詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アトム・エゴヤン監督「デビルズ・ノット」(★★★★)

2014-12-03 21:22:58 | 映画
監督 アトム・エゴヤン 出演 コリン・ファース、リース・ウィザースプーン

 映画がはじまってすぐ、映像が弱々しい感じなのに気がつく。アメリカの南部、メンフィスが舞台。私はメンフィスに行ったことがないので、その光、空気の感じを知っているわけではないのだが、映像が妙に薄ぼんやりしている。冬のニューヨークでも、もっと色彩はくっきりしている。どうしてこんなにぼんやりと、薄い感じ、リアリティーのない映像なのだろう。
 コリン・ファースも、ラウンド鬚のせいなのかぼんやりみえる。リース・ウィザースプーンは役作りで太ったのか、それともこういう体型になってしまったのかわからないが、以前のシャープな感じが消えてぼんやりしている。
 こういう「ぼんやり」した映像のなかで、幼いこども三人が殺害され、少年三人が逮捕され、裁判で有罪になるというストーリーが展開する。これがまた、なんともぼんやりしている。真実を追い詰めていくというよりも、少年三人が逮捕され、有罪の判決を受けたのだから、それで「事件」は解決した。「有罪」は「冤罪」かもしれないのに……。結末が「正義」で終わらないので、とても不全感が残る。
 これでいいのか。いいはずはないのだが、何か「ものごと」をはっきりさせようとする「意思」が見えない。その「はっきりさせない」を、カメラ(色彩計画)がそのまま「演技」して、「ぼんやり」した映像になっている。
 しかし、この「ぼんやりした映像」のなかで、徐々にくっきりしてくるものがある。「ことば」だ。少年三人が逮捕されるまでは、ことばもそんなに明確ではないのだが、裁判がはじまってしまうと「ことば、ことば、ことば」。映像ではなく、少年たちの「ことば」のなかから矛盾が浮かび上がる。検察の主張、警察の調書から、矛盾が浮かび上がる。証言が「事実」にあわない。そうわかると警察は誘導尋問で「ことば」を事実にあわせていく。そういう「冤罪の構造」が結末とは無関係にくっきりと見えてくる。
 うーん、これは映画を逆手にとった映画だなあ。映画は映像が勝負。映像を積み重ね、そのままでわからなかった「事実」を新しい映像で見せるもの。でも、この映画では「新しい事実(映像)」というものは、ない。映像の印象を消して、ことばが浮かび上がらせた矛盾だけを観客に残していく。あとは観客が自分で考えればいい、というように。
 で。
 この映画は、「冤罪」を告発しながら、それに結末をつけるかわりに、ちょっと恐ろしいことを浮かびあがらせる。「事件」以外に「未解決」のものがあることを語る。そっちの方に重点があったのだ、と見終わったあとでわかる。
 ほんとうに「未解決」なものは何か。それを語るシーンは「一瞬」だが、鮮烈だ。
 コリン・ファースは死刑反対論者。少年たちの冤罪を直感的に感じ、弁護しようとするのだが、実は弁護士の資格はもたない。だから法廷では何もできない。いろいろ調査をし、それを弁護士に「証拠」として届ける。ところが、裁判はなかなか思うような方向に動かない。それでコリン・ファースは弁護士に当たり散らしたりするのだが、そのとき弁護士が「そんなに言うなら弁護士資格を取って自分で弁護しろ。資格もないくせに」というようなことを口走る。
 偏見と差別意識。
 これが少年三人を「犯人」にでっちあげた「地域社会(住民)」だけではなく、弁護士のなかにもある。冤罪だとわかっているのに、それを晴らそうとはしない。裁判で国選弁護士(?)として弁護活動をして、おわり。結果がどうなろうと、真剣には気にしていない。弁護士資格をもたない人間でさえ、変だと思っているのに、弁護士がそのことを追及しない。
 弁護士はあからさまに少年を犯人だと主張しないが、明確に犯人ではないと主張するわけでもない。わかっているのに、行動しない。
 これが、こわい。
 リース・ウィザースプーンも裁判が変だと気がつく。少年たちは犯人ではないかもしれないと気がつく。だが、どうすることもできない。もしかすると夫が犯人かもしれないとさえ感じる。どう動いていいかわからない。自分から、夫が犯人かもしれないとどこかに言って出るわけにはいかない。こどもを殺され、悲しいのに、その悲しみをきちんと晴らすことができない。その悲しみを受け止めるものがない。コリン・ファースは「証拠」のようなものをリース・ウィザースプーンから渡されるが、裁判は終わってしまっていて、やはりどうすることもできない。
 「真実」がわかっていながら、そのわかっていることへ向かって行動できない。何かが、「正義」を疎外する。そういうものがある、ということを、この映画は「ぼんやり」した映像のなかで、とても小さな声で語る。
 こわい。
 「冤罪」は警察(検察)だけが作り上げるものではない、ということがこわい。表面的な「事実」の裏側に、人間の冷たい本性が隠れている、ということを、南部の暑い空気と色ではなく、まるで北国の冷たい空気のなかの色彩(輪郭のない映像)で、じわりに滲み出させる手法が、映画の全編を貫いている。
                      (2014年12月03日、KBCシネマ2)



