詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「路線バスを待ちながら」

2014-11-24 11:16:20 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「路線バスを待ちながら」(「文藝春秋」2014年12月号)

 秋亜綺羅の詩は理屈っぽい。理屈を読ませる、理屈を裏切る--その瞬間の驚きのようなもの、それを詩と考えているのかもしれない。
 こういう詩は、意外なことに、短いとおもしろくない。長い方が生き生きする。論理がしょっちゅう動いた方が楽しい。
 「文藝春秋」の詩の欄は小さい。従って作品は短い。

人間が横暴だといわれるのはなぜですか
シマウマを食べるライオンだからですか
ゾウを倒すアリの大群だからですか
いいえ、夢を作って食べつくすバクだからだよ

人間が幸福を感じる生物であるのはなぜですか
ひとが死んだとき、ああ自分じゃなかったと思うからですか
バケツいっぱいのプリンを食べて死のうと夢見るからですか
いいえ、いま向こうから近づいてくるバスが
時刻表にないことを知らないからだよ

 「なぜ」と問いかけ(自問し)、それに対して自分で答え、さらにそれを否定して飛躍する。これが一連目と二連目で反芻される。二連目を読むときは、「いいえ」が出てくるタイミングまでわかってしまう。ことばの、わかりきった運動。どんなに意外なことが書かれても、そこに運動の「論理」(問いかけ、自答し、否定する)が一貫しているので、意外な感じがしない。
 これが延々と繰り返されると、その繰り返しがリズムになり、ことばを疾走させる。こんなに短いと、繰り返しが疾走にならない。躓きになってしまう。つまんないね。
 だから、私は、この詩を読みながら作り替えて(秋亜綺羅をコピーして)、書かれていない詩を楽しむことにする。
 「横暴」と「幸福」。その「意味」はわかったようで、わからない。だから、一連目と二連目の「横暴」と「幸福」を入れ換えてみる。

人間が幸福だといわれるのはなぜですか
シマウマを食べるライオンだからですか
ゾウを倒すアリの大群だからですか
いいえ、夢を作って食べつくすバクだからだよ

人間が横暴を感じる生物であるのはなぜですか
ひとが死んだとき、ああ自分じゃなかったと思うからですか
バケツいっぱいのプリンを食べて死のうと夢見るからですか
いいえ、いま向こうから近づいてくるバスが
時刻表にないことを知らないからだよ

 何か、変わった?
 変わらない。「横暴」は「幸福」であり、「幸福」は「横暴」なのだ。そして、「横暴/幸福」とは、自問自答し、否定するということのなかに完結してしまうことである。
 もうひとつ、バリエーション。

人間が幸福だといわれるのはなぜですか
ライオンに食べられるシマウマだからですか
アリの大群に倒されるゾウだからですか
いいえ、バクに食べつくされる夢を作るからだよ

 被害者と加害者を入れ換えると、そこに「偶然」ではなく「運命(宿命)」があらわれる。運命の方が「人生」に近い。
 この「幸福」をもう一度「横暴」に戻してみようか。

人間が横暴だといわれるのはなぜですか
ライオンに食べられるシマウマだからですか
アリの大群に倒されるゾウだからですか
いいえ、バクに食べつくされる夢を作るからだよ

 どう?
 被害者は一般的には不幸な人間に分類されるが、こうやって書いてみると違う感じにも見える。なぜライオンに食べられるままのシマウマでいる? どうして闘わない? 闘わないのは、自分の人生に対して「横暴」じゃない?
 ほら、そういう「論理」で「組織」をつくろうとする人間がいるでしょ? いやだな、と思ったことはない? 「論理」の正しさなんかどうでもいい。「論理」を無視して、だらだらしていたい、だらしなく生きてみたいと思ったことはない? すべてのシマウマがライオンに食べられるわけではない。自分は食べられずに一生を生きてゆけるかもしれない。闘うなんてことはしないで、草を食べて満腹になって、さらに鼻いっぱいに草の匂いを吸い込んで、幸福を感じていたっていいんじゃない?

