詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井晴美『破綻論理詩集』

2014-11-10 10:22:11 | 詩集
藤井晴美『破綻論理詩集』(七月堂、2010年12月15日発行)

 藤井晴美は、とても奇妙な文体を持っている。ことばの「出所(でどころ)」が私の感覚と違っていて、あるいはことばを統合する感覚が違っていて、そのために奇妙な文体と感じるのだが……。「ハロペリドール」という作品の書き出し。

 その町は女性の生殖器を示す方言に象徴される。つまりその臭い
を町のいたるところに感じるのだ。

 私は精液をしぼり出していた。母がもうすぐ帰ってくるかもしれ
ない。私は中学生だった。

 「その町は女性の生殖器を示す方言に象徴される。」というのは、古くさい感じのする「文体」である。その町の名前は女性生殖器の方言と同じなのか。「象徴される」だから、女性生殖器をあらわす方言がそのまま町名になっているのではないのだろうけれど、それではなぜここに「女性の生殖器を示す方言」なんてことばがあるのかなあ。「象徴する」って、どういう意味だろう。何か、もってまわった言い方であり、その「もってまわり方」が堂に入っている。落ち着いている。意味ありげである。落ち着きがつくりあげる「意味」のようなものがある。
 それが「つまりその臭いを町のいたるところに感じるのだ。」と言いなおされるのだが、これもまた何かもってまわっている。わざとわかりにくく書いている。その落ち着いたわかりにくさに、あれっ、と思う。町のいたるところに女性生殖器の臭いを感じるのなら、それをわざわざ「方言」に「象徴される」といわなくてもいいだろう。ことばに方言があるように、女性生殖器にも「臭いの方言」があって、その町には、その町独自の女性生殖器のにおいがあるということだろうか。
 よくわからないのだが、このもってままった「文体」が不思議な味になっている。がっしりと鍛えられた「文体」、明治とか大正の作家がつかいそうな「文体」、肉体感覚の出し方が、ことばを何度も繰り返して言いなおしてつかみ取ったような強さを持っている。時間を感じさせる。
 この一種の「古くさい」文体のあとに、「私は精液をしぼり出していた。」という奇妙なことばがやってくる。
 これはオナニーをしていたということだろうが、オナニーをすることを「精液をしぼり出す」とは私は言わないなあ。精液を出すことに変わりはないのだが、もっと快感に密着したことば、躍動的で、うれしいことばをつかうなあ。なんといっても精液は飛び出し、飛んで行くものだからねえ。「しぼり出す」なんて、ないものをむりやり出している感じがして、「中学生」になじまない。
 中学生なんて、国語辞書の「生殖器」ということばにさえ勃起する。そんな少年が「精液をしぼり出す」なんて、吉行淳之介じゃあるまいし、変でしょ? 母親に見られたらいやだなあ、もうすぐ帰ってくるかもしれないと心配しながら「精液をしぼり出す」なんて、とても奇妙。
 でも、その奇妙な言い回しが、それに先立つ「文体」となぜか、とてもあっているような感じがする。そうか、古くさい文体でオナニーを言うと「精液をしぼり出す」になるのか、と納得してしまう。古くさい時代にはオナニーなんてことばはなかっただろう。「自慰」はあったかもしれないが。
 それに、オナニーや自慰では「肉体」の動きがよく見えないが、「精液をしぼり出す」には「肉体」の動きがついてまわる。手の動きはもちろん、精液の動きさえ感じられる。ことばが「肉体」を迂回していく。これが、不思議な「もってまわった」の「まわった」につながる。
 前のふたつの文章も「生殖器」「臭い」とことばが「肉体」をまわっている。「生殖器」は私にとっては第一義的には「視覚」でとらえるものだが、それが「臭い」(嗅覚)を経由する。そのとき「文体」というよりも「肉体」をとおっている感じがする。「肉体」を感じ、そのために「強さ」を同時にことばに感じるのだと思う。頭ででっちあげたことばではなく、「肉体」でつかみとったことば。
 また別な視点をつけくわえると……。
 「精液をしぼり出す」というのは奇妙なんだけれど、やっていることは「わかる」。手とペニスと、さらには睾丸の動きや、ペニスの内部のじれったいような快感、それが体全体を動かしていることまでわかってしまう。これが、さらに変なのである。やっていることがわからなければ、「ことばのつかい方が変(文体が変)」という印象は起きない。えっ、何を書いてある? ちっともわからないぞ、と思うのだが、藤井の書いていることは「わかる」。「わかる」は私の「誤読」であって、藤井は違うことを書いているのかもしれないけれど、私はこれはオナニーのことを書いていると「わかる」。この「わかる」ところへ触れてくることば、実際には手とかペニスとか書いていないのに、そういう「肉体」を私の奥からひっぱり出す。「肉体」がことばの奥からひっぱり出される。というのが、言いようもなく変なのである。
 「私はオナニーをしていた。」だったら、たぶん、何も感じずに読んでしまう。いまどき、わざわざオナニーなんか書いてもおもしろくないなあ、と感じてしまうかもしれない。オナニーと書いていないから、ひきつけられるのである。
 私の言わないことばをつかって、藤井は詩を書いている。そしてそれは「精液をしぼり出していた。」が印象的なので、そこに視線がひっぱられていってしまうが、その前の文章も、古くさいというか、練り上げられたというか、そういう印象があって奇妙に迫ってくる。