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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)

2014-12-03 11:38:21 | 北川透『現代詩論集成1』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「失題」のあと、空を飛ぶ鳥の写真がつづいている。あるいは鳥が飛んでいる空の写真というべきなのだろうか。同じものなのだけれど、違うふうに言うことができる不思議さ。空と雲の色が、見たことがあるようで、ない色だ。でも、空だとわかる。雲だとわかる。鳥だとわかる。鳥の名前はわからないが……。
 どうして一枚ではないのだろう。何枚も同じ写真なのだろう。いや、どれも違う写真だけれど、なぜ同じ空、雲、鳥なのだろう。もしかすると、それまで見てきた様々な写真も、「同じ何か」を写したものだろうか。
 その空、雲、鳥の写真の裏に「眠気」という詩がある。裏が透けて見える紙質なのだが、空、雲が青と白と灰色の組み合わせてできているせいか、裏側から見ると「むら」は見えるけれど、色も形もよくわからない。
 「眠気」って、こういう感じ?
 いや、その隣(左ページ)の舗装された道路に広がる太陽の光、家(屋根)の影、舗装の段差の影の方が眠くなる感じかなあ。誰もいない。きっとみんな、家のなかで昼寝しているのだろう。
 私は意識を集中できない人間なのか、詩を読む前に、目に入った写真でぼんやりしてしまう。「眠気」という詩だから、こんな感じの方がいいかな?

どうしてこんなに眠いのだろう
山は寝そべっている
空も目をつぶっている
木々も立ったまま居眠りをしているようだ
人は昼間から我先に眠りこんで
大判小判の夢を見ている
私は世捨て人になりたいのだが
これも夢に過ぎないのか
眠気を抑えてひとまず
拾い集めた貝殻を捨てた
海を捨てるわけにはいかないから

