中島悦子『藁の服』(思潮社、2014年10月25日発行)
中島悦子『藁の服』には複数の文体がある。というか、複数の文体があるということが、この詩集の(中島自身の)文体(肉体)である。思想である。
「柩をめぐる」の書き出し。
ある「こと(もの)」がある。それは何だろうか。私は「もの/こと」としか思わない人間だが、中島は「批評ですか。批判ですか。」と考えている。さらにそれを言いかえて「芸術表現ですか」と言う。
そうか「表現」か。「表に表す」という「動詞(動き)」がそこにはある。背後にあるものを、「表」に「表す」、見えるようにする。「批評/批判」ならば、自分の「意見」を表に表す、わかるようにするということか。
「批評/批判/芸術」ということばのあいだにはさまれた「というか」ということばの方が重要かもしれない。
「もの/こと」を言いかえる。最初の「表現」では言い切れないものを、別の形で言いなおす。それは、隠れているものを、さらに表に出すということだ。
隠れているものを「表に出す」、さらにその「表に出したもの/こと」を、別の形で「表に出す」。その結果、そこに書かれていることは必然的に「複数」になる。(中島の文体(肉体)が複数で構成されているというのは、そういう意味である。)
これが中島のことばの「肉体」の動きの基本だと思う。つまり、思想の基本。
そして、そのときの特徴として、「これは、批評ですか。批判ですか。というか、芸術表現ですか、いわゆる。」という口語のリズムがある。口調がある。厳密に論理を組み立てて「結論」を提出するというよりも、その瞬間瞬間に、ぱっと別の角度からのことばをぶつける。そのフットワークの軽さ、フットワークの強さ、それが中島の「肉体」なのだと感じた。
「この抗議のスタイル……」にこめられた批評、批判、あるいは芸術。そこには「文語」ではなく「口語」が生きている。批評、批判というのは「表現」であり、「表現」は「文語(鍛えられた文章)」になることで「意味」が明確になり、そういうものが「芸術」と呼ばれたりするのだが、中島は、こういう「洗練」に抗議している。確立された「意味」ではなく、そういうものになる前の衝動(本能)のようなものを、次々に、奥から(あるいは別の角度から)ひっぱり出してきて、そのまま無軌道に動いていく。
洗練の拒否という洗練--ということもあるかもしれないが、私は、そんなふうに「芸術」に与するよりも、「無軌道」の力そのものを信じたい。
「だって、大衆のバスだよ、ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。」ということばにくっきりとあらわれている言ったあとで考える、その結果、「倒置法」になってしまうというような「口語」、倒置法によって念押しする力の入れ具合の見せ所--そういうものが、とてもおもしろい。
「神無月をめぐる」は東電福島第一原発の事故を描いているか。
「あかるひめ……」は牛の名前なのか、それとも古い伝承歌なのか、私にはちょっと分からないのだが、牛の名前と思っておく。
「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」も口語の批評、批判のひとつだが、私は、それよりも牛の名前の羅列の方が強烈な批判(芸術)になっていると思う。名前にはそれぞれ「過去」がある。その名前をつけたときの、飼い主の「思い」が「口語」として残っている。名前の「いわれ」を聞かれたら、それぞれあるだろうが、そういうことは言わずに「肉体」そのもので納得している「時間」がある。その名前といっしょに生きてきた「具体的な時間」がそこにある。「牛小屋に泊まって世話をしたこともありました。」というような、見えない「時間」がそこには動いている。
それが「あかるひめ……」のように、かなり複雑な「音(音楽)」そのものとして、変形できない形、強靱な結晶のようにして噴出してきている。名前だから「分節」されているのだけれど、その「分節」は、私のように実際にそこで牛を飼っていない人間には見えない。つまり「未分節」なものである。私にとっては「未分節」であるけれど、飼っていた人にとっては「分節」された世界。名前の数だけ、複数の「肉体」があるのだ。
私には「未分節」世界が、そこに「分節」されて、「ある」。それに触れた瞬間に、私の「未分節」が「分節」されて新しく生まれる--これが優れた芸術だ。
それが「批判」という形で、たとえば「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」という形になってあらわれる。その奥にある「未分節」がなまなましく動いている。口語は、その「未分節」のものを「肉体」そのものとして、そこにあらわれる。そのことばを発した人の顔、肉体の動き、批判されている政府の顔、肉体も見えるでしょ?
