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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(10)

2014-11-17 11:23:14 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(10)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「アンリと貨物列車」はこの詩集の中では変わった詩である。「タマシヒ」ではなく「魂」という漢字で書かれている。谷川は、表記をつかいわけているのだろうか。表記を書き換えることで「意味」を変えているのか。

アンリの家は丘の上にある
ふもとを長い貨物列車が走っている
貨物列車には牛が乗っている
私は丘の上の家に憧れているが
アンリは好きじゃない
アンリの魂が精神とか心理とか
理性とか知性とかの殻をかぶっているから
それが事実かどうかは分からない
ただ私がそう感じるだけだ
つきあいが浅いせいかもしれない
アンリに悪気がある訳ではない

貨物列車に魂があるとは誰も思わないだろうが
私は時々アンリには感じない魂というものを
貨物列車に感じることがある

 私は「魂」というものを感じたことがない。「魂」が「ある」考えたことがない。自分自身から「魂」ということばで何かを語ったことはない。この詩集に対する感想も、谷川が「タマシヒ」(魂)ということばをつかっているので、「タマシヒ」(魂)ということばをつかわないことには何も書けないのでそうしているだけで、「魂」の存在を信じているからではない。直径一ミリの円に内接する「九千九百九十九角形」のようなもので、ことばではあらわすことができるが、それがほんとうに「九千九百九十九角形」として存在できるのかどうかわからない。現実に存在するのかどうかはわからない。考えることができる以上、存在するという言い方はあるとは思うけれど……。
 脱線した。
 「魂」というものを感じないけれど、なぜか、私は最後の三行がとても好きだ。
 この三行を読みながら、私はキューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を思い出した。反乱を起こしたコンピュータ「ハル」がメモリーを一個ずつ抜かれて動けなくなっていくシーン。ハルは最初に覚えた「デイジー」の歌を必死になって歌う。だんだんメモリーが減ってきて、歌のスピードが落ちる。音が低くなる。私は、そのときハルに同情してしまう。ハル、がんばれ、負けるな、という感じで、何度見ても応援してしまう。
 このとき私はハルに「魂」を感じているのわけではないが、「人間」を感じている。「人間」の肉体を感じている。だんだん記憶が薄れて(認知症になって)、ことばがもつれる人。言いたいことが言えなくて、ことばが乱れ、自分自身に怒っている人。そういう人に触れた記憶が甦ってきて、ハルがコンピュータであることを忘れ、「肉体」を感じるのである。
 「共感」する、と言いかえることができるかもしれない。
 「人間」ではなく、「もの」に共感するというのは変だろうか。
 しかし、それがコンピュータであれ、何であれ(たとえば、この詩の「貨車」であれ)、それについて読んでいるとき(書いているとき)は、その対象の「何か」に対して「共感」している。自分とは無関係な「もの」ではなく、自分の「肉体」につながるものとして見ている。批判しているときでさえ、「肉体」のつながりを感じて批判している。その「肉体」がつながっている感じを「共感」と呼ぶなら、私は、あらゆるものと「共感」してしまう。
 私は、ただし、その「共感」を「魂」の「つながり」とは言わない。あくまで「肉体」の「つながり」。
 そこが谷川の書いていることとは違うのだけれど、私は最後の三行を読み、勝手に、私と谷川は「同類」と思ってしまう。「もの」を「人間」以上に好きになってしまう人なのだと思い、うれしくなる。--これは私の勝手な思い込みであって、谷川は「私は人間よりものが好きとは感じたことはない」と言うかもしれないけれどね。

 私と私以外をつなぐもの。それを谷川は「魂」と呼んでいるのかもしれない。私は、それを「肉体」と呼ぶ。谷川は、あらゆる存在は「魂」でつながっている、と言うかもしれない。私は、あらゆる存在は「肉体」でつながっている。あらゆる存在が「私の肉体」と感じてしまう。
 こうやって谷川の詩の感想を書いているときは、谷川の詩を「私の肉体」と感じている。あ、これは私が気がついていなかった私の肉体のどこかにあると感じたり、あ、ここのところ、こんなふうに動かしたら「肉体」がねじまがってしまって、つらい。ここは、こんなふうに動きたくない、と感じてしまう。
 で、最後の三行だけれど……。
 牛を乗せて(牛といっしょに)、どこか遠くまで延々と走りつづけるというのは楽しいかもしれないなあ、と思ったりするのである。それがたとえ場であっても、大事に育ててきた牛を最後まで届けるというのは、悲しいけれど、人間としてしなければいけないことだからね。貨物列車と牛は、何も言わないけれど、いっしょに動いていって、その動いている間中、「肉体」で対話しつづけている。ことばにならないことばを、互いに「悟りあう」。そんな感じ。
 「わかる」というのは、「分かる」と書く。それはたぶん「未分節」のものが「分節」され、世界が動きやすくなるということなんだと思う。「悟る」は、それとは違って、何かことばにできないまま、「それ」を受け入れる感じ。納得、という感じかなあ。
 谷川は、それを「感じる」と書いているけれど。
 私のことばで言いなおすと、「感じる」寸前の、「あっ」と思う瞬間が「悟る」。

