詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田大八監督「紙の月」(★★★)

2014-11-23 21:35:09 | 映画
監督 吉田大八 出演 宮沢りえ、池松壮亮、大島優子、小林聡美

 映画だけのことではないのだが、作者(作り手)の「声」を聞くと、途端に作品がつまらなくなるときがある。吉田大八監督は「桐島、部活やめるってよ」がとてもおもしろかった。宮沢りえも舞台を見てから突然大好きになってしまった。それで、見にいったのだが……。
 映画のあと、吉田大八監督と池松壮亮の舞台あいさつがあった。知らずに見にいって(なぜ、この回だけ満員なのだろうと不思議に思っていたのだが)、偶然、二人の「声」を聞くことができた。
 で、そのとき吉田大八監督が、映画と小説の違いを説明し、「大島優子、小林聡美の役は小説にはなくて、映画のためにつくった。宮沢りえのこころの声を代弁するためにつくった」と語った。これは、その通りなのだろうけれど、それを聞いた瞬間に、おもしろかった映画が途端につまらなくなった。
 映画を見ながら、大島優子と宮沢りえ、小林聡美と宮沢りえの「かけあい」の部分がおもしろくて、うーん、うまい。りえに台詞を言わせず、他人に言わせて、それにりえの表情を重ねる(同居させる)ことで、他人の台詞をりえの「こころの声」に変えてしまう。これはは映画でしかできない。
 傑作誕生!と思った。
 そして、横領が発覚したとき、大島優子の台詞を流用してアデランスの上司と向き合うところでは、楽しくて声を上げて笑ってしまったのだが……。
 そうか、このいちばんおもしろい部分は吉田大八監督の創作だったのか。
 それはそれでいいのだけれど、こういう部分は観客が自分で発見してこそおもしろい。映画の楽しさを発見したと喜んでいるところへ、「あれは、私の工夫です」と言われたら、なんだか手品の種明かしをされたようでがっかりする。「わかりやすく」なったのだけれど、そういうことってわからない方が楽しいんじゃないかねえ。
 どうしても言いたいんなら「映画には小説に登場しないキャラクターが登場しています。興味のある人は小説を読んで探してみてください」くらいで止めておけばいいのに。

 で、私は、映画の感想を書く気持ちが半分以上萎えてしまったのだけれど、宮沢りえが大好きなので、気持ちを奮い立たせて、感想を書いている。
 りえは、うまい。
 先に書いたが大島優子、小林聡美との「かけあい」の表情の変化がいい。やっぱり美人はすごい。ほんの少しの動きで「こころ」が顔に出る。乱れた顔(?)では、顔に「こころの乱れ」が反映のしようがない。(私は、美人大好き、ブスは嫌いという人間だから、こういうことを平気で書くのである。)
 相手役が画面に登場しないシーンでもおもしろい。ニセの書類をつくっているときコピー機が故障して紙がつまる。そこへ夫から電話がかかってくる。電話でやりとりしながらコピー機と格闘する。そのときの一人芝居がすばらしい。「おいおい、芝居だろう。ほんとうにコピー機が故障したわけじゃないのに、そんなに真剣になるかよ」と思わず言ってしまいそう。「脚本、読んだ? 単なる紙詰まりでしょ?」と。そのあと、ちゃんとコピーできるんでしょ?
 この全身の演技は舞台で鍛えた成果だねえ。
 全身の演技といえば……追い詰められて、窓を破って、走って逃げるシーン。カメラは途中からりえの顔だけを写しているんだけれど、そのときの「全身」感がいい。写っていない部分もちゃんと走って逃げる演技をしていて、その肉体のリズム(肉体の連続感)が顔にあらわれている。
 いいなあ。
 バックに流れる賛美歌(?)の嘘っぽい響きもいい。「桐島、部活……」でもラストのブラスバンドが効果的だったが、同じ曲を何度もつかいながら、違う場面とシンクロさせる手法がとてもおもしろい。音楽のなかには音楽鳴り響いていたときの「時間」が残っていて、音楽が流れるたびに「過去」の時間が甦ってくる。「過去」が「いま」を突き破って「未来」へと動いていく。
 りえの「逃走」にぴったり。
 いいなあ。ほんとうに、いいなあ。
 でも、映画はどうしてここで終わらないのだろう。ここで終わればいいのに。
 途中で空白のスクリーンがあるのだけれど、その空白で終わってしまえばいいのに。
 一呼吸おいて東南アジアのどこからしい街が映る。りえは、そこに逃亡している。そこで出会う果物屋の男は、もしかするとりえが小学生(中学生?)のときにお金を送っていた少年かもしれない。--これは現実ではなく、りえの夢かもしれない。現実ではりえは逮捕されているのかもしれない。どうとでも解釈できる。だったら、ない方がすっきりするだろうと思う。りえの行く末は観客がかってに考えればいい。監督に教えてもらわなくても(暗示されなくても)、かまわない。いや、暗示されたくない。舞台あいさつでの発言といい、吉田大八監督は、少し観客に対しておせっかいすぎるかもしれない。
 吉田大八監督の発言を聞かなかったら最低でも★4個をつけていたと思う。映画が賛美歌をバックに、りえが走るシーンで終わっていたら、絶対★5個だな。
                     (2014年11月23日、ソラリアシネマ7)


