詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本徹「ルウ、ルウ」、田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」ほか

2014-12-18 10:18:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
杉本徹「ルウ、ルウ」、高階杞一「今朝の問題」、田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 杉本徹「ルウ、ルウ」(初出『ルウ、ルウ』3月)に印象的な行がある。

私は薄青い、ほそい歌を吊る。

私は薄青い、ほそい歌を吊る。

 「歌」が印象的である。「薄青い」を、もう一度「ほそい」と言いなおすところ、あるいはことばをつけくわえ補強するところが印象的で、その「いいなおし」あるいは「補強」が「歌」そのものであるようにも思える。
 「薄青い」と「ほそい」は「意味」が違う。けれど、どこかに「共通する感覚」がある。「薄い」も「ほそい(細い)」も「弱い」印象がある。(もちろん薄くて細いものにも強靱なものはあるだろうが。)だから、そのことばが繰り返されたとき、「薄い」「ほそい」は消えて、何か違ったものになる。「共通する」新しい感覚になる。似通ったことばが繰り返されることで、まだことばにならない何かが「ことば」として動くのが感じられる。繰り返されると、ことばが何かを探している印象が強くなる。それは「ことば」というより「感情」なのかもしれない。「抒情」といってもいいかもしれない。で、その「ことばにならない感情(抒情)」が「歌」。
 どういうことかと言うと……。

地方銀行の漆喰の壁。さわぐ糸杉、の横貌。

明治通り、屋上の輪郭、寒暖計、マンホールの漣、……先
の知れない横断歩道を渡っていった。ガードレール、古着
屋、裁縫機械、西にひらく本の表紙。

 たとえばこの4行に「意味(ストーリー/脈絡)」はあるのか。あるかもしれない。でも、それは「書かれていない」。ストーリーはない。ただ、ことばが並べられている。ほとんどは名詞だが、名詞以外もある。
 そして「意味」のかわりに「音」がある。
 この「音」が「歌」なのである。「意味」とは無関係に響き、ひろがってくる音。その快感が「歌」である。
 この「音」には最初に引用した「薄青い」「ほそい」とは別の「共通する感覚」がある。音の通い合いがある。広がりながらつくり出すメロディー、あるいは和音がある。「ちほうぎんこう」という音のなかにある「おう」の響きが随所に反響する。「ぎんこう」のなかの「濁音」も形をかえながら動いている。しかし、あまり「音」を強調し「音楽(器楽演奏)」にしてしまうのではなく、「声」で自然に再現できる「肉体の快感」にしているところが「歌」なんだなあ、と思う。(楽器の演奏も肉体でするから、そこにも肉体の快感はあるかもしれないが、自分の声を音楽にする快感とは別なものだと思う。)
 どの「音」も読みやすい。私は音読をするわけではないが、読みやすく感じる。自然に喉や口蓋、舌、鼻腔が刺戟される。
 聞いたことはないが、杉本は、きっといい声をしているにちがいない。張りのある艶やかな声をしているのだろう、と想像した。



 高階杞一「今朝の問題」(初出『千鶴さんの脚』3月)は「意味」はわからないが、書かれている一行一行にわからないことは何も書かれていない。

今朝はこの子にしてみよう
服を脱がせて
床に横たえ
その上に
黒い石を置いていく
まず右の太ももにひとつ
左の太ももにもひとつ
小さなかわいいお臍の上にもひとつ

 「石」は何かの象徴か。わからない。ただ服を脱がせた少女(少年?)の上に石を置いていくという「動き」はわかる。何のために、そうするのか、それはわからないけれど。まあ、わからなくてもいいのが詩なのだから、これでいいのだろう。
 高階は、意味よりもむしろ「もの/こと」を音のまま書き留めようとしているのかもしれない。「もの/こと」をことばにするときの、「肉体」への反響(反作用)のようなものを書こうとしているのかもしれない。「臍」ではなく「お臍」というときの「視線」のようなものをていねいに追っているのかもしれない。
 で、この詩--好きか嫌いか。
 私は、嫌い。特に、次の展開で嫌になった。

ここからが
今朝の問題
電車が次の駅に着く前に
僕が少しでも君にふれたら僕の負け
ひとつでも石を落としたら君の負け

 何だかレールの上に横たわって、電車が通過するのを待っている感じ。僕が君をレールの外にひっぱり出すのか(君にふれる)のか、君が自分から石を落として逃げ出すのか。そういう「チキンレース」を思い起こさせる。
 何を思い起こさせてもいいのだろうけれど、「問題」を出したというのは、どこかで「答え」を用意しているということ。それが、なんとなく気に食わない。嫌い。
 私(高階)は「答え」を知っている、だから「問題」を出してみた、という感じが嫌い。



 田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(初出『ゲイ・ポエムズ』3月)の最後の部分。

                      ●言葉●
言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃな
かった●言葉以上に言葉だった!

 「言葉以上に言葉」とはどういう「意味」だろう。わからないけれど、わかる。印象が強い。一度そのことばに出会ってしまうと、そのことばから離れられなくなる。ことばが「肉体」になってしまう、と私なら書く。「答え」は「肉体」になってしまっている。「問題」は出す前に、田中のなかで「答え」といっしょになって、区別ができなくなっている。どこまでが「問題」でどこからが「答え」なのか、もうわからない。
 「意味」の句読点が消えてしまっている。そして、意味の句読点のかわりに「●」がある。「区別のない区切り」がある。「区別のない区切り」とは「矛盾」だが、矛盾だからこそ、それが詩なのである。
 で、私は、さらに自分勝手に「誤読」する。
 他人のことばが自分の「肉体」になってしまう。それを切り離すことは自分の「肉体」を傷つけることになる。痛い。切り離すと、痛い。この感じ。

           ●最近は●ぼくのほうばかり●幸
せにしてもらっているような気がします●あっちゃん●幸
せだよ●ずっといっしょだよ●愛してるよ●こんな言葉を
●ぼくはふつうに受けとめていました●ぜんぜんふつうの
ことじゃなかったのに●恋人の言葉に見合うだけの思いを
もって恋人に接していたか●いや●接していなかった●恋
人はその言葉どおりの思いをもって接してくれていたとい
うのに●そう思うと●自分が情けなくて●涙が落ちました
     
 田中は「涙が落ちました」と、その「痛み」をはっきり書いている。

ゲイ・ポエムズ
田中 宏輔
株式会社思潮社
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冬の朝

2014-12-18 01:10:41 | 
冬の朝

最初に見つけたのはだれだろう、
ケヤキ、モミジと枯れた枝を飛び移りながら
あんなにもせわしなく情報交換をするみたいにさえずりあっていたのに、

いまは何を話していたのか忘れてしまったように無口になって、
ベランダに置かれた半分のミカンをつついているメジロが二羽。
私は、その夢中から何重も外側にいる。
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