杉本徹「ルウ、ルウ」、高階杞一「今朝の問題」、田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(「現代詩手帖」2014年12月号)
杉本徹「ルウ、ルウ」(初出『ルウ、ルウ』3月)に印象的な行がある。
「歌」が印象的である。「薄青い」を、もう一度「ほそい」と言いなおすところ、あるいはことばをつけくわえ補強するところが印象的で、その「いいなおし」あるいは「補強」が「歌」そのものであるようにも思える。
「薄青い」と「ほそい」は「意味」が違う。けれど、どこかに「共通する感覚」がある。「薄い」も「ほそい(細い)」も「弱い」印象がある。(もちろん薄くて細いものにも強靱なものはあるだろうが。)だから、そのことばが繰り返されたとき、「薄い」「ほそい」は消えて、何か違ったものになる。「共通する」新しい感覚になる。似通ったことばが繰り返されることで、まだことばにならない何かが「ことば」として動くのが感じられる。繰り返されると、ことばが何かを探している印象が強くなる。それは「ことば」というより「感情」なのかもしれない。「抒情」といってもいいかもしれない。で、その「ことばにならない感情(抒情)」が「歌」。
どういうことかと言うと……。
たとえばこの4行に「意味(ストーリー/脈絡)」はあるのか。あるかもしれない。でも、それは「書かれていない」。ストーリーはない。ただ、ことばが並べられている。ほとんどは名詞だが、名詞以外もある。
そして「意味」のかわりに「音」がある。
この「音」が「歌」なのである。「意味」とは無関係に響き、ひろがってくる音。その快感が「歌」である。
この「音」には最初に引用した「薄青い」「ほそい」とは別の「共通する感覚」がある。音の通い合いがある。広がりながらつくり出すメロディー、あるいは和音がある。「ちほうぎんこう」という音のなかにある「おう」の響きが随所に反響する。「ぎんこう」のなかの「濁音」も形をかえながら動いている。しかし、あまり「音」を強調し「音楽(器楽演奏)」にしてしまうのではなく、「声」で自然に再現できる「肉体の快感」にしているところが「歌」なんだなあ、と思う。(楽器の演奏も肉体でするから、そこにも肉体の快感はあるかもしれないが、自分の声を音楽にする快感とは別なものだと思う。)
どの「音」も読みやすい。私は音読をするわけではないが、読みやすく感じる。自然に喉や口蓋、舌、鼻腔が刺戟される。
聞いたことはないが、杉本は、きっといい声をしているにちがいない。張りのある艶やかな声をしているのだろう、と想像した。
*
高階杞一「今朝の問題」(初出『千鶴さんの脚』3月)は「意味」はわからないが、書かれている一行一行にわからないことは何も書かれていない。
「石」は何かの象徴か。わからない。ただ服を脱がせた少女(少年?)の上に石を置いていくという「動き」はわかる。何のために、そうするのか、それはわからないけれど。まあ、わからなくてもいいのが詩なのだから、これでいいのだろう。
高階は、意味よりもむしろ「もの/こと」を音のまま書き留めようとしているのかもしれない。「もの/こと」をことばにするときの、「肉体」への反響(反作用)のようなものを書こうとしているのかもしれない。「臍」ではなく「お臍」というときの「視線」のようなものをていねいに追っているのかもしれない。
で、この詩--好きか嫌いか。
私は、嫌い。特に、次の展開で嫌になった。
何だかレールの上に横たわって、電車が通過するのを待っている感じ。僕が君をレールの外にひっぱり出すのか(君にふれる)のか、君が自分から石を落として逃げ出すのか。そういう「チキンレース」を思い起こさせる。
何を思い起こさせてもいいのだろうけれど、「問題」を出したというのは、どこかで「答え」を用意しているということ。それが、なんとなく気に食わない。嫌い。
私(高階)は「答え」を知っている、だから「問題」を出してみた、という感じが嫌い。
*
田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(初出『ゲイ・ポエムズ』3月)の最後の部分。
「言葉以上に言葉」とはどういう「意味」だろう。わからないけれど、わかる。印象が強い。一度そのことばに出会ってしまうと、そのことばから離れられなくなる。ことばが「肉体」になってしまう、と私なら書く。「答え」は「肉体」になってしまっている。「問題」は出す前に、田中のなかで「答え」といっしょになって、区別ができなくなっている。どこまでが「問題」でどこからが「答え」なのか、もうわからない。
「意味」の句読点が消えてしまっている。そして、意味の句読点のかわりに「●」がある。「区別のない区切り」がある。「区別のない区切り」とは「矛盾」だが、矛盾だからこそ、それが詩なのである。
で、私は、さらに自分勝手に「誤読」する。
他人のことばが自分の「肉体」になってしまう。それを切り離すことは自分の「肉体」を傷つけることになる。痛い。切り離すと、痛い。この感じ。
田中は「涙が落ちました」と、その「痛み」をはっきり書いている。
杉本徹「ルウ、ルウ」(初出『ルウ、ルウ』3月)に印象的な行がある。
私は薄青い、ほそい歌を吊る。
私は薄青い、ほそい歌を吊る。
「歌」が印象的である。「薄青い」を、もう一度「ほそい」と言いなおすところ、あるいはことばをつけくわえ補強するところが印象的で、その「いいなおし」あるいは「補強」が「歌」そのものであるようにも思える。
