詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中島悦子『藁の服』

2014-11-18 11:51:57 | 詩(雑誌・同人誌)
中島悦子『藁の服』(思潮社、2014年10月25日発行)

 中島悦子『藁の服』には複数の文体がある。というか、複数の文体があるということが、この詩集の(中島自身の)文体(肉体)である。思想である。
 「柩をめぐる」の書き出し。

きらきら市役所の前に柩が置かれた。柩には、「生きながら、入り
ますか?」という張り紙がしてあった。きらきら市役所のシステム
は、すでに魂が抜けており、この事件をどのように対処すべきか分
からなかった。これは、批評ですか。批判ですか。というか、芸術
表現ですか、いわゆる。ついこの間の合併でできたばかりのきらき
ら市のシステムにとっては、まともに批判を受け入れることができ
るわけもない。結論は、所詮芸術ですから、表現の自由ですから、
とにかく自由におやりになれば。と言うが早いか、すぐさま柩は粗
大ゴミ置き場に直行させられた。

 ある「こと(もの)」がある。それは何だろうか。私は「もの/こと」としか思わない人間だが、中島は「批評ですか。批判ですか。」と考えている。さらにそれを言いかえて「芸術表現ですか」と言う。
 そうか「表現」か。「表に表す」という「動詞(動き)」がそこにはある。背後にあるものを、「表」に「表す」、見えるようにする。「批評/批判」ならば、自分の「意見」を表に表す、わかるようにするということか。
 「批評/批判/芸術」ということばのあいだにはさまれた「というか」ということばの方が重要かもしれない。
 「もの/こと」を言いかえる。最初の「表現」では言い切れないものを、別の形で言いなおす。それは、隠れているものを、さらに表に出すということだ。
 隠れているものを「表に出す」、さらにその「表に出したもの/こと」を、別の形で「表に出す」。その結果、そこに書かれていることは必然的に「複数」になる。(中島の文体(肉体)が複数で構成されているというのは、そういう意味である。)
 これが中島のことばの「肉体」の動きの基本だと思う。つまり、思想の基本。
 そして、そのときの特徴として、「これは、批評ですか。批判ですか。というか、芸術表現ですか、いわゆる。」という口語のリズムがある。口調がある。厳密に論理を組み立てて「結論」を提出するというよりも、その瞬間瞬間に、ぱっと別の角度からのことばをぶつける。そのフットワークの軽さ、フットワークの強さ、それが中島の「肉体」なのだと感じた。

毒の雨は降る。堂々と。今となって隠すことは何もない。こんな雨
の日には、ショッキングピンクの長靴を膝まで履いた女が無言でバ
スに乗ってきて、つかまるところもなく立っている。この抗議のス
タイルを内閣総理大臣が見ることはない。だって、大衆のバスだよ、
ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。 
                             (「屋根をめぐる」)

 「この抗議のスタイル……」にこめられた批評、批判、あるいは芸術。そこには「文語」ではなく「口語」が生きている。批評、批判というのは「表現」であり、「表現」は「文語(鍛えられた文章)」になることで「意味」が明確になり、そういうものが「芸術」と呼ばれたりするのだが、中島は、こういう「洗練」に抗議している。確立された「意味」ではなく、そういうものになる前の衝動(本能)のようなものを、次々に、奥から(あるいは別の角度から)ひっぱり出してきて、そのまま無軌道に動いていく。
 洗練の拒否という洗練--ということもあるかもしれないが、私は、そんなふうに「芸術」に与するよりも、「無軌道」の力そのものを信じたい。
 「だって、大衆のバスだよ、ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。」ということばにくっきりとあらわれている言ったあとで考える、その結果、「倒置法」になってしまうというような「口語」、倒置法によって念押しする力の入れ具合の見せ所--そういうものが、とてもおもしろい。

 「神無月をめぐる」は東電福島第一原発の事故を描いているか。

ふくこ はなこ ゆりこ うめやすふじ
きたふじ みどり さくら

毒を巻かれて、手放した牛たちの名前。あの子らの名前を忘れない
ようにしようと思って紙に書いて仮設の壁に貼りました。みんなか
わいくてしょうがない子たちだったのです。牛小屋に泊まって世話
したこともありました。

