詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤田晴央「深夜」、渡辺みえこ「森の吊り橋」、石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」

2014-12-09 10:55:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤田晴央「深夜」、渡辺みえこ「森の吊り橋」、石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤田晴央「深夜」(初出『夕顔』13年11月)。『夕顔』についての感想は書いたが、「深夜」について書いたかどうか覚えていない。闘病の妻を深夜トイレまでつれていく。そしてベッドにもどる。

終ったわよ
かぼそい声
しゃがんで
妻を抱えあげる
妻の重みを受け止めながら
横歩き
まだだよ
ベッドはまだだよ

白鳥は
去年おとずれた川に
その水のしとねに
着水した
家族とともに

 妻の介護と、白鳥の渡りが重なる。白鳥もまた「まだだよ/べっどはまだだよ」と励ましながら旅してきたのだろうか。長い旅を支えあい、「家族とともに」いつもの川にたどりついたときの喜び。同じように、藤田は妻を支えてベッドまでいっしょにたどりついたときの喜び、きょうもいっしょに生きているという喜びを静かに語っている。



 渡辺みえこ「森の吊り橋」(初出『空の水没』13年11月)は「あの吊り橋を渡ると死ぬ/と言われている」橋を書いている。

母が死に 父が死に 最後の肉親の弟も死んだ
私はその明け方
自分の体がとても軽くなったのを感じて
橋を渡ろう と決めた
細い吊り橋を渡っている間
今まで感じたことのない温かく優しいものに包まれ
涙が溢れ続けた

 「自分の体がとても軽くなった」ということばに、とてもひかれた。死ぬとは体が軽くなることなのか。重力から自由になることなのか。それで危ない吊り橋も渡ることができる。
 そのことに私は納得してしまったが、それはもしかすると「母が死に 父が死に 最後の肉親の弟も死んだ」という表現のなかにある「親密感」に納得したからかもしれない。最近、こういう書き方をする人は少ない。多くの人は「母が亡くなり 父が亡くなり 最後の肉親の弟も亡くなった」という具合に「死ぬ」のかわりに「亡くなる」をつかうことが多い。私は、どうも、そのことばになじめない。肉親や親しいひと(実際に交流がなくても親密に感じているひと)に対して「亡くなる」ということばをつかうと、なんだかよそよそしくて、実感がわかない。自分の「肉体」に衝撃がかえってこない。
 肉親(親しいひと)が死ぬというのは、自分の何か(自分とつながっている何か)が死ぬということ。自分が死ぬということ。--それは、「論理」にしてしまうと奇妙な感じになってしまうが、自分の肉体から自分の肉体の一部がなくなってしまい、そのぶんだけ肉体が「軽くなる」という感じ、ふわふわして落ち着かない感じともつながる。
 「自分の体がとても軽くなった」は、父、母、弟の死を「肉体」で体験した、実感したということなのだと思った。うまくいえないが、その「実感」に誘い込まれ、共感した。渡辺が「自分の体がとても軽くなった」と感じただけなのに、それが私の「感じ」のように思えた。父や母が死んだあとの、私の「肉体」の感覚を思い出したのである。

黒い森が優しく私に近づいてきた
透き通った香りがひりひりとしみ込んできた
幾筋もの細い月光が刺さっていたのかもしれない
それはあの世界なら痛み と言ったのかもしれない
あるいは眠り と言ったのかもしれない
言葉が必要のない世界で
私は月の光のようなもの 木の香りのようなものになって
溶けていくのを感じていた

 「あの世界」は「死後の世界(彼岸)」ではなく、いわゆる「此岸」。橋を渡って渡辺は死んでいるので、「此岸」と「彼岸」が逆になる。
 そこで渡辺は、自分の「肉体」を超える。渡辺の「肉体」は、月の光、木の香りのようなものになって、すべてと「溶け」あう。当然、そのとき渡辺は死んだ父、母、弟とも「溶け」あって「一体」になっている。
 この「一体感」のためには、私はやはり「死ぬ」という「動詞」が必要なのだと思う。誰かが「死ぬ」のではなく、自分が「死ぬ」。「死ぬ」ことで自分ではないものになる。たとえば月の光、木の香り。そうやって世界と一体になる。
 そういう体験(肉体の記憶)がここに書かれている。



 石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」(初出「詩客」13年12月27日)は旅行記になるのだろうか。

私たちロシア系ユダヤ人は
伝統として物や樹や雲や 小石の物語を
聴くのです。ですからクラースナヤ
プローシシャチに行くと、
ついあの壁たちに どんな音を聴いた
ことがあるのか 尋ねてみたくなります。

 「物や樹や雲や 小石の物語を/聴く」とは、物や樹や雲や小石が聴いてきた「物語(音)」を聴く、「他者の声」を聞くということなのだろう。「壁」そのものの「音」は、壁が聴いてきた音、壁が聴いてきた「物語」と重なる。区別がなくなる。
 同じように、石田がロシア系ユダヤ人から「声(物語)」を聴くとき、そしてそれを反復し、「ことば(日本語)」にするとき、それは石田自身の「声(物語)」となる。石田はロシア系ユダヤ人になって「壁の音(声)」を聞こうと欲望している。
 こういう「一体感」が、私は好きだ。

 こういう「一体感」の動く場で、「音(声)」が引き金のように動いているのも私にはとても納得できる。聴覚(耳)がつくりだす一体感。
 これは石田の詩は「音(物語)」という表現があるのでわかりすいが、渡辺の詩、藤田の詩もまた「音」を聴いていると思う。
 渡辺は「ある吊り橋を渡ると死ぬ/と言われている」という表現のなかに「ことば(声)」がある。藤田は白鳥の姿を見ているのではなく、「音」からその姿を想像している。「終ったわよ/かぼそい声」が白鳥の羽ばたきの音のように、生きている証の音の聞こえる。

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展望台で

2014-12-09 01:12:37 | 
展望台で

展望台でバスを待つあいだ、窓が見える。
目を閉じると、窓から見た展望台が見える。

あのときは銀杏の梢を気にしなかったが
展望台からだと、銀杏がなければと思ってしまう。

どの日々もわざと同じことを繰り返したように同じだった。
まるで一日くらいは正確に思い出せるようにと願っているように。

知っていたのだろうか、頭なかに描いた地図の道を通って、
その人のいる位置を避けてバスは走っていく。

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