詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ『ブルーサンダー』

2014-11-01 10:32:33 | 詩集
暁方ミセイ『ブルーサンダー』(思潮社、2014年10月25日発行)

 私は宮沢賢治の愛読者ではないから表面的な印象なのだが、暁方ミセイ『ブルーサンダー』を読むと宮沢賢治を思い出してしまう。
 「クラッシュド・アイス陽気」の2連目。

こんなに滅多な光の渦なのだから
こちらは分離作用の澱のほうで
よく澄んだ藍色のこの上空に
さらに清澄な上澄みの液があるだろう

 「こんなに」という副詞のつかい方、「こちらは……のほう」という言い回し。「この上空」の「この」という指示詞のつかい方。指示詞をつかうことで対象を引き寄せる感覚。そのリズム。さらに「分離作用」という硬いことばと「清澄」を初めとする透明感のあることばの出会い。その奥に「澱」という不透明なことば。硬質で非流動的なことばが、輪郭をしっかりたもったまま動いていく。透明な光に満ちている。

岩場の青色に、濃いアサガオが自生していた。
光ががしゃがしゃと乱雑な、音を立てながら、)

 という部分の「青色」という色彩、さらに「がしゃがしゃ」という音と「乱雑」ということば(音)と衝突具合も、なんとなく賢治を思い出させる。

硬質な空や大気が
割れて、割れて、
ワールド・ビジョンに新しい
報告をもたらしてくれる。

 この最後の部分は、ことばの運びというよりも「意味/内容」が賢治を連想させる。硬質なものが割れて、そこから新しい世界が噴出する。鉱石を割って、その中心から結晶を取り出す感じ--そういうものをめざすことばの運動(思想)のあり方が賢治を連想させる。
 「薄明とケープ」の

むこうで怒りを食んでいた牛が、腹をすかすかに透き通らせて、区界の枯れ野を駆けていった。

 の「牛が、腹をすかすかに透き通らせて」というのは、牛という生き物さえも鉱物のように把握していて、あ、すごいなあ、と思う。賢治を連想させるけれど、賢治を超えている(かもしれない)。私は賢治をそんなに読んだことがないので、印象なのだけれど。
 で、こんな具合に、誰かを連想させることばというのは、私は嫌いではない。むしろ、好きである。賢治をとおして、暁方自身のことばを鍛えている。迷ったときは賢治にもどって考え直す--そういう「正直」にふれる感じがするから。そして、その正直が、いま引用した「牛が、腹をすかすかに透き通らせて」というような斬新なことばとなって動く。こういうことば(誰かを連想させるけれど、その誰かを突き破ってオリジナルに達したという感じのことば)は、誰かのことばを心底愛したあとでないと出て来ないと思う。

夜がひらく。
それは目で轟音をきく。耳には届かないで、空が裂けていく。
橙と濃い青が互いに捕食しあい、             (「ヒヤシンスの夜」)

体温に近い夜が淀んで、
ゆっくり掻き混ざっている。
オレンジ色の花がたくさん落ちている橋の上を行き、
信号のように発されるにおいは、
ふいに核心にとどく。                   (「瀬音と君の町」)

 「目で轟音をきく」の視覚と聴覚の融合、「信号のように発されるにおい」の視覚(信号)と嗅覚の融合、あるいは感覚器官の越境といえばいいのか。この融合/越境が、硬質なことば、透明な色のことばの化学反応(?)によって起きている。

 断片ばかり引用していては、なんだか申し訳ないので……。
 「長野幻視」を全行引用する

冷たい太陽がいっそう弱く暗くなって、
やわやわと煙る影が流れるのをみていた。
山の上で稀薄な気象の発生が絶えず続けられ、
雪原は黄色く陰ったり、
また薄い呼気のように陽光が洩らされたりした。
雪はいちめん、
青く凍って、
溶けない樹氷がいっこの種族のように立っていた。
林。その枝々には赤や青のオーナメントがかかっている。
それらは微弱な陽をうけて、きらきらと忙しなく光り、
かつての冬の思い出のように光り、
瞑想を続けて歩く僧侶が
みずいろの影のなかに
いましがた
ずっしりずっしり重なり消えていくところです

 前半の風景描写、「雪原は黄色く陰ったり、/また薄い呼気のように陽光が洩らされたりした。」という2行が、とても美しい。「黄色く陰」るということばのなかに明るさと暗さ(影)の透明な衝突があり、「陽光(視覚、だろうなあ……)」が「呼気」のように「洩らされる」とき「感覚器官」ではない「肉体(呼吸器官、肺や喉、あるいは鼻腔もあるかも)」のなかへ動いていく。「すかすかに透き通」る「牛の腹」ではないが、「肉体(全身)」が透明になって、世界と一体になる感じがいいなあ。
 自分自身の「肉体」が広々とした雪原になる。そのとき、その向うでは樹氷が人間(種族)になる--人間と自然のいれかわり、区別のない融合。
 そこから「瞑想を続けて歩く僧侶」が、暁方の「精神」の象徴として動きはじめるのだが、「精神」そのものを強く主張するのではなく、「きらきらと忙しなく光り」(忙しなく、が賢治っぽいリズム)、「みずいろの影」という視覚の運動としてあるところが、気持ちがいい。「いましがた……ところです」という賢治っぽい言い回しが、なんといえばいいのか、帰るところがある安心感となっているのもいいなあ。

 他方、これは賢治にはないのではないか、と思い、引きつけられたのが「二〇一号室とラストダンス」。長いので1連目だけを引用する。(原文1字下げ)

数ヶ月ぶりに見つけた玉葱は
ラックの中で薄緑色のゴムベラに似た芽を、
真上へうねりあげていた。
この部屋を出たら
寒冷な空気に当てられて
すぐだめになってしまうのに
冬にだって命は伸びる
悪臭を抑えるため、セロファンの袋へ封入した後、
最後の数日を
隠されていたラックの上で過ごし
玉葱は、
濃い緑に変じた芽を
まだ自分には一握の未来があり、
そこへ捻じ込もうというように
出口へと伸ばし続けた。

 鉱物ではなく「植物」のなかにある「いのち」。暁方はまだそれをたたき割ってはいない。いや、それはたたき割れない。鉱物のようにたたき割ることのできないもの、たたき割ることで結晶を取り出すことのできないものと向き合っている。
 ここに出てくる鉱物っぽいものは「ゴムベラ」「セロファン」である。どちらも、感触がやわらかい。ゴムベラは不透明、セロファンは透明といえるかもしれないが、この詩のセロファンは透明な感じが弱い。
 ここから暁方はどこへ進むのか、どんな新しい世界を展開するのか、見つづけたいという気持ちを刺戟される。

ブルーサンダー
暁方ミセイ
思潮社

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車のライトが

2014-11-01 00:45:45 | 
車のライトが

薄暮の街で車のライトがひっきりなしに衝突する、
だれがどこへ走っていくか気にしない。
一本の車線を守り抜くより次々に変えた方がスピードが出る。
知っていることは、それだけだ。

ときどき前の車のバックミラーから跳ね返ってくる輝きがある。
死んでしまったライトの破片だ。
正面衝突した光は反動でビルの壁にぶつかり、信号の柱にぶつかる。
衝撃音は、周波数が違いすぎて聞いたものはいないが、
どんなまぼろしよりも網膜に焼きつく。

ここだ、昔、
信号を無視してカーブしたライトが空を飛び、
横転しながら灯台の光のように一回りした。
そのとき反対側のビルの三階では
宝石を盗んでいた男の影が壁まではねとばされた。
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