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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(16)

2014-11-23 10:00:06 | 北川透『現代詩論集成1』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(16)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「ひととき」は静かな詩である。

長い年月を経てやっと
その日のそのひとときが
いまだに終わっていないと悟るのだ

空の色も交わした言葉も
細部は何ひとつ思い出さないのに
そのひとときは実在していて
私と世界をむすんでいる

死とともにそれが終わるとも思えない
そのひとときは私だけのものだが
否応無しに世界にも属しているから

ひとときは永遠の一隅にとどまる
それがどんなに短い時間であろうとも
ひとときが失われることはない

 「意味」、あるいは「論理」の強い詩である。そして、その「意味(論理)」が、「いま/ここ」ではなく、どこか別の場所へと私を運んで行ってくれる。この詩に書かれている「ひととき」が「私」であるとするなら、それを「永遠」へと運んで行ってくれる--という感じがする。「いま/ここ」が「永遠」とつながっているから「静かな」という印象になるのだと思う。
 谷川は、その「つながり」を「私と世界をむすんでいる」「世界にも属している」という具合に、「むすぶ」「属する」ということばで言いなおしている。「むすぶ」も「属する」も「もの」がひとつではできない。「むすぶ」「属する」ということばは、「ふたつ」のものを必要とする。そして「むすぶ」とき、「属する」とき、その「ふたつ」は「ひとつ」になる。
 ことばもまた、何かを書き、その何かと「むすび」あい、何かに「属する」(あるいは、何かがことばに「属する」のかもしれない)。そうして、「ひとつ」になる。そのとき、そこに「永遠」があらわれるのかもしれない。
 「いま/ここ」が「永遠」とつながるのではなく、「いま/ここ」が永遠になるのかもしれない。

