詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中村和恵「氷湖」、中本道代「ふ ゆ」、北条裕子「無告」

2014-12-15 10:04:22 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中村和恵「氷湖」、中本道代「ふ ゆ」、北条裕子「無告」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中村和恵「氷湖」(初出『天気予報』2月)の書き出し。

雪が降るだけで南からきたひとは肩をすぼめるが
雪は はなやいでしずかなもの
雪の中なら何時間でもこうしていられる

 南からきたひとだった中村は、やがて雪の降る土地に住むようになる。雪に対する思いも変わっていく。その「時間」を次のように書く。

かれらのことばを話すことを習い覚え
でも湖に群れる鴨をつかまえようとするわたしの手はまぎれもなくひらがなのまるみにひらかれていて
ひらがなでもわかるのとわからないのはあるでしょう
もちろんそうです だいたいわからない
 だいたいはわたしの手の中で溶けてしまう
いつも一緒にいて四半世紀の時間が経って
それでも名も知らぬひとのまま
あなたは不思議な伴侶になった

 「伴侶」は人間か、あるいは「雪」のことをそう呼んでいるのかわからないが、書き出しが「ひと」なので「ひと」だろう。わかるようで、わからないが。
 その「わかるようで、わからない」という感じが「ひらがな」をめぐる行につまっている。その「わかる/わからない」のカギになっているのが「手」。
 鴨をつかまえる。そのとき手をどういう形にするか。これは「ことば」にするのが難しい。「ことば」にしないで、「肉体」で手本をみせて、その手本をまねる。ことばにしないで「肉体」でまねる。その「肉体」のなかに、「もう少し、こんなぐあいに」「いや、もっと丸く」というような、「その場」でしかわからないことが積みかさなる。ことばにはできないが、「肉体」で覚えてしまうことがある。
 「わかったのか」と聞かれれば、「だいたいわからない」のだが、「だいたいわからない」ということは、たいていの場合「ほとんどわかる」でもある。「肉体」は、まねした「肉体」のように動くのだから。動かせるだから。「だいたいわからない」と言ってしまうのは、教えてくれたひとの領域(?)にまでは達することができないからそう言うだけの「方便」である。何かの達人が、だいたいの仕事ができるひとに対して「まだまだだね」と言うのの裏返しだ。それはもう一度逆に言えば「だいたいわからない」と言えるくらいに中村の「手」の動きが、その土地のひとの動きに近づいているということでもある。わかればわかるほど「まだまだわからない(だいたいわからない)」と言うしかなくなる。
 そういうことが「ひらがな」ということばのまわりで書かれている。静かで、いい詩だなあ、と思った。



 中本道代「ふ ゆ」(初出「ユルトラ・パズル」22、2月)。私は、冬とか雪とかということばが出てくると、それだけで作品にひかれてしまう。

十二月の光が斜めに射して
白いカーテンで影絵が踊る
大気が冷えてもう何も暖めなくなった

 この3行目がいいなあ。北国の冬の、空気とものの関係が「もう何も暖めなくなった」に結晶のように硬く輝いている。
 でも、

ねずみが走る空き家の
窓辺に眠る幽霊
埃の積もった寝台で
何十年も前の夢をみ続け

水中で絡み合う根毛は
古い古い時代へ
原始の水を求めて伸びていく

 「空き家」のせいだろうか、「ねずみ」のせいだろうか。「暮らし」の感じが消えてしまって、空々しい。「大気が冷えてもう何も暖めなくなった」には、中村の書いていた「ひらがな」の感じがあったが、特に「もう」にはそれが濃厚に出ているのだが、2連目以降、その「ひらがな」の感じが消えてしまう。「絡み合う」ということばさえ、何にも絡みあっているようは感じられない。「観念」が「絡み合う」を偽装している。だから「原始」というような「何年前」かわからない「時」が出てくる。その1連前では「何十年」だったのが、次の連に行っただけで「原始」に変わる。こんな「時間旅行」は「肉体」にはできない。
 嘘っぽい--と私は感じる。
 タイトルを「ふゆ」ではなく「ふ ゆ」と1字あきにしたときから、中本の観念がことばをねじまげている。



 北条裕子「無告」(初出『花眼』)。

質問したいのです
光はいつまで黒いのですか?

 最終連の2行が印象的である。光はたいていの場合明るい。だから「黒い」というのは矛盾している。理不尽である。でも、そういう矛盾(理不尽)なことばを言わずにはいられない--というところへことばは動いている。
 「光はいつまで黒いのですか」という質問は、常識からすると「嘘」なのに、嘘っぽくない。中本は常識からすると嘘などひとことも書いていないのに(ねずみ、空き家、幽霊、埃という組み合わせは「常識」そのものであるし、「原始」という時代区分もちゃんとあるにもかかわらず)、嘘っぽいのと対照的である。
 なぜ、北条のことばは「非常識(光は黒い)」と書いても嘘にならないのか。

夕暮れて
歩いていたら
いつのまにか
見知らぬ原っぱに出た
「ここが世界の端っこです」と書かれた
立て札がたててある

それで供養のために 靴を 樹の枝にかけていると 百合が幾つもの方向に 顔を向けながら 乱れ咲いているに 気がついた 花のひとつと 目が合って この花にあうためにこれまで生きてきたことを 瞬時に 思い知らされる 冷たい刃で うっすらと 胸の奥をそがれる

 原っぱに「ここが世界の果てです」という立て札があるというのは、まあ、嘘である。本当にあったにしろ、そこが「世界の果て」であるわけではない。でも、その原っぱを「世界の果て」と思うことはできる。自分でそう思えば、自分にとってはそこが「世界の果て」である。北条は「主観」を生きているのである。「客観」を最初から無視して「主観」に忠実である。
 「主観」は嘘をつかない。嘘をつけないのが「主観」なのである。
 「主観」というのは「見通し」をもたない。その場その場で動くしかない。そういう状態が、「靴を 樹の枝にかけていると 百合が幾つもの方向に 顔を向けながら 乱れ咲いているに 気がついた」のなかに描かれている。「……していると、……と気がついた」。何かしながら、気持ちが変わっていく。何かしながら、それとは違う何かに「気づく」。この「いいかげんさ」(最初から、それに気づきたいわけではない、気づこうとしていたのではない、という意味だが……)が「主観」の動きの特徴なのだ。
 何かをしながら、別の何かに気がついていく。気づくとはもともとそういうことなのかもしれないが、それが自然にことばの運動になっている。だから、「光」が「黒い」と気がついても、変ではない。「光は黒くない」という「客観」など、北条は問題にしていない。
 百合に顔があり、目があるというのが北条の「主観」である。比喩のなかに「主観」の「思想」がある。
 「主観」の「正直」に会うのは、とてもうれしい。
 詩集で読んだときは、感動したという感じは残らなかったが、中本の詩のあとに読むと、北条の「正直」が伝わってきて、感動する。
 詩を読むのは、不思議な体験だ。
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