あの政府のほっとしたような顔を見ましたか? 毒と病気との因果
関係が証明されないという科学の報告書をもらった時の顔は、スロ
ーモーションで報道すべきでした。

あかるひめ しこぶち いづのめ うむぎひめ かやなるみ
わかむすび くくりひめ このはなちるひめ たけいわのたつ
てなづち おもいかね

 「あかるひめ……」は牛の名前なのか、それとも古い伝承歌なのか、私にはちょっと分からないのだが、牛の名前と思っておく。
 「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」も口語の批評、批判のひとつだが、私は、それよりも牛の名前の羅列の方が強烈な批判(芸術)になっていると思う。名前にはそれぞれ「過去」がある。その名前をつけたときの、飼い主の「思い」が「口語」として残っている。名前の「いわれ」を聞かれたら、それぞれあるだろうが、そういうことは言わずに「肉体」そのもので納得している「時間」がある。その名前といっしょに生きてきた「具体的な時間」がそこにある。「牛小屋に泊まって世話をしたこともありました。」というような、見えない「時間」がそこには動いている。
 それが「あかるひめ……」のように、かなり複雑な「音(音楽)」そのものとして、変形できない形、強靱な結晶のようにして噴出してきている。名前だから「分節」されているのだけれど、その「分節」は、私のように実際にそこで牛を飼っていない人間には見えない。つまり「未分節」なものである。私にとっては「未分節」であるけれど、飼っていた人にとっては「分節」された世界。名前の数だけ、複数の「肉体」があるのだ。
 私には「未分節」世界が、そこに「分節」されて、「ある」。それに触れた瞬間に、私の「未分節」が「分節」されて新しく生まれる--これが優れた芸術だ。
 それが「批判」という形で、たとえば「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」という形になってあらわれる。その奥にある「未分節」がなまなましく動いている。口語は、その「未分節」のものを「肉体」そのものとして、そこにあらわれる。そのことばを発した人の顔、肉体の動き、批判されている政府の顔、肉体も見えるでしょ?
 見えるものにどうしても視線はひっぱられるけれど、その見えるものの奥でうごめいている「あかるひめ……」という「分節」があってこそ、それは見えるようになっているのだ。



 例年、10月以降は詩集がたくさん出版される。なかなか読み進むことができないのだが、これはいい詩集だ。「現代詩手帖」12月号(年鑑)の展望で6冊の詩集をとりあげて感想を書いたのだが、この詩集をもっとはやく読んでいればと反省した。
 とても印象に残る詩集だ。


藁の服
中島 悦子
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(11)

2014-11-18 10:35:01 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(11)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はこの日記ではもっぱら谷川の詩について書いている。写真がいっしょになっていて、写真の方がページが多いのに写真のことは語っていない。引用がむずかしいから、どうしてもそうなってしまう。
 そして引用がむずかしいといえば、この本の「構成」そのものも引用がむずかしい。実際に本を手にしてもらうしかないのだが、そのむずかしい写真と構成のことを書いておきたい。以前書いたことにつながるのだが……。
 きのう読んだ「アンリと貨物列車」の裏側は空白である。空白だけれど、裏の文字は透けて見えない。不透明の白。あ、これは間違いで、紙が「不透明」なのだろうけれど。
 その白が、見開きの左の写真とつながっている。左の写真は白壁の向こうに消えていく豚の尻と尻尾と後ろ足。それを見ていると、右のページの空白は空白ではなく白壁にも見える。写真はパノラマのように見える。右はただ壁しか写っていないのだけれど。
 それはある意味では「無意味」。あるいは「中断」。
 こういうものがあると、ほっとするなあ。
 私はきのう私の「肉体」がすべての「もの」と「肉体」としてつながっているというようなことを書いたが、そのつながりはつながりのままではかなり窮屈。必要なときだけつながって、それ以外はつながっていないのがいいなあ。わがままな考えかもしれないけれど。そして、そのつながっていない感じ、「中断」(切断)した感じがあると、なんだかほっとする。
 この写真の右ページがそういうものかもしれない。
 「中断」といえば、豚の尻と尻尾も「中断」ではあるね。頭と前足が見えない。見えないけれど、それがあるとわかる--と書くとまたつながってしまう。そうではなくて、つながっているとわかっているけれど、それを「中断(切断)」して表現してしまう。そのときの「中断」をめざす(?)動きが、なんだかほっとする。
 それは「中断」されて(切断されて)も、そこに「充実」があるからかもしれない。
 写真というのは、切断(中断)され、そこで輝いている「もの/こと」だろうか。世界はどこまでもつづいている。それをカメラのフレームが強制的に切断し、そこに「もの/こと」をとらえてしまう。
 そういう写真が何枚かつづいて、ガラス窓をつたう雨粒の写真がある。その裏側は不思議な灰色、あるいは水色。雨粒が見ているガラスの色だろうか。雨粒がかかえてきた空の色を、雨粒はガラスに映して見ているのだろうか。どこから、何を見れば、その色が見えるのだろうか。肉眼で見る色ではなく、想像力で見る色かもしれない。