 前半は、「眠気」そのもの。「山は寝そべっている」は「山眠る」ということばがあるから(意味は、違うんだけれど、冬の「季語」だけれど)、あるいは山の姿が寝そべった仏様の姿に似ているとかいう表現があるからか、すーっと山の形が見える。
 でも、「空は目をつぶっている」に驚く。えっ、空に目がある。驚きながら、その目はきっと「一つ目」だと思ってしまう。人間のように「ふたつの目」だとは思わない。「一つ目」という異常なものをすぐに思い浮かべるのは、どこかで「空の目」を見た記憶があるかならなのかなあ。
 「木々も立ったまま居眠りをしているようだ」。そうだなあ。山のように寝そべる形にはなれないなあ。
 ぼんやり、そんなことを考える。
 人が「大判小判の夢を見ている」というのは、俗っぽくて(?)、いいなあ。幸福だなあ。
 「空も目をつぶっている」というような、新鮮なことば、衝撃的なことばと、「大判小判の夢」という「常套句」のようなものが同居して動いていくところが谷川の詩のおもしろいところだと思う。
 「空も目をつぶっている」というようなかっこいい(印象的)な行を書いたあとだと、私は絶対に「大判小判の夢」なんてところへことばを動かしていかない。かっこいいものが、とたんに「凡庸」になる。「大判小判」じゃなくて、もっとかっこいいことば、独創的な夢を見ていると書きたい。
 でも、そういう「欲張り」はきっと「眠気」とは反対のものだ。「大判小判」だから、眠くなる。
 などと思いながら、うつらうつらしかける。この詩がおもしろいのか、つまらないか、感動しているか、感動とは無関係に惰性で読んでいるか(あ、谷川さん、ごめんなさい。でも、本はいつも真剣に読むとはかぎらない。惰性で読む、ということもあると思う)、わからなくなる。いいんだ、「眠気」という詩なんだから……。
 その「うつらうつら」が、最後で、目が覚める。うつらうつら、こっくりこっくりが、首が倒れすぎて衝動でぱっと体が反応して目が覚める感じ。うつらうつらの揺れが、机に頭をぶつけて、痛っ、という感じで目が覚める。

拾い集めた貝殻を捨てた
海を捨てるわけにはいかないから

 確かに貝殻を捨てることはできる。砂浜に。あるいは海のなかに。それができるのは、貝殻が私より小さいから。手で集めた貝殻は、手で放り投げて捨てることができる。でも、海は集めることができないから、捨てることもできない。
 驚く。--なぜ、驚いたのだろう。
 「論理的」なのだけれど、論理的ではない。
 いや、そんなことじゃないなあ、と思う。
 「海を捨てる」ということは最初からできない。「海を捨てる」は「論理」の外にある。論理にしてはいけない何かである。だから、ふつう、ひとはそれをことばにしない。
 よく見ると(読むと)谷川は「捨てることはできない」とは書いていな。捨てる「わけにはいかない」と書いている。
 「わけ」は「理由」かな? 「道理」かな? 「筋道」かな?
 「海を捨てることはできないから」と「できる」「できない」と書かれていたなら、それほど衝撃的ではなかったかもしれない。
 「わけ」という口語が、「わけ(理由/道理/筋道)」という「文語(ことばの意味?)をひっかきまわし、そこに「変な感じ」を呼び起こす。この「変な感じ」は、「変」ではあるけれど、納得できる「変」なのだ。
 変だね、私の書いていることは。

 ここには「わけのわからない」何かがある、と書いてしまうと「だじゃれ」になってしまうが、谷川のことばの運動には、こういう「わけのわからない」ものがある。「論理」を装いながら「論理」を超越し、「肉体」を揺さぶってくるものがある。
 「海を捨てる」という「動詞」のつかい方に気を取られてしまう。そして、そこにも谷川の「思想」があるのだろうけれど、私はその衝撃的な「意味」よりも「わけ」ということばのなかに、とても強く誘い込まれてしまう。

 谷川のことばには、何かいつも「道理」を考えているような、「ていねいさ」がある。「道理」を無視しない「肉体」がある。--突然、そんなことを思った。


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あのことば

2014-12-03 00:04:59 | 
あのことば

ノートにことばを書き散らしていく男のことを書いていたとき、
その男が、いま書いていることの三行目あたりで書かなければならない窓の描写の、
いちばん大切なことばが出でこないことを予感する。
何も起きないのだが、その起きないという同じことを、
窓の内側と窓の外側という違った視点で書くための、あのことば。
それからさらに先へ進んだところで男は、
出て来なかったことばを思い出したいと苦悩する、あのことば。

頭の中で血が沸騰して鼓膜のなかに響く。
ボールペンが勃起してインクが溶ける。

三日後にノートを開くと、熱かったことばが冷えて、
皿にこびりついた魚の脂のようにノートにこびりついて濁っている。
あのことばではないものが。



*

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