監督 アトム・エゴヤン 出演 コリン・ファース、リース・ウィザースプーン
映画がはじまってすぐ、映像が弱々しい感じなのに気がつく。アメリカの南部、メンフィスが舞台。私はメンフィスに行ったことがないので、その光、空気の感じを知っているわけではないのだが、映像が妙に薄ぼんやりしている。冬のニューヨークでも、もっと色彩はくっきりしている。どうしてこんなにぼんやりと、薄い感じ、リアリティーのない映像なのだろう。
コリン・ファースも、ラウンド鬚のせいなのかぼんやりみえる。リース・ウィザースプーンは役作りで太ったのか、それともこういう体型になってしまったのかわからないが、以前のシャープな感じが消えてぼんやりしている。
こういう「ぼんやり」した映像のなかで、幼いこども三人が殺害され、少年三人が逮捕され、裁判で有罪になるというストーリーが展開する。これがまた、なんともぼんやりしている。真実を追い詰めていくというよりも、少年三人が逮捕され、有罪の判決を受けたのだから、それで「事件」は解決した。「有罪」は「冤罪」かもしれないのに……。結末が「正義」で終わらないので、とても不全感が残る。
これでいいのか。いいはずはないのだが、何か「ものごと」をはっきりさせようとする「意思」が見えない。その「はっきりさせない」を、カメラ(色彩計画)がそのまま「演技」して、「ぼんやり」した映像になっている。
しかし、この「ぼんやりした映像」のなかで、徐々にくっきりしてくるものがある。「ことば」だ。少年三人が逮捕されるまでは、ことばもそんなに明確ではないのだが、裁判がはじまってしまうと「ことば、ことば、ことば」。映像ではなく、少年たちの「ことば」のなかから矛盾が浮かび上がる。検察の主張、警察の調書から、矛盾が浮かび上がる。証言が「事実」にあわない。そうわかると警察は誘導尋問で「ことば」を事実にあわせていく。そういう「冤罪の構造」が結末とは無関係にくっきりと見えてくる。
うーん、これは映画を逆手にとった映画だなあ。映画は映像が勝負。映像を積み重ね、そのままでわからなかった「事実」を新しい映像で見せるもの。でも、この映画では「新しい事実(映像)」というものは、ない。映像の印象を消して、ことばが浮かび上がらせた矛盾だけを観客に残していく。あとは観客が自分で考えればいい、というように。
で。
この映画は、「冤罪」を告発しながら、それに結末をつけるかわりに、ちょっと恐ろしいことを浮かびあがらせる。「事件」以外に「未解決」のものがあることを語る。そっちの方に重点があったのだ、と見終わったあとでわかる。
ほんとうに「未解決」なものは何か。それを語るシーンは「一瞬」だが、鮮烈だ。
コリン・ファースは死刑反対論者。少年たちの冤罪を直感的に感じ、弁護しようとするのだが、実は弁護士の資格はもたない。だから法廷では何もできない。いろいろ調査をし、それを弁護士に「証拠」として届ける。ところが、裁判はなかなか思うような方向に動かない。それでコリン・ファースは弁護士に当たり散らしたりするのだが、そのとき弁護士が「そんなに言うなら弁護士資格を取って自分で弁護しろ。資格もないくせに」というようなことを口走る。
偏見と差別意識。
これが少年三人を「犯人」にでっちあげた「地域社会(住民)」だけではなく、弁護士のなかにもある。冤罪だとわかっているのに、それを晴らそうとはしない。裁判で国選弁護士(?)として弁護活動をして、おわり。結果がどうなろうと、真剣には気にしていない。弁護士資格をもたない人間でさえ、変だと思っているのに、弁護士がそのことを追及しない。
弁護士はあからさまに少年を犯人だと主張しないが、明確に犯人ではないと主張するわけでもない。わかっているのに、行動しない。
これが、こわい。
リース・ウィザースプーンも裁判が変だと気がつく。少年たちは犯人ではないかもしれないと気がつく。だが、どうすることもできない。もしかすると夫が犯人かもしれないとさえ感じる。どう動いていいかわからない。自分から、夫が犯人かもしれないとどこかに言って出るわけにはいかない。こどもを殺され、悲しいのに、その悲しみをきちんと晴らすことができない。その悲しみを受け止めるものがない。コリン・ファースは「証拠」のようなものをリース・ウィザースプーンから渡されるが、裁判は終わってしまっていて、やはりどうすることもできない。
「真実」がわかっていながら、そのわかっていることへ向かって行動できない。何かが、「正義」を疎外する。そういうものがある、ということを、この映画は「ぼんやり」した映像のなかで、とても小さな声で語る。
こわい。
「冤罪」は警察(検察)だけが作り上げるものではない、ということがこわい。表面的な「事実」の裏側に、人間の冷たい本性が隠れている、ということを、南部の暑い空気と色ではなく、まるで北国の冷たい空気のなかの色彩(輪郭のない映像)で、じわりに滲み出させる手法が、映画の全編を貫いている。
(2014年12月03日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