 で、想像力。

 灰色とも水色とも見える色の、その隣(左ページ)に「枯葉の上」という詩がある。いまは秋なので、そして町には街路樹が木の葉を落としているので、谷川がどの場所を書いているのかわからないが、私は私の知っている枯葉を思い浮かべながら読む。
 ことばを読む、あるいは写真や絵を見るとき、想像力で、そこにはない何かを見ている。そういう「飛躍」の踏み台になっているかもしれないなあ、あの水色(灰色)は、というようなことも私は考えたりするのだが……。
 詩に戻る。あるいは、詩へ進む。

散り敷いた枯葉の上に陽がさした
相変わらず見えないし聞こえもしないが
未知に近づいているせいか
タマシヒは謙虚になっている
とココロは思う

 二行目の「相変わらず見えないし聞こえもしない」とは何のことだろう。何が見えない、何が聞こえない? 「相変わらず」って、いつから?
 「タマシヒ」が見えない、聞こえない。「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」のは見える。そのとき、そこにある音がないとしたら、その「ない」が聞こえている。だから、町の風景ではない。それを見て、それをことばにしようとした何か--タマシヒが見えない、聞こえない。
 けれど、町を「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばにすることで、タマシヒはどこかに近づいていこうとしている。「未知」へ。まだ、ことばにできない、どこかへ。そして、その未知の中心(真実とか事実とか)に近づいているのだなと感じてタマシヒは謙虚になっている。
 と、「ココロは思う」。
 ココロにもタマシヒの姿は見えない、タマシヒの声は聞こえない。それはどこある? 見えないのだから、特定できない。でも、遠くにあって見えないのではない。聞こえないのではない。遠くだったら「感じる」ということもできないだろう。
 見えすぎる、聞こえすぎるのかもしれない。見えすぎ、聞こえすぎて、ココロにはタマシヒの見たもの、聞いたものが、ココロ自身が見聞きしたことのように思えるのかもしれない。錯覚してしまうのかもしれない。
 タマシヒはココロの内部、ココロの奥深くにあって、ココロを支えているのではなく、ココロに直にくっついているのかもしれない。すぐ背後にタマシヒはあって、それがそのままココロを直接動かして「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばになった。そのことばを聞きながら、ココロはタマシヒの「謙虚」を感じている。何も言わないので「謙虚」と感じているのかもしれない。
 ほんとうはココロとタマシヒが「距離のない」対話をしている。「一体」になっ「対話」している。「一体の対話」は「独白」の形になってしまうので、ココロにはそれがわからない。

枯葉を踏んで音もなく猫がやってきた
穏やかな一日があれば他に何も要らない
とタマシヒが囁(ささや)いたような気がして
ココロは朝の光に寄り添う

 対話することは、同時に「肉体」を寄り添わせることである。離れていては対話はできない。「一体」になっているココロとタマシヒは「寄り添う」必要はないのだけれど、「一体」ということについて考えるために、「寄り添う」ということばが必要なのだ。
 囁いたのはタマシヒか、ココロか、寄り添うのはココロかタマシヒか。区別の必要はない。別々の名前で区別することがあっても、それは便宜上のことだ。つながっているから「ひとつ」。その「ひとつ」になる瞬間を感じ取ればいいのだろう。
 で、タマシヒとココロが「ひとつ」になったとき、散った枯葉も、その上にさしてきた陽の光も、猫もみんな「ひとつ」になって、その「ひとつ」であることが「穏やか」ということだなあ、とわかる。

 あ、書き漏らした。
 「相変わらず」って、いつから? きっと最初から。それは「いつも」のことなのである。「不変」であり、それは「普遍」でもある。
 タマシヒはいつも動かない。だから見えないし、聞こえない。動いたときはココロと「一体」になっているので、ココロにはタマシヒが動いたとは感じられない。ココロが動いているだけで、タマシヒはココロの動きをじっと見ているだけ。じっと見ながら、タマシヒが「未知(永遠)」に近づいていく。ココロに従って「未知(永遠)」近づいていく。「謙虚」で「従順」なタマシヒ。

おやすみ神たち
クリエーター情報なし
ナナロク社

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行ってみるつもりなどなかった

2014-11-18 01:28:49 | 
行ってみるつもりなどなかった

行ってみるつもりなどなかった、
あることは知っていたが行ってみるまで存在することを考えたことがなかった。

丘の上の薬のにおう病室。窓の形をして光が床に広がっている。
ベッドの色と同じ、さびしい清潔。

どうして私が行ってはいけないということがあるだろう。
--その声を聞いているうちに深い尊敬が消えた。

黙っていることができずに同じ話、同じことばで攻撃するのだ。
繰り返すことでもうひとつの病室に閉じこもっていくようだった。



*

新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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