 かなりめんどうくさいことを書いてしまっているかもしれない。このままでは、ことばがだんだん動けなくなる。
 このことは、ここまでにして、詩の前半に戻る。

 詩の前半には「魂」と「精神」「心理」「理性」「知性」ということばが対比されている。谷川は「精神」「心理」「理性」「知性」を「殻」と呼んでいる。「魂」の外側を覆っている「殻」。「かぶっている」という動詞が、そういう状態をあらわしている。
 「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「奥」にある。隠されている。
 そのあと、谷川は「つきあいが浅いせい」で、「魂」には触れることができず「殻」にだけ触れているように感じるのかもしれないと補足している。その「浅い」ということばを手がかりにすれば、「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「深いところ」にあるともいえるかもしれない。
 「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「深いところ」(奥)にあって、そういうものには、ひとはなかなか触れられない。「つきあい」が深くならないと(親密にならないと)、触れあえない。「魂」の触れ合いは、「深いつきあい(親密なつきあい)」を通して実現する。「親密なつきあい」というのは「殻」を打ち破って「内部」をさらけだしたつきあいのことでもある。(でも、瞬間的に「深い」ものに触れるということはあるだろうから、この「深い(親密)」は「長い」とは無関係である。「長い」つきあいが「深い」つきあいとはかぎらない。)
 「深い」ところにあるものは「動かない」ように感じられる。「奥」にあるものも、それが表面的には見えないのでやはり「動かない」ように感じられる。「魂」はそういう「動かない」ように見える何かと関係している--と書けば、この詩集について書いた最初の感想に戻ってしまうが、私は、そこへ戻りたいのかもしれない。
 でも、簡単には戻れない。
 それは「魂」(動かないもの)が「貨物列車」という「動くもの」といっしょに書かれているからである。「魂」はものごとの「深いところ(奥)」にあって、動かない。動かないことで、もろもろの動きを支えるものと言えるならいいのかもしれないが、それでは「貨物列車」が「比喩」(象徴)にならない。
 と、書きながら、私は、いま書いたことは、どこかが違っているぞ、とも感じる。
 「貨物列車」は動く。でも「貨物列車」にも「動かない」部分がある。それは「何かを運ぶ」ということ。「運ぶ」という動詞、「運ぶ」という働きは、変わらない。つまり「動かない」。
 「動かない」とは「変わらない(普遍)」でもある。「変わらない(普遍)」が「魂」か。
 「精神」「心理」「理性」「知性」は動き回る。そして変わっていく。ひとは、そういう動き、変化には敏感に反応してしまう。その変化にまどわされて、深いところにある「動かない魂」が見えない。だから「私」は「アンリ」が好きじゃない……。
 うーん、こんな「説明」は、しかしおもしろくないね。

 この詩を読みながら、もうひとつ感じたことがある。「動く/動かない」に関係している。「動く」ものとして「貨物列車」がある。「貨物列車」は「走っている」。その「動く」「貨物列車」に、詩の主人公(話者)は「魂」を感じている。
 その「貨物列車」を思い浮かべるとき、私には、「貨物列車の魂」とは別に「動かないもの」が見える。
 「丘」と「アンリの家」。
 このふたつにも「魂」はあるんじゃないだろうか。
 「私は丘の上の家に憧れている」と書くとき、「私」は「丘」と「家」の「魂」に触れているのではないだろうか。その「動かない魂」が「貨物列車の深いところにある動かない魂」と「共感」しあって、「風景(世界)」をつくっているようにも感じる。

おやすみ神たち
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ナナロク社

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須永紀子『森の明るみ』

2014-11-17 01:03:12 | 詩集
須永紀子『森の明るみ』(思潮社、2014年10月31日発行)

 須永紀子『森の明るみ』の「森」は魅力的だ。

どこから入っても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠されて
踏み迷う
空を裂く
鳥の声は小さな悲鳴
枝をかきわけて
つくる小径
落下した星と虫
死骸の層に靴は沈み
凶音の泥が付着する
実を見ればかじり
青くしびれる舌