映画がはじまってすぐ、映像が弱々しい感じなのに気がつく。アメリカの南部、メンフィスが舞台。私はメンフィスに行ったことがないので、その光、空気の感じを知っているわけではないのだが、映像が妙に薄ぼんやりしている。冬のニューヨークでも、もっと色彩はくっきりしている。どうしてこんなにぼんやりと、薄い感じ、リアリティーのない映像なのだろう。
コリン・ファースも、ラウンド鬚のせいなのかぼんやりみえる。リース・ウィザースプーンは役作りで太ったのか、それともこういう体型になってしまったのかわからないが、以前のシャープな感じが消えてぼんやりしている。
こういう「ぼんやり」した映像のなかで、幼いこども三人が殺害され、少年三人が逮捕され、裁判で有罪になるというストーリーが展開する。これがまた、なんともぼんやりしている。真実を追い詰めていくというよりも、少年三人が逮捕され、有罪の判決を受けたのだから、それで「事件」は解決した。「有罪」は「冤罪」かもしれないのに……。結末が「正義」で終わらないので、とても不全感が残る。
これでいいのか。いいはずはないのだが、何か「ものごと」をはっきりさせようとする「意思」が見えない。その「はっきりさせない」を、カメラ(色彩計画)がそのまま「演技」して、「ぼんやり」した映像になっている。
しかし、この「ぼんやりした映像」のなかで、徐々にくっきりしてくるものがある。「ことば」だ。少年三人が逮捕されるまでは、ことばもそんなに明確ではないのだが、裁判がはじまってしまうと「ことば、ことば、ことば」。映像ではなく、少年たちの「ことば」のなかから矛盾が浮かび上がる。検察の主張、警察の調書から、矛盾が浮かび上がる。証言が「事実」にあわない。そうわかると警察は誘導尋問で「ことば」を事実にあわせていく。そういう「冤罪の構造」が結末とは無関係にくっきりと見えてくる。
うーん、これは映画を逆手にとった映画だなあ。映画は映像が勝負。映像を積み重ね、そのままでわからなかった「事実」を新しい映像で見せるもの。でも、この映画では「新しい事実(映像)」というものは、ない。映像の印象を消して、ことばが浮かび上がらせた矛盾だけを観客に残していく。あとは観客が自分で考えればいい、というように。
で。
この映画は、「冤罪」を告発しながら、それに結末をつけるかわりに、ちょっと恐ろしいことを浮かびあがらせる。「事件」以外に「未解決」のものがあることを語る。そっちの方に重点があったのだ、と見終わったあとでわかる。
ほんとうに「未解決」なものは何か。それを語るシーンは「一瞬」だが、鮮烈だ。
コリン・ファースは死刑反対論者。少年たちの冤罪を直感的に感じ、弁護しようとするのだが、実は弁護士の資格はもたない。だから法廷では何もできない。いろいろ調査をし、それを弁護士に「証拠」として届ける。ところが、裁判はなかなか思うような方向に動かない。それでコリン・ファースは弁護士に当たり散らしたりするのだが、そのとき弁護士が「そんなに言うなら弁護士資格を取って自分で弁護しろ。資格もないくせに」というようなことを口走る。
偏見と差別意識。
これが少年三人を「犯人」にでっちあげた「地域社会(住民)」だけではなく、弁護士のなかにもある。冤罪だとわかっているのに、それを晴らそうとはしない。裁判で国選弁護士(?)として弁護活動をして、おわり。結果がどうなろうと、真剣には気にしていない。弁護士資格をもたない人間でさえ、変だと思っているのに、弁護士がそのことを追及しない。
弁護士はあからさまに少年を犯人だと主張しないが、明確に犯人ではないと主張するわけでもない。わかっているのに、行動しない。
これが、こわい。
リース・ウィザースプーンも裁判が変だと気がつく。少年たちは犯人ではないかもしれないと気がつく。だが、どうすることもできない。もしかすると夫が犯人かもしれないとさえ感じる。どう動いていいかわからない。自分から、夫が犯人かもしれないとどこかに言って出るわけにはいかない。こどもを殺され、悲しいのに、その悲しみをきちんと晴らすことができない。その悲しみを受け止めるものがない。コリン・ファースは「証拠」のようなものをリース・ウィザースプーンから渡されるが、裁判は終わってしまっていて、やはりどうすることもできない。
「真実」がわかっていながら、そのわかっていることへ向かって行動できない。何かが、「正義」を疎外する。そういうものがある、ということを、この映画は「ぼんやり」した映像のなかで、とても小さな声で語る。
こわい。
「冤罪」は警察(検察)だけが作り上げるものではない、ということがこわい。表面的な「事実」の裏側に、人間の冷たい本性が隠れている、ということを、南部の暑い空気と色ではなく、まるで北国の冷たい空気のなかの色彩(輪郭のない映像)で、じわりに滲み出させる手法が、映画の全編を貫いている。
(2014年12月03日、KBCシネマ2)
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