谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(13)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
自転車に乗っている少年や、空中の凧(?)の写真があって、青と白の横縞のシャツを着た少年が傘の上でペットボトルの写真を回している(?)。その裏は青と白の横縞。これはシャツを写したのではなく、シャツを印刷で再現したものだろうなあ。
その左隣のページに「ひらがな」という詩。裏が透けて見える。バケツのようなものが見える。--私はいつでもこんな風に余分なことを考えながら詩を読む。余分なものが詩のなかで洗い流されるのか、あるいは詩の感想のなかに紛れ込んでくるのかわからないが……。
同じことばが繰り返され、いつか、だれか、どこか、というぼんやりしたことばが「きて(来る)」「ゆく(行く)」という動詞のなかで「消える」。明確にではなく、ぼんやりと、しかし、はっきりと。ちょうど、その詩の裏側にあるのがバケツの写真だとはっきりとわかる感じ。不安の手応え(?)のような感じが、孤独を誘う。
孤独というのは、何かが(いつか、だれか、どこか)が「ある」ということはわかるけれど、自分とうまくつながっていない、親密な状態にないときに感じるものだと思う。写真のバケツが裏から透けて見えるように、何か不思議な「距離感」が孤独のまわりにあるように思う。
これは、抽象的な感覚だ。
これを、谷川は二連目で言いかえる。(言いかえているのかな、と思う。)
孤独な人間は何か「ここ」から切り離されて、ぼんやりと「どこか」を思う。
「くもりぞら」はぼんやりしている。青空に比べて、のことだけれど。「らしい」も、そのぼんやりと重なる。「あいまい」。断定ではないからね。そういうことばが、私には「孤独」につながるように思える。
おもしろいのは、そのあと、「ここからはみえない」。
見えないのに、私たちはことばを動かして、それがあると言うことができる。ほんとうは「とおくにうみがある」のかもしれない。あるいは「とおくに街がある」のかもしれない。でも、谷川は「やまなみがそびえている」らしいと書く。書いたときに、「やまなみ」が生まれてくる。
そうであるなら。
「とりがいちわくもりぞらをとんでゆく」もことばにすることで、そこにあらわれてきた世界かもしれない。ことばにしなかったら、それはあらわれてこない。くもりぞらも、とりも、そこには存在しない。そして、それをことばにすることで、それとつながる「孤独(な人間)」も存在しない。
ことばが、人間を何かとつないでいく。ことばが世界をつくっていく。
「いつか」「どこか」「だれか」もことばといっしょにあらわれて、やってきて、消えて行く。
それも「ここからはみえない」世界。
最終行は、どういうことだろう。タマシヒはカタカナで書かれている。タマシヒはひらがなではなく、ひらがなに宿るものだから、ひらがなにしてしまうと区別がなくなるからかな?
でも、ひらがなと対比されているのはきっと漢字だろうなあ。
タマシイを考えるとき漢字は似合わない。ひらがながいい。ひらがなは、音。漢字は表意文字、つまり意味。意味を厳密に考えると、タマシヒは押し出される。あるいは遠ざけられる。意味は「頭」で考えるものだからかな?