 まあ、こんなことは秋亜綺羅が書いているわけではないのだけれど。

 秋亜綺羅の詩にはいろんなハプニング(論理のひっくりかえし)が隠れているが、それは「仕掛け」である。論理は実はひっくりかえらない。ひっくりかえったことを装って、起き上がる。おきあがりこぼしが秋亜綺羅の「肉体」なのだ。
 そうであるなら。
 何度でもひっくりかえり、何度でも起き上がる。七転び八起きという運動を連続した形で見せないとね。偶然こそが必然を明らかにするということろまで書かないと。
 秋亜綺羅には短い詩は向いていない。

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(17)

2014-11-24 10:16:53 | 詩集
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(17)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「もどかしい」は白いつるつるしたページに印刷されている。右ページはピンク色。このピンクは何だろう。ピンクの裏は庭を歩き回る鶏の群れ。ピンクの鶏冠があるかもしれないが、眼の悪い私にはよく見えない。この写真のなかのピンクが裏側から見られているというわけではないようだ。いままで見てきた写真とその裏側の関係は、ここではいったん断ち切られているように感じる。でも、その鶏の反対側にピンクがある。壁にはられた「春」という文字。正月の飾りだろうか。その「春」はピンクの紙に書かれている。「もどかしい」と向き合っているピンクは、写真を一枚通り越して、このピンクと向き合っているのだろうか。
 なんだか、じれったい。それこそ「もどかしい」。離れたところにある何かと呼応している。そのときの、呼応しているよりも「離れた」という感じが「もどかしい」。どうしていままでの写真と色のように「表裏一体」ではないんだろう。
 と、思いながら読んだのか、あるいは詩を読んだからそんなことを思ったのか。いま書いたことと、詩の印象が行き来する。

タマシヒがカラダを連れて
林の中へ入ってゆく
耳が風の音を聞く
鼻が大気の匂いを嗅ぐ
つむっていた眼を開けると
遠く逆光に輝く海がまぶしい

昨日はカラダごとあのひとに会った
耳も鼻も眼も肌も気持ちも
あのひとでいっぱい
でもタマシヒは
あのひとのタマシヒはどこ?
タマシヒはもどかしい

カラダでは探せなかった
ココロでは見つけられなかった
あのひとのタマシヒ
いくらコトバで考えても
見えてこない聞こえてこない
それなのに ある

タマシヒは不思議

 二連目の最後の「タマシヒはもどかしい」は「私のタマシヒはもどかしがっている」ということだろうか。私のタマシヒは、あのひとのタマシヒと出会いたがっている。カラダが一体になったように、タマシヒも一体になりたがっている。でも、そのタマシヒがみつからないので一体になれずに、もどかしい気持ちでいる。
 三連目の最終行「それなのに ある」は谷川の「思想(肉体)」があらわれた特徴的な行だと思う。
 私は「魂はない(存在しない)」と考えているから、見つけられないだけではなく「コトバで考えても/見えてこない聞こえない」なら、それは存在しない。私の「論理(意味)」では、コトバで考えても/見えてこない聞こえない/「だから ない(存在しない)」になってしまう。
 それなのに。

それなのに ある

 ふつうの(一般的な--と私は考えているが)「論理」を超えて、谷川は谷川自身の「論理」ではないものを「それなのに」ということばをつかって、そこに書いてしまう。「それなのに」は、それまで書いてきた「論理」を否定して、矛盾したことを書くための「論理の技法」である。
 論理を論理の技法で否定する、その強さ。
 本能、むきだしの欲望、こどものわがままのような力。
 谷川が書いていることは「論理的」には納得できない。わからない。けれど、谷川がタマシヒはあると信じているということは、わかる。そう信じる谷川が、そこに「いる」ということが「わかる」。「いる」が「わかる」のは、そこに「肉体」があるからである。「肉体」が「ある」ことが「いる」ということ。「思想」は「ことば(論理)」にはならずに、無防備の、「肉体」そのものとして、そこに「ある」。
 そのことを感じる。
 「肉体」は「耳」となって風の音を聞き、「鼻」となって大気の匂いを嗅ぎ、「眼」となって逆光に輝く海を見た。それは「肉体」のなかで統合されて、「私」の内の世界と外の世界が溶け合う。その「肉体」がそこにあるのを感じる。