「薄青い」と「ほそい」は「意味」が違う。けれど、どこかに「共通する感覚」がある。「薄い」も「ほそい(細い)」も「弱い」印象がある。(もちろん薄くて細いものにも強靱なものはあるだろうが。)だから、そのことばが繰り返されたとき、「薄い」「ほそい」は消えて、何か違ったものになる。「共通する」新しい感覚になる。似通ったことばが繰り返されることで、まだことばにならない何かが「ことば」として動くのが感じられる。繰り返されると、ことばが何かを探している印象が強くなる。それは「ことば」というより「感情」なのかもしれない。「抒情」といってもいいかもしれない。で、その「ことばにならない感情(抒情)」が「歌」。
どういうことかと言うと……。
地方銀行の漆喰の壁。さわぐ糸杉、の横貌。
明治通り、屋上の輪郭、寒暖計、マンホールの漣、……先
の知れない横断歩道を渡っていった。ガードレール、古着
屋、裁縫機械、西にひらく本の表紙。
たとえばこの4行に「意味(ストーリー/脈絡)」はあるのか。あるかもしれない。でも、それは「書かれていない」。ストーリーはない。ただ、ことばが並べられている。ほとんどは名詞だが、名詞以外もある。
そして「意味」のかわりに「音」がある。
この「音」が「歌」なのである。「意味」とは無関係に響き、ひろがってくる音。その快感が「歌」である。
この「音」には最初に引用した「薄青い」「ほそい」とは別の「共通する感覚」がある。音の通い合いがある。広がりながらつくり出すメロディー、あるいは和音がある。「ちほうぎんこう」という音のなかにある「おう」の響きが随所に反響する。「ぎんこう」のなかの「濁音」も形をかえながら動いている。しかし、あまり「音」を強調し「音楽(器楽演奏)」にしてしまうのではなく、「声」で自然に再現できる「肉体の快感」にしているところが「歌」なんだなあ、と思う。(楽器の演奏も肉体でするから、そこにも肉体の快感はあるかもしれないが、自分の声を音楽にする快感とは別なものだと思う。)
どの「音」も読みやすい。私は音読をするわけではないが、読みやすく感じる。自然に喉や口蓋、舌、鼻腔が刺戟される。
聞いたことはないが、杉本は、きっといい声をしているにちがいない。張りのある艶やかな声をしているのだろう、と想像した。
*
高階杞一「今朝の問題」(初出『千鶴さんの脚』3月)は「意味」はわからないが、書かれている一行一行にわからないことは何も書かれていない。
今朝はこの子にしてみよう
服を脱がせて
床に横たえ
その上に
黒い石を置いていく
まず右の太ももにひとつ
左の太ももにもひとつ
小さなかわいいお臍の上にもひとつ
「石」は何かの象徴か。わからない。ただ服を脱がせた少女(少年?)の上に石を置いていくという「動き」はわかる。何のために、そうするのか、それはわからないけれど。まあ、わからなくてもいいのが詩なのだから、これでいいのだろう。
高階は、意味よりもむしろ「もの/こと」を音のまま書き留めようとしているのかもしれない。「もの/こと」をことばにするときの、「肉体」への反響(反作用)のようなものを書こうとしているのかもしれない。「臍」ではなく「お臍」というときの「視線」のようなものをていねいに追っているのかもしれない。
で、この詩--好きか嫌いか。
私は、嫌い。特に、次の展開で嫌になった。
ここからが
今朝の問題
電車が次の駅に着く前に
僕が少しでも君にふれたら僕の負け
ひとつでも石を落としたら君の負け
何だかレールの上に横たわって、電車が通過するのを待っている感じ。僕が君をレールの外にひっぱり出すのか(君にふれる)のか、君が自分から石を落として逃げ出すのか。そういう「チキンレース」を思い起こさせる。
何を思い起こさせてもいいのだろうけれど、「問題」を出したというのは、どこかで「答え」を用意しているということ。それが、なんとなく気に食わない。嫌い。
私(高階)は「答え」を知っている、だから「問題」を出してみた、という感じが嫌い。
*
田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(初出『ゲイ・ポエムズ』3月)の最後の部分。
●言葉●
言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃな
かった●言葉以上に言葉だった!
「言葉以上に言葉」とはどういう「意味」だろう。わからないけれど、わかる。印象が強い。一度そのことばに出会ってしまうと、そのことばから離れられなくなる。ことばが「肉体」になってしまう、と私なら書く。「答え」は「肉体」になってしまっている。「問題」は出す前に、田中のなかで「答え」といっしょになって、区別ができなくなっている。どこまでが「問題」でどこからが「答え」なのか、もうわからない。
「意味」の句読点が消えてしまっている。そして、意味の句読点のかわりに「●」がある。「区別のない区切り」がある。「区別のない区切り」とは「矛盾」だが、矛盾だからこそ、それが詩なのである。
で、私は、さらに自分勝手に「誤読」する。
他人のことばが自分の「肉体」になってしまう。それを切り離すことは自分の「肉体」を傷つけることになる。痛い。切り離すと、痛い。この感じ。
●最近は●ぼくのほうばかり●幸
せにしてもらっているような気がします●あっちゃん●幸
せだよ●ずっといっしょだよ●愛してるよ●こんな言葉を
●ぼくはふつうに受けとめていました●ぜんぜんふつうの
ことじゃなかったのに●恋人の言葉に見合うだけの思いを
もって恋人に接していたか●いや●接していなかった●恋
人はその言葉どおりの思いをもって接してくれていたとい
うのに●そう思うと●自分が情けなくて●涙が落ちました
田中は「涙が落ちました」と、その「痛み」をはっきり書いている。
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