詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「1対1」

2014-12-16 17:13:45 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「1対1」(WEB版「朝日新聞」http://www.asahi.com/special/politas/tanikawa/)

 衆院選に合わせて、谷川俊太郎が詩を書いている。「1対1」。選挙の詩なのに、詩に対する谷川の考えが書かれている。

事前投票に行った
空いていて気持ちよかった
立ち会いの女性たちに優しくされた
会ったことのないたった一人の名前を書いた
書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが
無効になりそうだからやめた
投票は数で決まる
でも詩は数で決まらない質で決まる
作者と読者が1対1だ
投票も私と候補者が1対1だ
と勝手に考えて帰ってきた

 詩は「作者と読者が1対1だ」。その通りだと思う。その通り、というだけのために、私はきょうの「日記」を書いている。
いろいろな媒体でいろいろな批評が書かれている。そのなかに、ときどき非常に違和感を覚える批評がある。その詩とは関係ない(と、私には思える)外国の思想家のことばが引用され、詩の意味(思想?)が位置づけられる。その思想家が、その詩について(あるいはその詩が描いている事実について)何か発言しているなら、その詩への言及に思想家のことばが引用されるのはわかるけれど、そうでないなら、なぜ? なぜ引用し、そのことばで、詩と結び続けるのだろう。それでは詩そのものの評価というより、引用した思想家を頂点とするヒエラルキーにその詩を組み込んだだけということにならないか。詩と一対一で向き合うというより、思想家と徒党を組んで二対一で向き合うことにならないか。さらに二対一から「三」になることをもくろんでいないか。「多数決」を目指していないか。「三」になったから「一」の主張(評価)より正しい、という変なイデオロギーが潜んでいないか。
私の「誤読」かもしれないが。
さて、この詩。
「事前投票」。谷川さん、ことばが古いよ。いまは「期日前投票」と言うよ、と少し突っ込みを入れてみる。「立ち会いの女性たちに優しくされた」は本当かな? そう書いた方が、男のこころ(谷川のこころ)をくすぐるからかな? 谷川の声というより、「世間の声(常套句)」が聞こえる。シェークスピアは常套句だけで芝居を書いたといわれるけれど、谷川も「世間の声」で詩を書く。自分の声だけで書こうとはしていない。私にはそう思える。この詩で「谷川の声」と言えるのは「詩は数で決まらない質で決まる/作者と読者が1対1だ」だけで、あとは「世間の声」と言ってもいいと思う。
 「世間の声」に自分の声を紛れ込ませ、すーっと「世間」へ入って行くのが谷川なのだと思う。「書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが/無効になりそうだからやめた」というユーモアも「本当」というより「世間」へのサービス。笑うと、自然にそのあとのことばも笑わせてもらえるんじゃないかなと思って読んでしまうからね。
 最後の方の「投票も私と候補者が1対1だ」は、ちょっと切ない。「1対1」で希望をたくすのだけれど、それが「世間」にまで育つかどうか、わからない。わからないけれど、そうするしかない。


自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御庄博実「目を取り換える」、稲川方人「やわらかいつちをふんで、」ほか

2014-12-16 11:52:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
御庄博実「目を取り換える」、稲川方人「やわらかいつちをふんで、」、稲葉真弓「金色の午後のこと」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 御庄博実「目を取り換える」(初出「いのちの籠」26、2月)は「意味(メッセージ)の強い作品。

目を取り換えて いま見えてきたものは何か
曖昧な画像と 混迷する原発隠し
曖昧な活字と 曖昧な報道の裏側
首相自らトップセールスを続ける「原発」
与野党協議と言う秘密保護法案
戦争への地均しが 報道管理のもとで進んでいる
二〇二〇年のオリンピックに浮かれていいか
国家安全保障(NSC)と言う外国への軍事派遣でいいか
TPP参加と言う この国の基本を突き崩していいか

目を取り換えろ
過去を振り返って未来を見つめる目だ
日本の近現代史をめくりなおさねばならん
戦争への道のヴェールをはがせ

 主張はわかるが、これでは安倍政権に利用されるだけだろう。「過去を振り返って未来を見つめる」、その結果「秘密保護法」が必要、「NSC」が必要という安倍は言っている。さらに原発再稼働が必要、オリンピックが必要と言っている。そして、多くのひとが民主党に期待していた「目を取り換えて」、安倍を見つめている。
 「目を取り換えろ」というだけではだめなのである。「目を取り換える」と何が見えるかを具体的に書かないと、他人には御庄の「見えているもの(見ているもの)」が見えない。
 今回の選挙で、民主党は安倍政権の嘘を攻撃していた。雇用者が増えているというけれど、正規雇用が減り非正規雇用が増えている。その結果、雇用者の総数が増えていると説明している。それは正しい。けれど、その先をもう一歩、攻撃しないといけない。正規雇用を減らし非正規雇用を増やすことで、企業の利益はどうなったか、を数字で示さないと批判にならない。50万円で正規雇用者50人をかかえている企業が、雇用形態を見直し正規雇用20人(1人60万円)非正規雇用40人(1人20万円)にした場合、会社の支払い賃金は50万円も節約できる。そういうことを明確にしないと、「正規雇用の賃金は増やしました、雇用者総数は増やしました、これで景気回復への期待できます」という論法に飲み込まれてしまう。
 「目」というのは「思想」であり、「思想」とは具体的なもの(ひとの数、賃金など)でできている。それは具体的に指摘しない限り、見えない。
 先の簡単な算数のつづきを書くと、節約した(50万円)はどこへ行ったのか。単に会社のオーナーが儲けただけなのか。そこから自民党へいくら流れたのか。そういうことまで追及しないと、「事実」はわからない。私は説明を簡単にするために「50人」という数字を例にしたが、これを「1000人」「3000人」にしたらどうなるか考えると、アベノミクスの本質が見える。格差拡大の「構造」が見えてくる。一般市民には調べられないことを資料をそろえて分析し、問題点を明確にするのが「国会議員(政党)」というものだろうと思う。
 あんな甘い追及の仕方だから、多くのひとが民主党を見限ったのだ。
 脱線したが、「目を取り換えろ」では、「メッセージ」にはならない、と私は思う。「意味」を伝えているつもりだろうが、具体的事実がないので、そのまま安倍政権に利用されてしまうと私は思う。