 谷川は、そしてほかの読者は、別な考え方をするだろう。
 「それなのに ある」と書くとき谷川が問題にしているのは「あのひと」のタマシヒであって谷川のタマシヒ、あるいは一般的なタマシヒのことではない。
 詩の書き出しの「タマシヒがカラダを連れて」という行は、私(谷川)のタマシヒが谷川のカラダを連れて、という意味である。主語(主体)はあくまでタマシヒである。タマシヒがカラダ(肉体)を統合し、動かしている。
 自分の「肉体」のなかにタマシヒを感じている。だから、それが他人(あのひと)のなかにも「ある」と信じる。林の中に入っていけば、それぞれの「肉体」に呼応して森のタマシヒがあらわれる。風の音になって、大気の匂いになって、タマシヒがあらわれる。タマシヒは何かを動かし、何かをつなぐエネルギー。それ自体は「不動」のものなので、見えない。
 だから、もし、「あのひと」が林のなかで何を聞き、何を嗅いだか、そして目をあけて何を見たかを語ったなら、そこに「あのひとのタマシヒ」があらわれる。「あのひと」が私とは違った何かをカラダでつかみとり、それをことばにするなら、そのとき二人のタマシヒは触れあう。一つになる。そのとき、「あのひと」がまったく違ったことを語ったとしても……。
 そう読むと、この詩は、切ない切ない恋の詩になる。「あのひと」に、何か言ってほしい、何でもいいから言ってほしいという「もどかしい」気持ちをあらわした詩になる。
 それは「もどかしい」気持ちのなかで、あのひとのタマシヒに触れるということかもしれない。触れているということかもしれない。「ない」ではなく、「ある」と感じているのだから。

タマシヒは不思議

 あ、これは私のことばではなく、谷川の書いた詩の最終行。

 このあと、詩は空白の裏を経て、家を写した写真へとつづく。その家の屋根瓦はピンク。入り口を飾っている紙のしめ縄(のれん?)のようなものもピンク。ピンクは、いのりのときの心臓の色かも。
 このピンクの補色になるのか、家の前には稲の葉っぱのみどり、屋根の向こうには木々のみどり、そしてページを戻って「春」の文字の裏にはみどりの水に浮かんだみどりの水草(このみどりの変化が美しい)。「春」の文字がはさんでいる窓枠のなかの壁も水に似通った、暗く沈んだ静かなみどり。
 写真の中にある何かと、谷川のことばのなかにある何かを、結びつけたがっている私を、私は見つけてしまう。


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失くした本のなかで--小倉金栄堂の迷子

2014-11-24 00:18:35 | 
失くした本のなかで--小倉金栄堂の迷子

失くした本のなかでそのひとに会った。
広いガラス窓のテーブルの、あの椅子に座っていた。
雨が降ると夜の街がアスファルトの上ににじむ。
車がとぎれた瞬間にあらわれる逆さまの街が、

失くした本のなかでそのひとと舗道を歩くと
この街から離れていくような気がする。けれど、
そのひとが見せてくれたモノクロの写真には
ガラスにこびりついている雨粒を車のライトが照らしている。

写真の雨を見ながら想像した。下着を脱ぐときの手と足の動きを、
雨を見るふりをして、そのひとのなかに何を見つけ出そうとしたのか。
そのひとは私の探していたものを知ろうとしただろうか。

失くした本のなかでそのひとの声はすっかり変わっていた。
節度を超えた冷淡さな響き。
あるいはまだ書かれていない本のなかでのことなのか。
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