詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ギョーム・ガリエンヌ監督「不機嫌なママにメルシィ!」(★★)

2014-11-19 23:59:57 | 映画
監督 ギョーム・ガリエンヌ 出演 ギョーム・ガリエンヌ



 ギョーム・ガリエンヌの自伝の舞台を映画化したもの。ギョーム・ガリエンヌが本人とママの二役をやっている。このママをも演じてしまうところがこの映画のポイントで、それは映画だからこそできることなのだけれど。(舞台では、ひとりが二人として同時に存在することはできないからね。)そして、視線の演技など、芝居ではむずかしい部分が映画では救済されているというか、わかりやすくなっているのだけれど。
 うーん。そこが、つまらない。
 舞台を見ているわけではないのだが、この「芝居」がおもしろいとしたら、それはあくまで「語り/ことば」が想像力を刺戟してくるから。「語り/ことば」が舞台にはいないママを観客の想像力のなかに描き出すからだろう。
 それを先回りして、映像にしてしまっては、「ことば/語り」の魅力が半減してしまう。いや、9割減くらいになってしまう。想像力で映画に参加することができない。つまり、自分の人生を重ね合わせることができない。
 娘をほしがったママ、そのために娘として育てられた少年(青年)というような体験は特異なもので、そのまま自分の人生が重なる人などほとんどいないかもしれないが、ほとんど重ならないからこそ、重なる部分へ自分の体験を重ねるというのが「芸術」である。先日見た「レッド・ファミリー」だって、そういう「家族」を生きてきた観客はいないだろう。それでも自分の家族を重ねてみてしまう。家族という「関係」を見てしまう。
 この映画でも、女性観客は主人公にはなりきれないわけだから、自分自身の体験を重ねることができないようであって、実は重ねてみてしまう。人と人との関係、どんなふうにしてママが自分に影響を与えたか、ということを思い出してしまうはずである。
 で、そのとき、そこに主人公そっくりのママが出てきてしまっては、想像力の入り込む余地が少なくなる。ことばだけの方が、自分のママを、自分のなかにみつけることができる。
 人はだれでも他人を見ると同時に、その他人をとおして自分を見るのだと思う。そのときの関係が複雑になればなるほど、それは映画のように具体的な映像をもたない芸術、ことえば舞台に向いている。役者が再現できないもの(自分とママの二役)というものがあってこそ、その再現できないものを観客が想像力で再現してしまうというのが「芸術」の醍醐味である。省略と抽象のエネルギーが噴出するのは舞台の方であろう。
 私は目をつぶって、半分眠ってしまったが、眠らずにことばだけは聞くようにして見たらおもしろいかもしれない。スタンダップコメディーにして、舞台のストーリーにはなっていない部分を映像で見せるのもおもしろいと思う。舞台になっていることだけを映画にしているから退屈なのだと思う。
                      (2014年11月19日、KBCシネマ2)



 


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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(12)

2014-11-19 10:12:54 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(12)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「草木に」の右側は空白のページ(「枯葉の上」の裏側)。詩は、左ページの左端に印刷されている。多くの作品は、同じように「左詰め」で印刷されている。そのため、長い「空白」のあとに、ぽつりと洩らされたことば、という感じがしてくる。

祈ってもいいだろうか
草木に
神が見当たらぬまま
祈ってもいいだろうか
ただともに生きていたいと
無言の草木に
祈ってもいいのだろうか
今日の陽の光を浴びて
叶えられぬ明日を

 いろいろなことを思う。まず「神が見当たらぬまま」に少し驚く。そうか、「祈る」のは神に祈る、ということか。私は、神について真剣に考えたことがない。祈る、というのも真剣に祈ったことはないような気がする。でも、「神が見当たらぬまま」「祈ってもいいのだろうか」と悩む気持ちは、わかる感じがする。神の存在を信じていないから、なんとなく親近感を覚えるのかもしれない。妙な言い方だが。
 親近感を覚えるは、「草木に」祈る、ということにも関係する。私は「草」には何も感じないが、木には不思議な畏怖を感じる。ときどき木に引きつけられ、木に触ると落ち着く。だから神に祈るのではなく、木に祈る、というのはなんとなく、わかる。
 でも、何を祈るのだろうか。

ただともに生きていたい

 あ、これは「祈り」なのかなあ。
 「祈り」とは、何なのだろう。辞書(広辞苑)には「祈り」を「祈ること」、「いのる」を「言葉に出して、神仏から幸いを授けられるように願うこと」という具合に書いてあるが、「ただともに生きていたい」とは「神から授けられる幸い」なのかな?
 「辞書」通りには、ことばの「意味」は動かない。「辞書」は役だたない。
 「多々ともに生きていたい」は、誰かから授けられる幸福というものではないように私には思える。
 私には「祈り」というよりも「欲望」のように感じられる。「欲望」を語りかけてもいいかな、ということだろうか。
 でも、こう書いた瞬間に、「ただともに生きていたい」は「欲望」と呼んでいいのかな、という気持ちにもなる。
 「生きていたい」は究極の願い。夢。理想……。ことばが見つからないが。
 どんな思想も「人はどうしたら幸福に生きていけるか」ということにつながる。それにつながらない「思想」はない。そうすると、「ともに生きていきたい」は「思想」ということになる。

 人は「思想」を「祈る」のだ。

 で、この詩を読んで、そこに「神」を感じないけれど(谷川自身「神が見当たらぬ」と書いているが)、純粋な「思想」を感じる。そして、その「純粋な思想」を「神」であると感じる。
 あ、矛盾しているね。「神」を感じないけれど、「純粋な思想」に「神」と感じるというのは。「ともに生きていたい」と思うとき、人は「神」になるのかもしれない。知らずに、自分を超えて自分以外のものになる、と言えばいいのか。

 ことばにしようとすると、だんだん変な具合になってしまうが、あ、これ、わかる。そうだなあ、そんなふうに思う瞬間があるなあという気持ちは変わらない。
 かわらないのだけれど……。

叶えられぬ明日を

 この最終行は何だろう。とても不思議だ。このあとに、もう一度「祈ってもいいのだろうか」という行が省略されているのだと思うが、なぜ「叶えられぬ」? 不可能なことを「祈る」?
 考えるとわからない。
 けれど、考えないと、「わかる」。
 決して叶えられない。みんながともに生きて、ともに幸せになるというのは叶えられない夢である。だからこそ、それを願うのだ。そうあってほしい、それに近づきたいと思うのだ。
 この「願い」をしっかり「肉体」のなかに抱え込むとき、人はやっぱり、人であることを超えて「神」になるのかな? 「神」になれば「神が見当たらぬ」はあたりまえのことになるのかな。

 ことばを多く書きすぎてしまった。
 何も書かずに、ただ読み返せばいいのかもしれない。そうして、自分のことばを「空白」にして、ここにあることばになってしまえばいいのだろう。谷川の詩なのだけれど、谷川が書いたということも消してしまって。


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