谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(2)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
私はしつこい性格かもしれない。詩の感想を書くときも、その一篇だけを読んでというよりも、前に読んだ作品と結びつけて読んでしまう。「私は王様」
読んだ瞬間に、きのう「タマシヒ」について感じたことを思い出す。私は魂は存在しないと考えているけれど、「無(ない)」という形で存在するなら、それは存在するのかもしれないと感じた。これは私の「直観の意見」なので、論理的には説明できないのだけれど。で、そのときの「無(ない)」と「ある」の関係が、ここでは「いる」「いない」ということばで語られている、と読んでしまう。
「ある」「ない」、「いる」「いない」と「タマシヒ」は関係があるのかもしれない、と考えを引きずりながら読んでしまう。
「いる」と「いない」が交錯している。「いまここにいる私」が「ほかのどこにもいない私」というのは論理的にはまったく正しい。正しいのだけれど、そういうことを考えながら「いまここにいる」と再確認するとき、何か奇妙な感じがある。
なぜ、谷川はこんなことを考えたのか。そして、私たちはなぜこんなことを考えることができるのか。こういう「考え(ことばの運動)」を支えているのは何だろう。何が、ことばをこんな具合に動かしているのだろう。
だいたい「ない(いない)」が「ある」と考えるのはなぜなんだろう。私がここにいる(ある)とき、別の場所に私はいない(ない)。そのことばをつないでいるのは何なのだろう。
2行目の行頭の「は」、3行目の行頭の「が」。こういうことばで行が始まるのは、詩ではよく見かけるけれど、ふつうはこういう書き方をしない。助詞はことばとことばをつなぐので、先行することばにくっついている。次にことばをくっつけますよ、という合図のようなものである。それが先頭にあると、いままでのことばは宙ぶらりんになる。つながってきたものの方が印象が強くなる。ことばの「下克上」のように、あとからでてきたものが先にあるものをひっくりかえす感じ。
これが2回つづく。「再下克上」というのか、もとにもどったというのか……。
「いる」「いない」よりも「循環」する運動の方に意識がいってしまう。
また、その「下克上」の「運動」に、きのうページをめくって、またもどってという具合に本を読んだことも重なる。「は」「が」の行頭の驚きは、鳥が飛んでいる空の写真を見て、次にその裏側が「青」一色であるのを知って、「あ、空の裏側」と思ったときの感覚に似ている。「いまここにいる私」を裏側から見ると「ほかにどこにもいない私」になる。「いない」を見ている。鳥の写ってる空よりもはるかに広い青一色、ここにいる私よりもはるかに広い(?)私が、表と裏の間でショートして光っている感じ。その光が、「あっ」という驚き。
さらに、その驚きのあとに「ここがどこかも知らずに/雲の帽子をかぶって/泥のスリッパをはいて」ということばがつづくとき、その「帽子」が、ふいに、最初のページの少年のポートレートを思い出させる。少年はピンクの飾りを頭にのせている。あれは、帽子? それとも少年が「王様」である印の王冠?
少年の顔には左側から光があたり、右半分(私から見て)の顔はぼんやりした影の中にある。光と影が顔の中央で出会って、分かれている。これも「いる」「いない」、「ある」「ない」とつながっている?
あの少年は「いまここにいる私/はほかのどこにもいない私/がいまここにいる」と考えているのだろうか。違うことを考えているのかもしれないが、谷川の詩を読むと、私はそう感じたくなる。それまで「感じたい」と思ってもいなかったことが、かってに動いてきて、「感じたい」と言っている。
詩の2連目。
ここでも「ある」と「ない」が交錯する。「ここ」にあって「あそこ」に絶対に「ない」もの、「もの」というよりも、「ここ」という「場」なのだけれど、……そういうことを谷川は書いているわけではないのだが、単に「もの」以上のことが書かれていると私は感じてしまう。感じたがっている。
「あなた」は「私」とは別人の「あなた」ではなく、「私」のもうひとつの呼称かもしれない。「私の矛盾」が「あなた」かもしれない。「私のなかにある矛盾」。「矛盾のない私」と「私のなかの矛盾」が出会って、会話している。
それは、「こころ」の会話? 「頭」の会話? 「タマシヒ」の会話? 「肉体」の会話だろうか?
