詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(21)

2014-11-28 11:07:57 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(21)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「さびしさよ」は見開きのページに印刷されている。1ページにおさまらない行数ではないのだが、2ページに印刷されている。右のページは裏が少し透けて見える紙質。左は透けては見えない。そして、詩を読んでゆき、右ページから左ページにかわるところで、ふっと何かが変わる。それはほんとうにことばが変わったのか、それとも紙質の変化が影響して、何かが変わったと思ったのか--考えると、わからなくなる。印象(感想)は、ほんの少しの「外的」変化でかわってしまうものなのだ。

カーテンと絨毯(じゅうたん)は剥(は)ぎ取られ
椅子も戸棚も持ち去れている
金魚鉢さえ無くなって
がらんとした室内

さびしさよ
お前はどこまで行くつもりなのか
世界の果てなどありはしないのに
暖かいストーブに叛(そむ)いて
友人たちの思いやりから後ずさりして
もうどんな音楽も聞こえない夜に
さびしさよ
お前の地平があると言うのか

世界が永遠のリフレインでまわっている
蛇口から落ちる水滴の句読点
病み衰えた期待
ヘドロに溶ける未来
さびしさよ
いま生きている証しはお前だけ
希望の食べ滓(かす)をせせって
この空間をお前のベールで隠しておくれ

 左右のページの分かれ目は、「もうどんな音楽も聞こえない夜に」の前にある。それまで私は「視覚」の詩を読んでいた。空っぽの室内を見ていた。そして、不思議なことにその「空っぽ」はカーテンや絨毯を想像し、そのあとそれを否定することで浮かび上がる「空っぽ」なのだが。
 「どこまで行く」「世界の果て」も地平線を見ながら歩いている感じがする。歩いているけれど、足が動いているだけではなく、「視覚」が動いている。いや、足は動かずに、遠い地平線を見ている(視覚)だけがあるのかもしれない。たどりつけない地平線を見ている目だけがある。
 そのあと、ストーブ、暖かい(温かい)、思いやりという具合に抽象的になって、「行く」も前へ進むではなく、「後ずさり」という具体的だけれど抽象的な(?)ことばを通って、「音楽」という「聴覚」が出てくる。
 この瞬間に、私は「はっ」と思う。
 「視覚」(見る)というのは具体的な何かを見る。カーテンや絨毯を見る。地平線を見る。「聴覚」というのも具体的なものを「聞く」はずなのだが、この詩には具体的な「音」がない。「音楽」がない。
 「もうどんな音楽も聞こえない」と谷川は書いている。
 でも、そう書いているにもかかわらず、私は「音楽」を聞いてしまう。
 「カーテンや絨毯も剥ぎ取られ」という書き出しにならって、そのときの「音楽」を書くと、「モーツァルトもマイルス・ディビスも剥ぎ取られ」という感じ。自分が好きな「音楽」がぱっと耳の肉に鳴り響き、それが消し去られ、そのあとに「沈黙の音楽」が鳴り響く感じ。
 「ない」が「ある」という感じ。
 こういう「抽象的(哲学的?/形而上学的?)」な「印象」というのは、何か「聴覚」の働きと関係があるのかもしれない。視覚は「消えないもの(存在)」を見る。そこに「ある」ものを見る。聴覚も、そこにある「音」を聞くのだが、音は目に見えるものとは違って、一瞬一瞬、あらわれては消えて行く。「ある」が「ない」になりつづけながら、その「ない」のなかに「消えたものがある」という形でつづいていく。
 「いま」そういうことが起きているのに、その「いま」は「一瞬」でありながら、「過去(聞こえた音、聞いた音)」と「未来(これから聞く音)」を無意識に動いている。「いま」なのに「いま」を突き破って動いている。
 「見る(視覚)」が空間的なのに、「聞く(聴覚)」は時間的である。
 そして、「音楽(聴覚)」が「時間的」であるからこそ、そこに「人生」が重なってくるようにも感じる。

