監督 西田征史 出演 片桐はいり、向井理
この映画の主役は、もちろん片桐はいり、向井理なのだが。
私は、同時に彼らが住んでいる家にみとれてしまった。古い。でも、大事に暮らしている、家を大切につかいこんでいるという風情がある。古くたって、充分つかえる。これで充分、という感じ。つかいこまれた平凡と言ってもいいかなあ。平凡だけがもちうる奇妙な強さがある、とも言える。
映画のストーリーは、なんとも不器用な姉と弟の「恋愛」。いまごろ、こんなに内気を絵に描いたような恋愛、平凡な恋愛があるんだろうかと不思議に思うが、その平凡を支える「家」だなあ、と思う。新しくない。そこには、ただ「つづいてきたもの」があるだけだ。
と、書いて気づくのだが。
「つづける」ということが、この映画のテーマだね。不器用な「恋愛」というよりも。「つづける」は「守る」ということでもある。
片桐はいりは、客の来ない眼鏡店で働いている。その店は商店街のなかでずーっと店をつづけてきた。夫婦で切り盛りしている。どこかで見たことのある平凡な暮らしだ。まわりの商店も同じ。そこには、古くさい商店街の飾りが飾りつづけられている。そうやって、暮らしをつづけているのだ。
向井理の友人に、芝居をつづけている男がいる。家業の理髪店をつがず、俳優になることを夢みて、一人芝居をつづけている。客はほとんどいない。それでも、つづける。二人がいっしょに行く小さな居酒屋。そこも、まあ、つづけているとしかいいようのないこぶりの、平凡な店。新しい客なんかはこない。そういうことも、あてにはしていない。きてくれるひとのためにつづけている。互いが互いを助け合っているのかもしれない。いや、互いが互いを受け入れ合っていると言えばいいのかもしれない。
互いが互いを受け入れる--というのは、ことばでいうのは簡単だが、意外とむずかしいのではないだろうか。助け合う、というのよりもむずかしい。助けたりは、できない。そういうことも考えた。
主役のふたりも、助け合って生きているというよりも、相手を受け入れて生きている。助けたい気持ちはあるが、特に、姉の片桐はいりには弟・向井理の恋愛をなんとか手助けしたいという気持ちはあるのだが、恋愛なんて本人がすることだから他人の助けというの邪魔にしかならない。
家は、そういう意味ではとても不思議だ。家、建物は人間をただ受け入れる。そこで人間が何をしていようが、受け入れる。喧嘩していようが、泣いていようが、笑っていようが、ただ受け入れて、人間をまもっている。そういうことをつづけている。何もしないことで、そこに生きている人間をととのえてしまう力が家にはあるかもしれない。
だから、ある意味では、家に入っていくのはむずかしいとも言える。向井理の恋人は、姉といっしょに暮らす向井理の家にはけっきょく入りきれない。出て行く。家に入ることができずに二人の恋愛は破綻するのだが、このシーンはこの映画を象徴しているかもしれない。その家に入り、その家のなかでととのえられていくことを恋人は拒んだのだ。
恋愛とは、それまでの自分を捨てて、自分ではなくなってもいいという覚悟をすること。いままでの家を捨てて、自分で家をつくることとも言える。そういう見方からすると、この映画の主人公たちは、永遠に恋愛を成就できない。恋愛の不可能は、二人の宿命(運命)のようなものだ。そして、観客というのは、そういう不可能と向き合う人間の滑稽さを見るのが好きだ。笑いながら、自分の抱え込んでいる「不可能」にそっと触れているのかもしれない。そして、その記憶をかかえて、家へ帰るんだろうなあ。
(2014年11月05日、t-joy 博多7)
この映画の主役は、もちろん片桐はいり、向井理なのだが。
私は、同時に彼らが住んでいる家にみとれてしまった。古い。でも、大事に暮らしている、家を大切につかいこんでいるという風情がある。古くたって、充分つかえる。これで充分、という感じ。つかいこまれた平凡と言ってもいいかなあ。平凡だけがもちうる奇妙な強さがある、とも言える。
映画のストーリーは、なんとも不器用な姉と弟の「恋愛」。いまごろ、こんなに内気を絵に描いたような恋愛、平凡な恋愛があるんだろうかと不思議に思うが、その平凡を支える「家」だなあ、と思う。新しくない。そこには、ただ「つづいてきたもの」があるだけだ。
と、書いて気づくのだが。
「つづける」ということが、この映画のテーマだね。不器用な「恋愛」というよりも。「つづける」は「守る」ということでもある。
片桐はいりは、客の来ない眼鏡店で働いている。その店は商店街のなかでずーっと店をつづけてきた。夫婦で切り盛りしている。どこかで見たことのある平凡な暮らしだ。まわりの商店も同じ。そこには、古くさい商店街の飾りが飾りつづけられている。そうやって、暮らしをつづけているのだ。
向井理の友人に、芝居をつづけている男がいる。家業の理髪店をつがず、俳優になることを夢みて、一人芝居をつづけている。客はほとんどいない。それでも、つづける。二人がいっしょに行く小さな居酒屋。そこも、まあ、つづけているとしかいいようのないこぶりの、平凡な店。新しい客なんかはこない。そういうことも、あてにはしていない。きてくれるひとのためにつづけている。互いが互いを助け合っているのかもしれない。いや、互いが互いを受け入れ合っていると言えばいいのかもしれない。
互いが互いを受け入れる--というのは、ことばでいうのは簡単だが、意外とむずかしいのではないだろうか。助け合う、というのよりもむずかしい。助けたりは、できない。そういうことも考えた。
主役のふたりも、助け合って生きているというよりも、相手を受け入れて生きている。助けたい気持ちはあるが、特に、姉の片桐はいりには弟・向井理の恋愛をなんとか手助けしたいという気持ちはあるのだが、恋愛なんて本人がすることだから他人の助けというの邪魔にしかならない。
家は、そういう意味ではとても不思議だ。家、建物は人間をただ受け入れる。そこで人間が何をしていようが、受け入れる。喧嘩していようが、泣いていようが、笑っていようが、ただ受け入れて、人間をまもっている。そういうことをつづけている。何もしないことで、そこに生きている人間をととのえてしまう力が家にはあるかもしれない。
だから、ある意味では、家に入っていくのはむずかしいとも言える。向井理の恋人は、姉といっしょに暮らす向井理の家にはけっきょく入りきれない。出て行く。家に入ることができずに二人の恋愛は破綻するのだが、このシーンはこの映画を象徴しているかもしれない。その家に入り、その家のなかでととのえられていくことを恋人は拒んだのだ。
恋愛とは、それまでの自分を捨てて、自分ではなくなってもいいという覚悟をすること。いままでの家を捨てて、自分で家をつくることとも言える。そういう見方からすると、この映画の主人公たちは、永遠に恋愛を成就できない。恋愛の不可能は、二人の宿命(運命)のようなものだ。そして、観客というのは、そういう不可能と向き合う人間の滑稽さを見るのが好きだ。笑いながら、自分の抱え込んでいる「不可能」にそっと触れているのかもしれない。そして、その記憶をかかえて、家へ帰るんだろうなあ。
(2014年11月05日、t-joy 博多7)
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