神山睦美がフェイスブック(https://www.facebook.com/mutumi.kamiyama)で、2014年12月06日(あるいは10月07日か)に、次の文章を書いている。私は目が悪くてインターネットの文章を読まないので(パソコンで書くのも一回40分と時間を限定している)、神山の書いていることの全体をつかみ損ねているかもしれないが、とても気になる表現があったので書いておく。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉があるが、これを「フクシマ以後、詩を書くことは野蛮である」と言い換えてみるならば、3・11以後いち早くツイッターで詩を発信し続けた和合亮一などは、まさに野蛮そのものであるということができる。しかし、和合亮一を批判する人たちは、そのようなアドルノの文脈を根拠にするということはなかった。要するに、3・11をきっかけに、量産された和合の作品は、詩として決してすぐれたものということが出来ず、作者をして詩の世界よりもマスメディアへの露出をうながしていくことになったといったものだった。
和合亮一を批判するとき、なぜアドルノの文脈が必要なのか。私はアドルノを一行も読んだことがない。神山がよく取り上げるほかの西洋の哲学者もほとんど読んだことがない。無知を自覚しながら書くのだが、疑問は、なぜ
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉があるが、これを「フクシマ以後、詩を書くことは野蛮である」と言い換えてみるならば
なのだろう。「アウシュビッツ」と「フクシマ」とどういう関係があるのだろう。「フクシマ」と神山が書いているのは東京電力福島原子力発電所の惨事を指していると思うのだが……。
そのあとの文章で神山は「3 ・11」とも書いている。東日本大震災の発生した日。東京電力福島原子力発電所の惨事は、大震災と津波が引き金である。自然現象が引き金である。それと「アウシュビッツ」という人間が引き起こした惨劇を結びつける理由がわからない。もし、「原子力発電所(原子力発電)」というものが人間がつくったもの、そこには人為があるというのなら、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」ではなく、
広島、長崎への原子力爆弾投下以後、詩を書くことは野蛮である
と一度書き換えてから(言いなおしてから)でないと、飛躍が大きすぎる。東京電力福島原子力発電所の惨事よりも、広島、長崎への原爆投下の方が世界の歴史においてもつながりが強い。第二次大戦という時間な関係が強い。
神山がアドルノに心酔していることは、神山の文章を読むと感じられるが、神山は、アドルノの文章を「広島、長崎への原子力爆弾投下以後、詩を書くことは野蛮である」と書き換えて(読み直して)、日本の詩、あるいは世界の詩、日本の文学、世界の文学を読み直したことがあるのだろうかと疑問に思う。読み直した上で、なおかつアドルノを根拠に神山は神山のことばを動かしているのだろうか。
アドルノが「詩」と呼んでいるものが、どういう詩なのか、神山の書いている今回の文章からだけでは把握できない。アドルノはどういう詩を書くこと「野蛮」と読んだのだろうか。その「具体例」を神山自身のことばで書いてもらいたい。
広島、長崎の原爆投下後、日本では何篇もの詩や小説、そのほかいろいろいな文章が書かれている。そういう詩を書くこと、小説を書くこと、文章を書くことは、「野蛮」なのか。「黒い雨」は「野蛮」なのか。原民雄の詩は「野蛮」なのか。
あるいは小説を書くことは「野蛮」ではないが、詩を書くことだけが「野蛮」なのか。そうであるなら、なぜ詩だけが「野蛮」と呼ばれなければならないのか。
アドルノのことは知らないが、アドルノは神山の書いている文脈から推定すると、第二次大戦のときヨーロッパにいたのだろう。そこでさまざまなことを体験し、そのひとつが「アウシュビッツ」だったと思う。アドルノは「体験」を踏まえて、自分のことばを紡ぎ出している。
そのアドルノから影響を受けたあと、神山は、自分の「体験」とことばを、どう紡ぎあわせたのだろう。アウシュビッツではなく、広島や長崎へ行ったみたか。日本で起きたことを、自分の「肉体」をくぐらせて想像し、そのうえで広島、長崎への原爆投下よりもアウシュビッツの惨劇こそが問題であると判断し、アウシュビッツから考えるということにしたのか。
そのとき、先に私が書いた日本の広島、長崎への原爆投下後に書かれた「日本語の文学」を、どう定義したのか。「文学」にかぎらず、「哲学」あるいは「思想」をどう判断したのか、私は、そのことを知りたい。
また「3・11」以後を問題にするなら、「1・17」以後はどうなのだろう。
関西大震災は津波と原発事故(惨事)はなかったが、やはり多くの犠牲者が生まれた。「1・17」以後、詩を書くことは「野蛮」なのだろうか。
季村敏夫の『日々の、すみか』は「野蛮」だったのか。季村は『日々の、すみか』で「出来事はおくれてあらわれる」と「事件」と「ことば(認識)」の問題を鋭く浮かび上がらせていた。それでも『日々の、すみか』は「野蛮」か。
あるいは、高橋順子の『海へ』の後半の詩篇は「3・11」以後の作品だが、やはり「野蛮」なのか。
和合亮一の書いた詩が「野蛮」であるとするなら、季村敏夫、高橋順子の詩と、どこが違うのか。どういう「詩」が、どういう「ことば」が「野蛮」であるのか。そのことを具体的に指摘しないで、アドルノの文脈を持ち出してきても、「批判」にはならないだろう。あるいは、季村や高橋の詩はアドルノの文脈とどうつながっているのかを明示しないことには、アドルノの文脈が和合の詩を批判するときに有効であるかどうかはわからない。神山にはわかっていることかもしれないけれど、私には神山がわかっていることがぜんぜん伝わってこない。神山はアドルノを信奉しているということ以外は。
アドルノは詩の何を批判したのか。自己の何を批判するために「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」ということばを必要としたのか。ことばはまず自分とむきあうためにある。そこにはアドルノ自身の「野蛮」批判がある。自分のなかにある「野蛮」を自覚し、そこから「野蛮」ということばをつかっているはずである。
アドルノが自己と向き合って発したことばと向き合うために、私たちは何に向き合わなければならないのか。「アウシュビッツ」はもちろん、その最初に向き合わなければならないものかもしれないが、アウシュビッツよりも、日本人には向き合わなければならない日本の現実がありはしないか。日本が(日本人が)体験したことを脇においておいて、アウシュビッツ、アドルノを考えても、それはアドルノとの「連帯(連携)」にはならないのではないか。アドルノの思想を引き継ぎ、現実に展開したことにならないのではないか。
さらに広島、長崎への原爆投下以後という問題のほかに、日本には「戦争責任」の問題がある。誰に責任があったのか。ドイツでは(ヨーロッパでは)、ヒトラーに責任があったということが明確になっている。
日本ではうやむやになっていないか。それは「野蛮」なことではないのか。
こういう問題を神山が神山自身のなかで解決済みなら、そこから和合亮一批判をした文章を、ぜひ、読んでみたい。和合の詩を評価したひとへの批判を、ぜひ、読んでみたい。
そういう問題を解決せずに、アドルノに頼っているのだとしたら、そのことばの射程はあまりにも狭すぎると思う。「西洋(現代)思想」の「文脈」のなかでだけで動いていることばで、日本の現実から離れすぎている。
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