3連目。
「いる(いない)」「ある(ない)」の問題が、ここでは「動く」という動詞に関係づけて語られている。「動かせない(動かない)」存在は、ここに「ある(有)」。そして「動く」存在は、動いてしまうとここには「ない」。しかし、「動く」という動詞といっしょに、その存在は「ある」。
「ある」には二つの種類が「ある」。「不動」の「ある」と「運動」の「ある」。そうであるなら「ない」にも二つの種類があるかもしれない。「不動」の「ない」(私はそこにはいない)と、「運動」の「ない」(動かずに、私はここにいる)。
でも、「私は王様/行こうと思えば/ここからどこへでも行ける」。このとき、「不動」と「運動」をつないでいるものはなんだろう。何が「私は王様」という根拠になるのだろう。「不動」から「運動」にかわるとき、何かが「持続」されていないといけない。
その「持続」が「タマシヒ」かもしれない。
私は「持続」の根拠を「肉体」においているけれど、谷川は「肉体」とはいわずに「タマシヒ」というのだと思う。「タマシヒ」をかかえて(「タマシヒ」といっしょに)、どこへでも行く。行ける。「タマシヒ」がいっしょだから、「私は王様」と。
というのは、きょうの便宜上の「答え」。
あしたはあしたで、違ったことを言うかもしれないが、「いる」「いない」「ある」「ない」「動かない」「動く」という「矛盾」したことばのつながりのなかに何か大事なものがあるぞ、と感じたとういことは変わらない。
この詩の裏側は「空白」。そして、その左のページには最初のページの少年(だろうと思う)が家の入り口に座っている。洗濯物が干してあり、開いた入り口から見える家の中は雑然としている。暮らしがそこにある。このとき少年は何をみているのかな? 「私は王様」ということばを裏側から見て、「空白(無)」を見ているのかな?
そのとき「無」とは何かな?
少年の「裏側」はどうなっているのかな?
そう思って、少年の「裏側」(裏ページ)を見ると……。
舗道? それとも壁? 光と影が揺れている。星のように鋭く光る小さな光の粒も散らばっている。
(つづきは、あした書く、つもり……)
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
私はしつこい性格かもしれない。詩の感想を書くときも、その一篇だけを読んでというよりも、前に読んだ作品と結びつけて読んでしまう。「私は王様」
いまここにいる私
はほかのどこにもいない私
がいまここにいる
ここがどこかも知らずに
雲の帽子をかぶって
泥のスリッパをはいて
読んだ瞬間に、きのう「タマシヒ」について感じたことを思い出す。私は魂は存在しないと考えているけれど、「無(ない)」という形で存在するなら、それは存在するのかもしれないと感じた。これは私の「直観の意見」なので、論理的には説明できないのだけれど。で、そのときの「無(ない)」と「ある」の関係が、ここでは「いる」「いない」ということばで語られている、と読んでしまう。
「ある」「ない」、「いる」「いない」と「タマシヒ」は関係があるのかもしれない、と考えを引きずりながら読んでしまう。
「いる」と「いない」が交錯している。「いまここにいる私」が「ほかのどこにもいない私」というのは論理的にはまったく正しい。正しいのだけれど、そういうことを考えながら「いまここにいる」と再確認するとき、何か奇妙な感じがある。
なぜ、谷川はこんなことを考えたのか。そして、私たちはなぜこんなことを考えることができるのか。こういう「考え(ことばの運動)」を支えているのは何だろう。何が、ことばをこんな具合に動かしているのだろう。
だいたい「ない(いない)」が「ある」と考えるのはなぜなんだろう。私がここにいる(ある)とき、別の場所に私はいない(ない)。そのことばをつないでいるのは何なのだろう。
2行目の行頭の「は」、3行目の行頭の「が」。こういうことばで行が始まるのは、詩ではよく見かけるけれど、ふつうはこういう書き方をしない。助詞はことばとことばをつなぐので、先行することばにくっついている。次にことばをくっつけますよ、という合図のようなものである。それが先頭にあると、いままでのことばは宙ぶらりんになる。つながってきたものの方が印象が強くなる。ことばの「下克上」のように、あとからでてきたものが先にあるものをひっくりかえす感じ。
これが2回つづく。「再下克上」というのか、もとにもどったというのか……。
「いる」「いない」よりも「循環」する運動の方に意識がいってしまう。
また、その「下克上」の「運動」に、きのうページをめくって、またもどってという具合に本を読んだことも重なる。「は」「が」の行頭の驚きは、鳥が飛んでいる空の写真を見て、次にその裏側が「青」一色であるのを知って、「あ、空の裏側」と思ったときの感覚に似ている。「いまここにいる私」を裏側から見ると「ほかにどこにもいない私」になる。「いない」を見ている。鳥の写ってる空よりもはるかに広い青一色、ここにいる私よりもはるかに広い(?)私が、表と裏の間でショートして光っている感じ。その光が、「あっ」という驚き。
さらに、その驚きのあとに「ここがどこかも知らずに/雲の帽子をかぶって/泥のスリッパをはいて」ということばがつづくとき、その「帽子」が、ふいに、最初のページの少年のポートレートを思い出させる。少年はピンクの飾りを頭にのせている。あれは、帽子? それとも少年が「王様」である印の王冠?