 そうか。

 谷川が、なぜここで「音楽」ということばを書いたのかわからないが、私はなぜか「そうか」と思い、谷川の「肉体(思想)」に触れた気がしたのだ。
 「音楽」は谷川にとって「思想(肉体)」そのもの。だから、「さびしい」を何もない室内という「視覚」の描写で始めながらも、知らず知らずに「視覚」だけでは表現しきれない思いがあふれてきて、「音楽」と書いてしまうのだと思った。
 そして、その「音楽」に触れる前に、「地平線へ行く(進む)」と「暖かさ(ストーブ/思いやり)から後ずさる(後退する)」という矛盾した「動き」を衝突させ、その衝突する力で「異次元」へ飛ぶということをしている。
 「音楽」は、谷川にとっては「異次元」、「特別な次元」なのだ。
 「音楽」は谷川の「肉体」そのものになっているのだ。
 そういうことを、瞬間的に、私は感じ、「そうか……」と呟いてしまう。

 三連目、

世界が永遠のリフレインでまわっている
蛇口から落ちる水滴の句読点

 この二行は、「さびしさ」の瞬間、谷川が聞いている「音楽」の形。「リフレイン」でまわっている。果てしなく繰り返す。そして、そこには「句読点」がある。動きをととのえるリズムがある。はてしなく繰り返すのだけれど、それは切れ目のない連続ではなく、切れ目(句読点)の意識によって、ととのえられた世界。
 あ、美しいなあ。

 でも、そのあとの「病み衰えた期待」から最終行までは、私にはよくわからない。「この空間をお前のベールで隠しておくれ」の「空間」は、私が書いてきた「視覚は空間的である」ということと関係があるのかもしれないが、よくわからない。
 私のことばでたどりなおすことができない。
 何か、不気味なところがある。
 「希望の食べ滓をせせって」という「肉体」の動きが、「さびしさ」を不透明にする。それまでの「さびしさ」は何か透明で切ない感じがするが、(思春期の「さびしさ」を思ってしまうが)、「病み衰えた期待」からあとに出てくる「さびしさ」は、私の知らない何かである。
 谷川の「肉体」が前面に出ていて、その奥にある「さびしさ」がよくわからない。
 だから、というと、奇妙になるが。
 この詩は強い。きっと、いつかまた思い出す。思い出して、あ、あれはこういうことだったのかと、私の「肉体」が納得する。それまでは、「不気味」のまま、この本のなかにある。

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高速バス乗り場

2014-11-28 01:20:39 | 
高速バス乗り場

高速バスを待っているあいだに私たちはだんだん似てくるのがわかった。
「いまカーブを曲がってきたのは空港へ行くバス、
十分待ったが、あと二十分待ってもこない。」
見知らぬそのひとに私は言いたくてしようがなかったが、
私の方をわざと見ないようにしている女もそう考えている。

右手、あの坂の方からバスはくるはずだが、
道路はどんどん出発点のほうへ向かって伸ばされいくので
バスはどうしても前へ進めない。
左手、銀行の角を曲がったところから始まる道路も
どんどん目的地へ伸びていくのでバスは永遠に目的地につけない。

聞いているかい? 聞かなくてもわかる
バス乗り場を地下のターミナルに変えてみれば状況が悪化しているのはわかる。
バスはヘッドライトをつけて何度もぐるぐるまわるだけだ。
止まろうとする瞬間に案内板の行き先が変わり、
またターミナルをまわり直さなければならない。

それは私が考えたことか、あるいは彼女が考えたことか。
高速バスを待っているあいだに私たちはだんだん似てくる。
頭の中で反芻しているのは私の声か、彼女の声か、あるいは別の誰かのあきらめ。
もう深夜の一時になった。ホテルへ帰る路線バスの最終便はない。
窓から見える月は欠けたところがない満月。
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