 「青くしびれる舌」が美しくて、私は何度も読み返してしまった。森の深く、生きながら死んでいった星と虫。それは死にながら生きているのかもしれない。そういうものを踏みしめ、それを靴の底に感じる。その感じと、実をかじったときの舌のしびれが通い合う。実は食べられながら死ぬのか。あるいは実は食べられることで死ぬが、その死ぬは生きると言いかえることができる「毒」のようなものか。舌が、不吉なよろこびにしびれている。「青い」という形容詞が、私にはとても美しく感じられる。
 山は私にとって、子ども時代の遊び場なので、この「しびれ」のようなもの、生と死の混じりあった苦さ(甘さ)の誘惑が「肉体」のどこかに残っていて、それが甦ってくる感じがした。
 ああ、とてもいい詩だなあ。
 でも、この8-9ページ見開きの最後にある「角。」は何? 印刷ミス?
 ちょっと気にかけながら、無視して読んでいたのだが……。
 あっ、声を出してしまった。

角。
壁。
目印。
町にあって
ここにないもの。
それなしではつかめない
方向もやりかたも

 詩はつづいていたのだった。10ページ目をめくって、初めて気がついた。そして、その「角。」からつづく詩が、私にはどうもおもしろくない。「角。」は2連目。
 3連目(最終連)は、

愚かさに見合った
わたしの小さな森で
行き暮れる 
出口は地上ではなく他にある
そこまではわかったが
急激に落下する闇に
閉ざされてしまう

 あれっ、森へは迷うために(迷うことで何かを発見するために)入っていったのではなかったのか。迷いながら「肉体」が覚えているものを甦らせる、そうやって生まれ変わるために入っていったのではなかったのか。
 --まあ、それは私のかってな「願望」であったということなのだが。
 「出口は地上ではなく他にある」というのは、もってまわったような言い方で、わざとらしい。「出口」を探すくらいなら「いきなり深い」森になど入らなければいいのに、と私は思ってしまう。「出口」から出られず「閉ざされてしまう」というのは、どうも気に食わない。
 そんなことを思いながら詩集を読んでいくと、

わたしは再会の物語を書いていた
久しく会わない弟が鳥の姿になって現れ
離れて暮らした日々を語る                    (「夜の塔」)

あるものは弾け
芽を出すものもあり
それぞれのくぼみで
物語が始まる                          (「くぼみ」)

洞穴や廃家で明かす夜
破りとられたページは
一冊の本より雄弁に
物語のかたちをとって
世界の終わりを伝えた                       (「前夜」)

 「物語」が何度も出てくる。そうか、須永は「物語」を書いていたのか。瞬間的な時間、その時間の厚みではなく、物語が抱え込む「長さのある時間」を書きたいのか。
 「森」も森へ入っていって、迷って、出られなくなるという「時間の経過」を書いていたのか。一行一行は、たぶん、分割された「均等な時間」なのだ。一行のことばがあらわしうている世界、その世界を「時間」に換算したものが、そこに書かれているのかもしれない。
 須永の書いているものが「物語」だと思って読めば、「アザゼル」は「神話」として魅力的かもしれない。
 でも、私は「物語」にはあまり関心がない。小説を読むときでさえ「物語」がときどきめんどうくさいなあと感じてしまう。ある瞬間、それがたしかにあるな、と分かるときの昂奮が好き。「物語」になってしまうと、そこには私とは無関係な「時間の経過」があるような感じで、「共感」が薄れてしまう。
 もっとも、これは私の「個人的な感想」なので、ほかの読み方をすれば、須永の詩は楽しいのかもしれない。「物語」に何か私の気づかないものが書かれているのかもしれない。
 「物語」を完全に無視して私の感想を書くと、「丘陵」の次の2行、

影が左右に揺れ
聞いているとわかる

 これはいいなあ。ここに書かれている「わかる」は「わかる」というよりも「悟る」が近いかもしれない。私の勝手な「感覚の意見」だけれど。ことばで説明できる何かではなく、ことばをつかわずにつかみ取った「真実」という感じがする。
 「青くしびれる舌」の「青く」もそういう「真実」だ。
 「物語」を否定する。否定することで、「時間」の奥、「肉体」の奥を外へひっぱり出すような、不思議なエネルギーがそこにある。

森の明るみ
須永 紀子
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冬のしるし

2014-11-17 00:08:00 | 
冬のしるし

日曜の朝、海まで歩いて行って冬のしるしを見つけたい。
西公園の坂を上って下りて最後の曲がり道を曲がると
せりだした木々の枝のアーチの下から海へつづく道になる。
いま、バスが交差点をすぎていく--そのバスが消えたら
黒い松林の上に海の冬の色が広がる。
寂しさをもう一度寂しさで叩いたような色。



*

新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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