 稲川方人「やわらかいつちをふんで、」(初出「花椿」3月号)を読みながら不思議な気持ちになった。
 私は稲川の作品は苦手である。どの作品を読んでも、さっぱりわからない。ただし平出隆の作品を読んだあと、つづけて稲川の詩を読むと、「わかる」。「わかる」というよりも、あ、こんなことばの動かし方は平出のことばの動かし方から見ると「天才の仕事」に見えるだろうなあ、と「感じる」。平出のことばの動きが私の「肉体」のなかに残っていて、それが鳴り響いているときは、わからないのに「稲川のすごいなあ」と思ってしまう。
 どんなことばのなかにいたか、何を読んだあとか、ということによって詩の感想は違ってしまう。
 で、今回、御庄の「メッセージ」を読んだ直後に稲川の詩を読むと、それこそ「目が取り換えられた」ように新鮮に、美しく見える。センチメンタルな感じがくっきり伝わってくる。

草むらから若い花を摘んで声をあげた僕の母は
     坂道の空の 遠い蜃気楼  一途にプリズムの
      よう
           母のくれた小さなガラス玉が
   ずっと向こうの夜へ転がって行くから  僕は ね
        光りの射す絵の中に もうすぐ帰ろう

 「若い花」を摘んでいるのは「若い」母だろう。したがって「僕」もそのときは「若い(幼い)」。いまはその記憶が「ずっと向こうの夜」のように遠い。「僕」はその記憶を思い出している。そして、そのことを「記憶(光の射す絵)」の中へ「帰る」という動詞で語り直されている。
 へええっ、稲川ってこういう詩を書いていたのだっけ?
 私は稲川の詩は何も覚えていない。苦手だなあ、という印象だけを覚えているので驚いた。
 驚きながら、少し気持ち悪くも感じた。特に「ずっと向こうの夜へ転がって行くから  僕は ね」の、一呼吸おいたあとの「ね」の音が不気味である。そんなふうに粘っこく「肉体」を押しつけてこないでほしい、と身構えてしまった。センチメンタルは「精神」のなかだけを走り抜けるとなつかしい感じがするが、そこに「肉体(なまの声)」がからみついてくると、何だか気持ちが悪い。
 これは、単に私の「好み」の問題なのだろうけれど。



 稲葉真弓「金色の午後のこと」(初出『連作・志摩 ひかりへの旅』3月)は一瞬一瞬過ぎ去る「とき」のことを書いている。--その「とき」を稲葉は、「均一」に流れるものと要約している。ふつう、こんなふうに「要約」してしまうと味気なくなってしまうのだが……。

ぽかんと口を開いていた午睡のときにも
ときは均一に流れていて
ああ なんてのんきだったんだろうと思っても
もう遅い あの幸福な午後
かといって午睡以外になにができただろう
半島の庭のスズメたちの優しいついばみに魅入る目が
いつしか眠りに誘われたからといった

浜尾さんちのクレソンが一気に伸びた朝も
ビニールハウスのなかにときは流れ
窓辺にメジロの素早い飛翔が見えた朝も
翼はときの重力を必死にかきまぜていたのだ

 具体的に「スズメ」や「クレソン」「ビニールハウス」「メジロ」が書かれているので、その「均一」がそれぞれ「個別」に輝いて見える。「均一」は実は違うものの存在を意識するときに、その「奥」に存在するものとして見えてくる。「均一」というような「観念」は肉眼では見えないが、それがスズメ、クレソン、ビニールハウスという個別のものを凝視するときに、目をつきやぶって動く。
 そうか、稲葉には、スズメやクレソン、メジロの動きが見えるとき、この世界をささえている「とき」が見えるのだとわかる。
 稲葉の「目」を感じる。「肉眼」を感じる。それは稲葉の「肉体」を感じるということ、「思想」を感じるということ。

御庄博実詩集 (現代詩文庫)
御庄 博実
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

階段を降りる

2014-12-16 01:07:54 | 
階段を降りる

地下鉄が突然止まった日、
エレベーターのなかで閉じ込められた人がいた。
それはあとで知ったことだ。
私はだひたすら私は階段を降りた。
もうひとつ下のホームからは別の地下鉄が動いている。
それに乗って、三つ先の駅で乗り換えるために階段を降りる。
エスカレーターでは人を何人も追い抜いた。
私は遅れてはならない。
私にとってはいちばん大事な日だ。
そんなことを知っているひとはいない。
エレベーターに人が閉じ込められていることを私が知らないように。
私は、あのひとならどう考えるだろうかと考えながら、
考えが考えにつまずいていると考えていらいらした。
さらに乗り換えの地下鉄に乗るために
さらにさらに深いホームを目指し、また階段を降りる。
この上には名前の知らない川の底がある。
その次の乗り換え駅の地上にはロータリーがあって
タクシーがぐるぐるまわっている。
その円を激しく拡大した環状の地下鉄に乗って
私はいかなければならない。
そう考えてまた階段を降りる。
もうどこまで深く降りたかわからない。
地上に出るために何段階段を上がらなければならないのか
考えると怖くなるので、また階段を降りる。


*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする