詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イ・ジュヒョン監督「レッド・ファミリー」(★★)

2014-11-16 18:09:13 | 映画
監督 イ・ジュヒョン 出演 キム・ユミ、チョン・ウ、ソン・ビョンホ、パク・ソヨン



 北朝鮮の工作員(四人)が偽装家族となって韓国で活動する。隣の家は、いがみ合うだらしない家族。最後の指令は、その南の家族を殺すこと--という設定にひかれて見たのだが。
 映画というよりも芝居。舞台劇ならとてもおもしろいと思うが、映画ならではの「情報」がなくて、脚本以外に見るべきところはない。安易に北に残っている工作員の家族を映像で見せないというのは、それはそれでいいのだけれど、すべてが「ことば」だけなので想像力が刺戟されない。
 舞台だと常に役者の肉体が「全身」でそこに存在するので、その肉体が抱え込むものが「情報」となってつたわるのだが、映画は「肉体」がフレームのなかでとらえられ、そこには「カメラ」の演技が入ってきていて、役者の「肉体」そのものが疎外される。うまくいけば、クローズアップはとても効果的だが、こんなに「ことば」の情報にたよっていてはカメラワークの効果がない。
 唯一おもしろいのはラスト。工作員が北の上部工作員につかまって、船上で処刑される寸前(自殺を強要される寸前)。四人が隣の家族喧嘩を再現する。罵詈雑言が飛び交う。そんなふうにして感情のままにことばを発してみたい。こんな家族でありたかった。そういう「夢」が芝居のなかで生き生きと動く。まあ、これにしても「芝居」の方がはるかにおもしろいと思う。映画だと、どうしてもカメラが観客の感情を誘導するように役者の「肉体」を切り取ってしまうので、そういうことばが飛び交う「場」の全体が見えにくい。
 実際の家族の喧嘩が庭であったとき、隣の家族の四人の「位置関係」が「情報」としてあるのに、船上の工作員四人には「位置関係」の「情報」がない。横に一列に並べられて、不自由な場(拘束されて不自由な肉体)で「ことば」で「家族」を再現することになり、やっぱり「ことば、ことば、ことば」の芝居にならざるを得ない。
 で、唯一おもしろいこのシーンでは、「映画」であることがまた邪魔にもなっている。四人の芝居がいったい何を再現しているものか、観客にはわかっても上部工作員たちはわからないのだが、そのわからない工作員の姿を映画は映し出してしまう。その瞬間、「ことば、ことば、ことば」の芝居が映像によって途切れてしまう。緊張感がなくなる。舞台なら、観客はそこに上部工作員がいても、それを無視して四人の芝居に集中できる。映画ではカメラが勝手に演技して上部工作員をとらえるので、それが邪魔になってしまう。表現媒体の選択を間違えたようだ。
                      (2014年11月16日、KBCシネマ1)


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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(9)

2014-11-16 10:28:31 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(9)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「罪」のあと、日射しの美しい木の写真(森の出口を撮った写真?)をはさんで「うたたね」という詩。

カラダがくたびれてココロも
くたびれてきて
タマシヒを見失う

垣根の外を子どもらが笑いながら歩く
日差しがゆるやかに影を回す
死んだ誰彼に無言で声をかけられる

タマシヒは眠ることがあるのだろうか

 「カラダ」「ココロ」「タマシヒ」が出てくる。人間は、その三つでできている?
 いちばん外側がカラダ、つぎがココロ、その奥にタマシヒがある、という感じなのかな? 外側からだんだん内部へと「くたびれる」が広がってくる。
 タマシヒがくたびれて、ココロがくたびれて、カラダを見失う、ということは、ありうるのか。
 ない、と思って、谷川はこの詩を書いていると思う。
 でも、タマシヒを見失ったと思ったら、それは「外」から急にやってくる。
 「垣根の外を子どもらが笑いながら歩く」のを見ると、それがタマシヒのように感じられる。カラダもココロもくたびれていなくて、元気に笑っている。あれがタマシイの理想の姿だな、と思い出してしまう。思い出すとき、タマシヒが外から肉体(眼)を通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる感じだ。
 「日差しがゆるやかに影を回す」も同じ。その美しい光と影の揺らぎがタマシヒになって、カラダを通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる。ココロのなかに、タマシヒが甦り、それが外にあるタマシヒとつながって、子どもたちのように笑い声(よろこびの声)をあげる。光と影をかろやかに動かす。カラダの内と外が共鳴し、音楽が鳴り響く感じ。
 そういうときは、「死んだ誰彼」が「無言で声をかけ」てくる。これは、友人と楽しく過ごした時間を思い出すという具合に私は読む。何も言わなくても、考えていることが通じ合ったようなよろこび。
 タマシヒは人間を甦らせる。いつでも人間を元気づけるために存在する。タマシヒを見失ったと思ったときにさえ、それは外からやってきて、カラダの内と外との関係をととのえてくれる。
 くたびれたら「うたたね」でもして、少し休んで、それから「外」を眺めてみればいい。子どもがいる。光がある。影がある。死んだ人のなつかしい思い出もある。
 詩の裏には、かめが光を浴びながら泳いでいる写真。鯉も泳いでいる。その左となりのページには不思議な双六。まるで曼陀羅のよう。さらに、オタマジャクシ、たてかけられた自転車と写真がつづくのだが、そうか、生きているものも、そこで動かずにただあるだけのものも、どこかとつながって、何かが共鳴している(音楽を響かせあっている)のだな、と思う。
 壁の落書きの写真がある。顔は向き合っているのか、左の男(少年?)は知らん顔をしているが、右の女(少女?)は何か呼びかけているように見える。その左となりの猫の写真がおもしろい。電子レンジの棚(?)の下にいて、電子レンジを見上げている。電子レンジのタイマーのスイッチがふたつ並んで目のように見える。猫とは関係のないところを見ている。その無関心な電子レンジの目を猫が見ている--というのは、いま見たばかりの壁の男と女の落書きの視線の関係に似ている。
 そういう無関心と関心の視線の交錯のなかにもタマシヒはあるんだろうなあ。
 何かが、私の肉体のなかに入ってきて、こうなふうにことばが動くのだから。

 最後の一行は不思議。誰のタマシヒだろう。死んだ人の? それともこの詩の主人公の? 私には「個別のタマシヒ」のようには感じられない。タマシヒはいつでも「個別」のものではなく「ひとつ」なんだろうなあ。あるときは子どもになり、あるときは笑いになり、あるときは日差しや影になり、あるときは死んだ誰彼の声になる。そうして呼吸のように「肉体」を出たり入ったりするんだろうなあ。

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冬は

2014-11-16 01:23:47 | 
冬は

冬は走り去った雨をケヤキ通りで追い抜いた。

葉を落とした木の幹と枝の表面はまだ濡れている。
冬は、その薄い水の膜に落日の色が集めて冷たい輪郭をつくる。



*



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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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