見えるものにどうしても視線はひっぱられるけれど、その見えるものの奥でうごめいている「あかるひめ……」という「分節」があってこそ、それは見えるようになっているのだ。
*
例年、10月以降は詩集がたくさん出版される。なかなか読み進むことができないのだが、これはいい詩集だ。「現代詩手帖」12月号(年鑑)の展望で6冊の詩集をとりあげて感想を書いたのだが、この詩集をもっとはやく読んでいればと反省した。
とても印象に残る詩集だ。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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中島悦子『藁の服』には複数の文体がある。というか、複数の文体があるということが、この詩集の(中島自身の)文体(肉体)である。思想である。
「柩をめぐる」の書き出し。
きらきら市役所の前に柩が置かれた。柩には、「生きながら、入り
ますか?」という張り紙がしてあった。きらきら市役所のシステム
は、すでに魂が抜けており、この事件をどのように対処すべきか分
からなかった。これは、批評ですか。批判ですか。というか、芸術
表現ですか、いわゆる。ついこの間の合併でできたばかりのきらき
ら市のシステムにとっては、まともに批判を受け入れることができ
るわけもない。結論は、所詮芸術ですから、表現の自由ですから、
とにかく自由におやりになれば。と言うが早いか、すぐさま柩は粗
大ゴミ置き場に直行させられた。
ある「こと(もの)」がある。それは何だろうか。私は「もの/こと」としか思わない人間だが、中島は「批評ですか。批判ですか。」と考えている。さらにそれを言いかえて「芸術表現ですか」と言う。
そうか「表現」か。「表に表す」という「動詞(動き)」がそこにはある。背後にあるものを、「表」に「表す」、見えるようにする。「批評/批判」ならば、自分の「意見」を表に表す、わかるようにするということか。
「批評/批判/芸術」ということばのあいだにはさまれた「というか」ということばの方が重要かもしれない。
「もの/こと」を言いかえる。最初の「表現」では言い切れないものを、別の形で言いなおす。それは、隠れているものを、さらに表に出すということだ。
隠れているものを「表に出す」、さらにその「表に出したもの/こと」を、別の形で「表に出す」。その結果、そこに書かれていることは必然的に「複数」になる。(中島の文体(肉体)が複数で構成されているというのは、そういう意味である。)
これが中島のことばの「肉体」の動きの基本だと思う。つまり、思想の基本。
そして、そのときの特徴として、「これは、批評ですか。批判ですか。というか、芸術表現ですか、いわゆる。」という口語のリズムがある。口調がある。厳密に論理を組み立てて「結論」を提出するというよりも、その瞬間瞬間に、ぱっと別の角度からのことばをぶつける。そのフットワークの軽さ、フットワークの強さ、それが中島の「肉体」なのだと感じた。
毒の雨は降る。堂々と。今となって隠すことは何もない。こんな雨
の日には、ショッキングピンクの長靴を膝まで履いた女が無言でバ
スに乗ってきて、つかまるところもなく立っている。この抗議のス
タイルを内閣総理大臣が見ることはない。だって、大衆のバスだよ、
ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。
(「屋根をめぐる」)
「この抗議のスタイル……」にこめられた批評、批判、あるいは芸術。そこには「文語」ではなく「口語」が生きている。批評、批判というのは「表現」であり、「表現」は「文語(鍛えられた文章)」になることで「意味」が明確になり、そういうものが「芸術」と呼ばれたりするのだが、中島は、こういう「洗練」に抗議している。確立された「意味」ではなく、そういうものになる前の衝動(本能)のようなものを、次々に、奥から(あるいは別の角度から)ひっぱり出してきて、そのまま無軌道に動いていく。
洗練の拒否という洗練--ということもあるかもしれないが、私は、そんなふうに「芸術」に与するよりも、「無軌道」の力そのものを信じたい。
「だって、大衆のバスだよ、ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。」ということばにくっきりとあらわれている言ったあとで考える、その結果、「倒置法」になってしまうというような「口語」、倒置法によって念押しする力の入れ具合の見せ所--そういうものが、とてもおもしろい。
「神無月をめぐる」は東電福島第一原発の事故を描いているか。
ふくこ はなこ ゆりこ うめやすふじ
きたふじ みどり さくら
毒を巻かれて、手放した牛たちの名前。あの子らの名前を忘れない
ようにしようと思って紙に書いて仮設の壁に貼りました。みんなか
わいくてしょうがない子たちだったのです。牛小屋に泊まって世話
したこともありました。
あの政府のほっとしたような顔を見ましたか? 毒と病気との因果
関係が証明されないという科学の報告書をもらった時の顔は、スロ
ーモーションで報道すべきでした。
あかるひめ しこぶち いづのめ うむぎひめ かやなるみ
わかむすび くくりひめ このはなちるひめ たけいわのたつ
てなづち おもいかね
「あかるひめ……」は牛の名前なのか、それとも古い伝承歌なのか、私にはちょっと分からないのだが、牛の名前と思っておく。
「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」も口語の批評、批判のひとつだが、私は、それよりも牛の名前の羅列の方が強烈な批判(芸術)になっていると思う。名前にはそれぞれ「過去」がある。その名前をつけたときの、飼い主の「思い」が「口語」として残っている。名前の「いわれ」を聞かれたら、それぞれあるだろうが、そういうことは言わずに「肉体」そのもので納得している「時間」がある。その名前といっしょに生きてきた「具体的な時間」がそこにある。「牛小屋に泊まって世話をしたこともありました。」というような、見えない「時間」がそこには動いている。
それが「あかるひめ……」のように、かなり複雑な「音(音楽)」そのものとして、変形できない形、強靱な結晶のようにして噴出してきている。名前だから「分節」されているのだけれど、その「分節」は、私のように実際にそこで牛を飼っていない人間には見えない。つまり「未分節」なものである。私にとっては「未分節」であるけれど、飼っていた人にとっては「分節」された世界。名前の数だけ、複数の「肉体」があるのだ。
私には「未分節」世界が、そこに「分節」されて、「ある」。それに触れた瞬間に、私の「未分節」が「分節」されて新しく生まれる--これが優れた芸術だ。
それが「批判」という形で、たとえば「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」という形になってあらわれる。その奥にある「未分節」がなまなましく動いている。口語は、その「未分節」のものを「肉体」そのものとして、そこにあらわれる。そのことばを発した人の顔、肉体の動き、批判されている政府の顔、肉体も見えるでしょ?
見えるものにどうしても視線はひっぱられるけれど、その見えるものの奥でうごめいている「あかるひめ……」という「分節」があってこそ、それは見えるようになっているのだ。
*
例年、10月以降は詩集がたくさん出版される。なかなか読み進むことができないのだが、これはいい詩集だ。「現代詩手帖」12月号(年鑑)の展望で6冊の詩集をとりあげて感想を書いたのだが、この詩集をもっとはやく読んでいればと反省した。
とても印象に残る詩集だ。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。