 いま、私は「練り上げられた」と書いたが、藤井の文体には、時間をかけて練り上げた強さがある。叩いても壊れない強さがある。それは磨き上げられた家のようなもの。白木の家が何度も何度も雑巾をかけられ黒光りをしている。その黒光りって、ほんとうに美しいのか。それとも汚れが少しずつ付着してできたものなのに、光っているというだけで「美しい」と勘違いしているのではないのか……。
 この奇妙な「美しさ」は、強引な言い方になるだろうけれど「精液をしぼり出す」というような、少し日常語から逸脱したものによって、てらりと光る。「肉体」が汚れているというつもりはないが、何か「肉体」の「体温」のように、こびりついてくる感じがつくり出した「汚れのてかり」だね。やっぱり。

 それにしても、と私は、ちょっと脱線する。あるいは飛躍する。
 藤井のこの文体の不思議さを、違った角度から言いなおしてみたい。
 藤井の文体は、その一文一文はかっちりと完結している。ことばとしてゆるみがない。それが次の文章と結びつくとき、そこに何か「ずれ」のようなものがある。「論理」でつなげようとしていない「ずれ」がある。「事実」だけを並列していく不思議さと言えばいいのだろうか。
 
 その町は女性の生殖器を示す方言に象徴される。つまりその臭い
を町のいたるところに感じるのだ。

 この二つの文章の「(女性生殖器の)方言に象徴される」と「(女性生殖器の)匂いがする」は「女性生殖器」が共通するために「ずれ」がないようにも見えるが、「女性生殖器の」という意識でふたつのことが並列されているとも言える。「方言」と「臭い」。でも、これって、よく考えると変でしょ? 「標準語」(あるいは別の町の方言)とは無関係に「女性生殖器の臭い」はあるはずであって、それが「方言」に吸収・統一されていくわけではないからねえ。

 私は精液をしぼり出していた。母がもうすぐ帰ってくるかもしれ
ない。私は中学生だった。

 この三つの文章も「私は」「私の(書かれていないけれど)」「私は」ということばで統合されているようだが、並列と考えることができる。ただ、そういう「事実」があるだけ。「私」がその三つを統合しているわけではない。「母」は「私の母」であることに間違いはないが、ほかの兄弟の母でもあり、父の妻でもある。三つの「事実」があるだけである。
 藤井の書いているのは「事実」の並列であるということは詩のつづきを読むとさらにくっきりしてくる。

「お前は一体だれなんだい?」
「そんなことしちゃだめだって言ったでしょ!」
「本当に情け無い!」
「おとうさんに聞いてみましょう、過酷な三角形ちゃん」

 これは、だれがだれに言ったことばなんだろう。オナニーを見てしまった母が私に言ったことば? そうとれないこともないけれど、よくわからない。「事実」として、そういうことばが飛び交った。あとは、それをどう読むかは読者に任せている。藤井はただ並列しているのだと思う。並列することで世界を拡大している。
 「夢はとちってつばを吐く」には、何人かの「証言」が並列されて書かれている。「事実」はわからないが、それは「事実」というものが複数の見方の「並列」でできているからかもしれない。
 並列で、それぞれが存在するというだけで、いいのだ。
 「事実」を「真実」にしなくてもいいのだ。
 藤井は、そう考えてことばを動かしているかもしれない。この「真実」放棄(?)は、うーん、手ごわい。
 また、この「事実」を「肉体」と呼び替えてみると、おもしろい。「事実」が並列してあるのではなく「肉体」が並列して存在する。「私」「父」「母」(適当に書いたのだが……)はそこに同じ権利(?)で並列的に存在する。誰かが誰かを支配しているわけではない。関係があるが、その関係とは無関係に「肉体」そのものは「孤立」して、かつ併存している。
 関係を統合するものを「真実」と考えるのではなく、そこにそれぞれの「肉体」が併存できる(併存している)という「こと」が真実なのである。
 「精液を放出した」という表現ならば、そこに既成の「オナニー」の「意味」がことばを統合しているといえる。「精液が飛び出した」でも同じだろう。精液を出すのだけれど、それは「私」を裏切って、勝手に飛び出していくものである。そこには「肉体」の統合する力が働いていない。でも「精液をしぼり出す」の場合は、あくまで「肉体」、手をつかって精液を動かしている。既成のことばの「統合」を拒絶して、そこに「肉体」の動きをぶつける。ことばが統合していたイメージを「肉体」に引き戻す、「肉体」で統合をやりなおすと言えるかもしれない。

破綻論理詩集
藤井晴美
七月堂

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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ピカソ「女の顔」(1923)について

2014-11-10 00:13:56 | 


http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/86/


ピカソ「女の顔」(1923)について

 ピカソ「女の顔」は何の批判なのだろう。西洋絵画は浮世絵のような輪郭線をもたず、色がそのまま面になり、色調の変かが立体へと変わっていくのだが伝統だが、ピカソは黒い線で輪郭をつくろうとしている。
 頬や額を塗り潰してから輪郭を描いたのか、輪郭を描いてから肌と背景を塗り潰したのか。あるところでは色が輪郭をはみ出し、別のところでは輪郭に接していない。隙間に背景の青い色が侵入してきて、部屋の空気の感じを強くしている。乱雑な仕上げだが、筆にスピードがあり、光が豊かになっている。



*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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