なら、それが「鮮血」であるかどうかは正確にはわからない。血の色ではない。--というのは、嘘。というか……。鮮血がモノクロ写真では黒く映ることを私たちは知っている。杉本も知っている。だから、黒い色を鮮血と思う。その黒は、そして光を反射している。黒光り。それが日の射した図書館で見ると、反射が増幅して、さらに光る。まるで現場で血が反射する太陽の光を見るように、太陽の光が反射して白と黒だけになって見えるように。
 と、書いているのかどうかわからないが、杉本の書いている読点「、」の乱れがそんなことを感じさせる。

釘、のこぎり、ナイフ、
その人の道具は、隅々までひかって
数千の叫びを招くように
夥しい弾を両手に
盛ってもらう
「何頭分ですか」
ふいに、やわらかな声がたずね、
応えようとするその人の
瞳だけが白く、反射して、入ることができない

 牛の。その処理に、のこぎり、ナイフをつかう人。するために銃(弾)をつかう人。仕事なので、ごく自然に、やわらかな(つまり、悲壮感のない)声で「何頭分ですか」とたずねる人。応えようとして、すぐには応えられない人。
 最後の1行、

瞳だけが白く、反射して、入ることができない

 この読点(呼吸)の乱れ、飛躍がリアルだ。「瞳が白く」とことばが動き、いや違った、それは「光を反射しているために、白く見えるだけだ」と思い、その反射はしかし反射というよりもその人の内部からの発光のようにも感じられる。光の内部をの像こうとしても見えないように、その人が何を感じているのか瞳をのぞいても、そのこころのなかには「入ることができない」と感じる。
 この反射は、夥しく流れた牛の血の色にも似ている。太陽の光を反射して、反射の反動で黒くなっている血。その写真の「白」に似ている。
 される牛と、する人は違うのだけれど、その白い反射(黒い色)の中で不思議に交錯して一体になっている。杉本の呼吸の乱れ(読点の不思議なつかい方)がそれに拍車をかけている。
袖口の動物 (新しい詩人)
杉本 真維子
思潮社

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2014-11-05 00:46:05 | 


目を閉じて私の知らないことを考えている
目をあけて遠くの木を見ている、うっすらと色が変わった葉っぱ。
どうしてそれを見ているとわかるのだろう。
間を置いて、ときどき悲しみが入り込んでくる。

どうして悲しみということばが私のこころに浮かんできたんだろう。






*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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