少年の顔には左側から光があたり、右半分(私から見て)の顔はぼんやりした影の中にある。光と影が顔の中央で出会って、分かれている。これも「いる」「いない」、「ある」「ない」とつながっている?
あの少年は「いまここにいる私/はほかのどこにもいない私/がいまここにいる」と考えているのだろうか。違うことを考えているのかもしれないが、谷川の詩を読むと、私はそう感じたくなる。それまで「感じたい」と思ってもいなかったことが、かってに動いてきて、「感じたい」と言っている。
詩の2連目。
いまここにいる私
の隣にいるあなた
はここよりあそこがいい
と言うけれど
あそこにはここにあるものが
ないではないか
ここでも「ある」と「ない」が交錯する。「ここ」にあって「あそこ」に絶対に「ない」もの、「もの」というよりも、「ここ」という「場」なのだけれど、……そういうことを谷川は書いているわけではないのだが、単に「もの」以上のことが書かれていると私は感じてしまう。感じたがっている。
「あなた」は「私」とは別人の「あなた」ではなく、「私」のもうひとつの呼称かもしれない。「私の矛盾」が「あなた」かもしれない。「私のなかにある矛盾」。「矛盾のない私」と「私のなかの矛盾」が出会って、会話している。
それは、「こころ」の会話? 「頭」の会話? 「タマシヒ」の会話? 「肉体」の会話だろうか?
3連目。
いまここにいる私
を誰も動かせない
いまここにいることで
私は王様
行こうと思えば
ここからどこへでも行ける
「いる(いない)」「ある(ない)」の問題が、ここでは「動く」という動詞に関係づけて語られている。「動かせない(動かない)」存在は、ここに「ある(有)」。そして「動く」存在は、動いてしまうとここには「ない」。しかし、「動く」という動詞といっしょに、その存在は「ある」。
「ある」には二つの種類が「ある」。「不動」の「ある」と「運動」の「ある」。そうであるなら「ない」にも二つの種類があるかもしれない。「不動」の「ない」(私はそこにはいない)と、「運動」の「ない」(動かずに、私はここにいる)。
でも、「私は王様/行こうと思えば/ここからどこへでも行ける」。このとき、「不動」と「運動」をつないでいるものはなんだろう。何が「私は王様」という根拠になるのだろう。「不動」から「運動」にかわるとき、何かが「持続」されていないといけない。
その「持続」が「タマシヒ」かもしれない。
私は「持続」の根拠を「肉体」においているけれど、谷川は「肉体」とはいわずに「タマシヒ」というのだと思う。「タマシヒ」をかかえて(「タマシヒ」といっしょに)、どこへでも行く。行ける。「タマシヒ」がいっしょだから、「私は王様」と。
というのは、きょうの便宜上の「答え」。
あしたはあしたで、違ったことを言うかもしれないが、「いる」「いない」「ある」「ない」「動かない」「動く」という「矛盾」したことばのつながりのなかに何か大事なものがあるぞ、と感じたとういことは変わらない。
この詩の裏側は「空白」。そして、その左のページには最初のページの少年(だろうと思う)が家の入り口に座っている。洗濯物が干してあり、開いた入り口から見える家の中は雑然としている。暮らしがそこにある。このとき少年は何をみているのかな? 「私は王様」ということばを裏側から見て、「空白(無)」を見ているのかな?
そのとき「無」とは何かな?
少年の「裏側」はどうなっているのかな?
そう思って、少年の「裏側」(裏ページ)を見ると……。
舗道? それとも壁? 光と影が揺れている。星のように鋭く光る小さな光の粒も散らばっている。
(つづきは、あした書く、つもり……)
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。