谷川俊太郎「1対1」(WEB版「朝日新聞」http://www.asahi.com/special/politas/tanikawa/)
衆院選に合わせて、谷川俊太郎が詩を書いている。「1対1」。選挙の詩なのに、詩に対する谷川の考えが書かれている。
事前投票に行った
空いていて気持ちよかった
立ち会いの女性たちに優しくされた
会ったことのないたった一人の名前を書いた
書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが
無効になりそうだからやめた
投票は数で決まる
でも詩は数で決まらない質で決まる
作者と読者が1対1だ
投票も私と候補者が1対1だ
と勝手に考えて帰ってきた
詩は「作者と読者が1対1だ」。その通りだと思う。その通り、というだけのために、私はきょうの「日記」を書いている。
いろいろな媒体でいろいろな批評が書かれている。そのなかに、ときどき非常に違和感を覚える批評がある。その詩とは関係ない(と、私には思える)外国の思想家のことばが引用され、詩の意味(思想?)が位置づけられる。その思想家が、その詩について(あるいはその詩が描いている事実について)何か発言しているなら、その詩への言及に思想家のことばが引用されるのはわかるけれど、そうでないなら、なぜ? なぜ引用し、そのことばで、詩と結び続けるのだろう。それでは詩そのものの評価というより、引用した思想家を頂点とするヒエラルキーにその詩を組み込んだだけということにならないか。詩と一対一で向き合うというより、思想家と徒党を組んで二対一で向き合うことにならないか。さらに二対一から「三」になることをもくろんでいないか。「多数決」を目指していないか。「三」になったから「一」の主張(評価)より正しい、という変なイデオロギーが潜んでいないか。
私の「誤読」かもしれないが。
さて、この詩。
「事前投票」。谷川さん、ことばが古いよ。いまは「期日前投票」と言うよ、と少し突っ込みを入れてみる。「立ち会いの女性たちに優しくされた」は本当かな? そう書いた方が、男のこころ(谷川のこころ)をくすぐるからかな? 谷川の声というより、「世間の声(常套句)」が聞こえる。シェークスピアは常套句だけで芝居を書いたといわれるけれど、谷川も「世間の声」で詩を書く。自分の声だけで書こうとはしていない。私にはそう思える。この詩で「谷川の声」と言えるのは「詩は数で決まらない質で決まる/作者と読者が1対1だ」だけで、あとは「世間の声」と言ってもいいと思う。
「世間の声」に自分の声を紛れ込ませ、すーっと「世間」へ入って行くのが谷川なのだと思う。「書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが/無効になりそうだからやめた」というユーモアも「本当」というより「世間」へのサービス。笑うと、自然にそのあとのことばも笑わせてもらえるんじゃないかなと思って読んでしまうからね。
最後の方の「投票も私と候補者が1対1だ」は、ちょっと切ない。「1対1」で希望をたくすのだけれど、それが「世間」にまで育つかどうか、わからない。わからないけれど、そうするしかない。
衆院選に合わせて、谷川俊太郎が詩を書いている。「1対1」。選挙の詩なのに、詩に対する谷川の考えが書かれている。
事前投票に行った
空いていて気持ちよかった
立ち会いの女性たちに優しくされた
会ったことのないたった一人の名前を書いた
書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが
無効になりそうだからやめた
投票は数で決まる
でも詩は数で決まらない質で決まる
作者と読者が1対1だ
投票も私と候補者が1対1だ
と勝手に考えて帰ってきた
詩は「作者と読者が1対1だ」。その通りだと思う。その通り、というだけのために、私はきょうの「日記」を書いている。
いろいろな媒体でいろいろな批評が書かれている。そのなかに、ときどき非常に違和感を覚える批評がある。その詩とは関係ない(と、私には思える)外国の思想家のことばが引用され、詩の意味(思想?)が位置づけられる。その思想家が、その詩について(あるいはその詩が描いている事実について)何か発言しているなら、その詩への言及に思想家のことばが引用されるのはわかるけれど、そうでないなら、なぜ? なぜ引用し、そのことばで、詩と結び続けるのだろう。それでは詩そのものの評価というより、引用した思想家を頂点とするヒエラルキーにその詩を組み込んだだけということにならないか。詩と一対一で向き合うというより、思想家と徒党を組んで二対一で向き合うことにならないか。さらに二対一から「三」になることをもくろんでいないか。「多数決」を目指していないか。「三」になったから「一」の主張(評価)より正しい、という変なイデオロギーが潜んでいないか。
私の「誤読」かもしれないが。
さて、この詩。
「事前投票」。谷川さん、ことばが古いよ。いまは「期日前投票」と言うよ、と少し突っ込みを入れてみる。「立ち会いの女性たちに優しくされた」は本当かな? そう書いた方が、男のこころ(谷川のこころ)をくすぐるからかな? 谷川の声というより、「世間の声(常套句)」が聞こえる。シェークスピアは常套句だけで芝居を書いたといわれるけれど、谷川も「世間の声」で詩を書く。自分の声だけで書こうとはしていない。私にはそう思える。この詩で「谷川の声」と言えるのは「詩は数で決まらない質で決まる/作者と読者が1対1だ」だけで、あとは「世間の声」と言ってもいいと思う。
「世間の声」に自分の声を紛れ込ませ、すーっと「世間」へ入って行くのが谷川なのだと思う。「書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが/無効になりそうだからやめた」というユーモアも「本当」というより「世間」へのサービス。笑うと、自然にそのあとのことばも笑わせてもらえるんじゃないかなと思って読んでしまうからね。
最後の方の「投票も私と候補者が1対1だ」は、ちょっと切ない。「1対1」で希望をたくすのだけれど、それが「世間」にまで育つかどうか、わからない。わからないけれど、そうするしかない。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫) | |
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