 この詩では、私は、そういう「意味」とは別に、一連目の「悟る」ということばに立ち止まった。この詩集の感想を書いている途中で、私は「わかる」と「さとる」は違う、というようなことを書いた。もう、何と書いたかはっきりとは思い出せないのだが、「わかる」と「さとる」は違うと私は思う。
 「わかる」は「分かる」と書くことがある。そのときの「分」という文字は「分ける」にもつかう。何かを「分ける」ことで、そこに「意味」を与える。未分節を分節化する。それが「わかる」ということだろう。「さとる」は「分ける」ことをせずに、全体をそのまま受け入れ、納得するようなものだと思う。未分節のまま、それでいい、と思うことが「さとる」。「未分節」のまま世界を動かすのが「さとる」だろう。
 そういう風に考えると、谷川の書いている二連目以下は、どうなるのだろう。そこでは「世界」が「分節」されている。「空の色」「交わした言葉」が「その日」から「分けて」取り出され、「何ひとつ思い出さない」と動詞に結びつけられて「意味」になっている。そして、それでも「ひととき」は「実在している」と「分かる」。「ひととき」が「私」と「世界」を「むすんでいる」と「分かる」。
 いや、それは「分かる」ではなく、「悟る」であると考えるべきなのか。谷川は「悟る」と書いているから、それは「分かった」ことではなく「悟った」ことなのか。
 たぶん、そうなのだと思う。
 そうだとしたら、その「悟る」の「証拠」はどこにあるか。なぜ、二連目以下に書かれていることが「分かる」ではなく「悟る」なのか。その「証拠」は?
 書いていることが前後してしまうが、その「証拠」は「むすぶ」にある。「むすぶ」は「分ける」とは別な動詞である。
 「ひととき」と「世界」は別なものとしていったん「分けられた」。「ひととき」が「世界」とは別のものであると「分かった」。分かった上で、それをもう一度「むすぶ」。「わける」をなくしてしまう。「分節化」されたものを「未分節」に戻してしまう。あるいは、「分節/未分節」を自在に往復する。それを「さとる」と言うのだ。

 分節/未分節を自在に往復する--という自在な運動から、私は、この本を読んだときの、最初の印象にもどる。分節/未分節を往復するというのは「ことば(論理)」では可能だが、そういう動きは実際には存在しない。精神の動きというのは「分節」化するときにのみ存在し、「未分節」に戻ってしまえば、動きがなくなる。「未分節」は「分からない(「分かる」が「無い」)」ということだから、そこでは何も動いていない。
 そこには分節化された「有」と未分節のままの「無」がある。「有」と「無」の結合がある。
 これは、矛盾。
 もし魂が存在するとしたら、この矛盾と密接な関係がある。
 それを直観することが「悟る」かな?

 こういう抽象的なことばをつなげていくことは、私は、好きではない。どうしても嘘を書いている気持ちになってしまう。「意味」をつくり出しているような気がして、そのとき、ことばに何か無理なことをさせていると感じる。知ったかぶりをしているなあ、と自分で感じてしまう。分かったようなふりをしているが、悟ってはいないと言えばいいのか……。

 で、詩にもどる。
 この詩では、もうひとつ「否応無しに」ということばが印象に残った。読みながら思わず傍線を引いてしまった。
 「否応無し」とはどういうことだろう。「私(谷川)」が「否定」しようが「応諾」しようが関係なしにということだろう。「私」の「意図/意思」と関係なしに、ということは、そこでは「私」は無力であるということだ。
 「私」が「無」になる瞬間がある。「私」は「有」なのだが、その「有」が「無」としてあつかわれる瞬間がある。「世界」に「属し」て、「未分節」になるということかもしれないが、それは「否応なし」。それは「私」とは別の「論理」で起きることである。
 それがどんな「論理」なのか、「私の論理」では「分からない(分節できない)」。けれど、そういうことがある--それは「さとる」しかないことなのだろう。「否応無し」を受け入れることが「さとる」ことなのかもしれない。

 と、書いてくると。
 谷川は詩を「否応無し」に書かされているのかもしれない、という気持ちにもなる。書いているのではなく、何かに書かされている。何にか。「タマシヒ」に、と言ってみたくなる。魂の存在を信じていない私がこんなことを書くのは変だが……。

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あの通りで、

2014-11-23 01:03:03 | 
あの通りで、

あの通りで会ったことはないが行き違ったことはある。
それから何度、雨上がりの暗がりで待ったことだろう。

きょうこそは、と思いながら
目をあわせることを避けたあの日、
視線の動きで互いを知り尽くしていることがわかったあの日、

遠くの明るい通りでは、
救急車が来て、担架が出てきた。ひとを載せている間も
ほかの車は走りつづけていた。
コメント (1)
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