「いつか」「どこか」「だれか」がわからないまま、ぼんやりと揺れ動く。やってきて、消えていくものと、出会い、別れる。世界が姿をあらわし、また消えていく。そのときやってきたのは「いつか」「だれか」「どこか」だろうか、それとも「タマシヒ」があらわれて、タマシヒが「いま/わたし/ここ」を世界に変えたのか。
あ、こんなふうにして「意味」を探してはいけないのだろう。
これは、いつか、どこかで私が見たこと。それはまた、いつか、だれかが、どこかで見たこと。その誰かを私は知っているわけではないが、きっと誰もがいつか、どこかで見ている。思っている。
誰かが「誰も」になる世界。
その鳥の名前は決めない、その山並の名前は決めない。「とり」「やま」という何でもないものを通って「誰も」が「誰か」になる。
あ、とりも、やまなみも、「ここからはみえない」。でも、それが「ある」ことは「わかる」。そして、そう「わかる」とき、「誰も」が「誰か」ではなく「私」になる。きっと「タマシヒ」になる。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
自転車に乗っている少年や、空中の凧(?)の写真があって、青と白の横縞のシャツを着た少年が傘の上でペットボトルの写真を回している(?)。その裏は青と白の横縞。これはシャツを写したのではなく、シャツを印刷で再現したものだろうなあ。
その左隣のページに「ひらがな」という詩。裏が透けて見える。バケツのようなものが見える。--私はいつでもこんな風に余分なことを考えながら詩を読む。余分なものが詩のなかで洗い流されるのか、あるいは詩の感想のなかに紛れ込んでくるのかわからないが……。
いつかだれかがどこかからきて
いつかだれかがどこかへきえてゆく
いつかがいつかどこかがどこか
だれかがだれかだれにもきめられない
同じことばが繰り返され、いつか、だれか、どこか、というぼんやりしたことばが「きて(来る)」「ゆく(行く)」という動詞のなかで「消える」。明確にではなく、ぼんやりと、しかし、はっきりと。ちょうど、その詩の裏側にあるのがバケツの写真だとはっきりとわかる感じ。不安の手応え(?)のような感じが、孤独を誘う。
孤独というのは、何かが(いつか、だれか、どこか)が「ある」ということはわかるけれど、自分とうまくつながっていない、親密な状態にないときに感じるものだと思う。写真のバケツが裏から透けて見えるように、何か不思議な「距離感」が孤独のまわりにあるように思う。
これは、抽象的な感覚だ。
これを、谷川は二連目で言いかえる。(言いかえているのかな、と思う。)
とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
ここからはみえない
こんなふうにタマシヒはひらがなにやどっています
孤独な人間は何か「ここ」から切り離されて、ぼんやりと「どこか」を思う。
「くもりぞら」はぼんやりしている。青空に比べて、のことだけれど。「らしい」も、そのぼんやりと重なる。「あいまい」。断定ではないからね。そういうことばが、私には「孤独」につながるように思える。
おもしろいのは、そのあと、「ここからはみえない」。
見えないのに、私たちはことばを動かして、それがあると言うことができる。ほんとうは「とおくにうみがある」のかもしれない。あるいは「とおくに街がある」のかもしれない。でも、谷川は「やまなみがそびえている」らしいと書く。書いたときに、「やまなみ」が生まれてくる。
そうであるなら。
「とりがいちわくもりぞらをとんでゆく」もことばにすることで、そこにあらわれてきた世界かもしれない。ことばにしなかったら、それはあらわれてこない。くもりぞらも、とりも、そこには存在しない。そして、それをことばにすることで、それとつながる「孤独(な人間)」も存在しない。
ことばが、人間を何かとつないでいく。ことばが世界をつくっていく。
「いつか」「どこか」「だれか」もことばといっしょにあらわれて、やってきて、消えて行く。
それも「ここからはみえない」世界。
最終行は、どういうことだろう。タマシヒはカタカナで書かれている。タマシヒはひらがなではなく、ひらがなに宿るものだから、ひらがなにしてしまうと区別がなくなるからかな?
でも、ひらがなと対比されているのはきっと漢字だろうなあ。
タマシイを考えるとき漢字は似合わない。ひらがながいい。ひらがなは、音。漢字は表意文字、つまり意味。意味を厳密に考えると、タマシヒは押し出される。あるいは遠ざけられる。意味は「頭」で考えるものだからかな?
「いつか」「どこか」「だれか」がわからないまま、ぼんやりと揺れ動く。やってきて、消えていくものと、出会い、別れる。世界が姿をあらわし、また消えていく。そのときやってきたのは「いつか」「だれか」「どこか」だろうか、それとも「タマシヒ」があらわれて、タマシヒが「いま/わたし/ここ」を世界に変えたのか。
あ、こんなふうにして「意味」を探してはいけないのだろう。
とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
これは、いつか、どこかで私が見たこと。それはまた、いつか、だれかが、どこかで見たこと。その誰かを私は知っているわけではないが、きっと誰もがいつか、どこかで見ている。思っている。
誰かが「誰も」になる世界。
その鳥の名前は決めない、その山並の名前は決めない。「とり」「やま」という何でもないものを通って「誰も」が「誰か」になる。
とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
ここからはみえない
あ、とりも、やまなみも、「ここからはみえない」。でも、それが「ある」ことは「わかる」。そして、そう「わかる」とき、「誰も」が「誰か」ではなく「私」になる。きっと「タマシヒ」になる。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。