井坂洋子「からだ」(「現代詩手帖」2014年12月号)
井坂洋子「からだ」(初出「一個」4、13年11月)は「文体」ががっしりしている。悠然としている。強靱である。--何が書いてあるか、ということを感じる前に「文体」の強さを感じる。
何が書いてあるのだろう。具体的な手がかりはあるのか、ないのか。「死/時間/生命/涙」ということばをつなげて、私は、「わたし(井坂、と仮定しておく)」が誰かの死に出会ったのだろうかと想像した。人の死に出会い、死について思いを巡らしている。涙を流したが、その流した理由(ともに過ごした「時間」の思い出)がうまくことばにならず、ことばとしてまとまらず、ただセキになって体の外にあふれる。声を上げて泣きたいが、泣き声にならずに、あるいは泣き声を抑えようとして、それがセキになってしまう--体は感情とは別な動きもしてしまう、ということを書いているのだろうか。
井坂の文体を「強靱」と感じたのは、何かを書こうとして、それを具体的には書かずに、それなのに何かを感じさせるようにことばが動いているからだろう。「意味」は井坂のなかにある。それを「ことばの肉体」のなかに閉じ込めたままにしているからだろう。「意味」が書かれていない分、「意味」を考えさせる--そこに一種の「強要」のようなものがあり、強い、という感じがあるのかもしれない。
一連目の最後、「時間や死の隠喩を」は倒置法の文体として読んだ。「時間や死の隠喩を/今までたびたび読んだ」ということなのだと思う。3行目の「話」を言いかえているとも言えるのだが、「時間や死の隠喩を」と叩ききって、「動詞」を読者に想像させる。どういう意味なのか考えるとき、どうしても「動詞」を動かさざるを得なくなる。その誘いが自然で、強い。自然と感じるのはことばにすでに「動詞」が含まれているからだ。
2連目の最後の行「生命の顕現はいたるところに」も「動詞」を補わないと、「意味」がわからない。「ある」という「動詞」をおぎなうと、なんとなく「意味」ができる。それが井坂の意図した意味であるかどうかはわからないが……。
そうやって「動詞」を補って読み進んだあとの3連目。
ここでは「動詞」そのものを補わなければ「文章」にならない(「意味」にならない)という行はない。「わたしは物体なのか?」は「と、考える(思う)」と補うこともできるが「?」が「疑問に思う」というような「動詞」を含んでいるので、そうする必要はないだろう。
そのかわり、ここでは読者はじぶんの体験(肉体の動き)を参加させなくてはならない。自分が泣いたときの体験、泣きたいのに泣き声が出ず、泣きたいけれど声を殺さなければならない、それが逆にセキとなって噴出して苦しくなった体験。そのときの肉体と感情の裏切り合いのようなものを動員しないといけない。
そういうものを動員したときに、ここに書いてあることが「誰かの死に出会った体験」として、読者のなかに甦る。肉体が覚えていることが、肉体のなかに甦る。
井坂は、そのときの「感情」を書かない。たが「肉体」の動き(動詞)を書き、「時間」を動かして見せる。「時間」を描いているとも言える。
「一個」は読んだはずだが、この詩は覚えていない。読み落としている。読んで感想を書いたかもしれないが、覚えていない。そういう詩がたくさん「年鑑」に載っている。少しずつ感想を書いてみる。
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井坂洋子「からだ」(初出「一個」4、13年11月)は「文体」ががっしりしている。悠然としている。強靱である。--何が書いてあるか、ということを感じる前に「文体」の強さを感じる。
乗り物がやってきて
私たちはつれていかれる
という話を今までたびたび読んだ
時間や死の隠喩を
生命はみな生きものの器を借り
食いつなぐために
あれこれ算段させる
生命の顕現はいたるところに
水滴は落下しかなくて
思いをこめて落ちるなんてこともない
涙が鼻筋をつたってあご先からしたたり落ちる
水滴よ
わたしは物体なのか?
ときどき体内から時間がそとに出たがって
喉奥の繊毛を逆撫で セキが止まらない
くるしいが
体はまったく容赦しない
何が書いてあるのだろう。具体的な手がかりはあるのか、ないのか。「死/時間/生命/涙」ということばをつなげて、私は、「わたし(井坂、と仮定しておく)」が誰かの死に出会ったのだろうかと想像した。人の死に出会い、死について思いを巡らしている。涙を流したが、その流した理由(ともに過ごした「時間」の思い出)がうまくことばにならず、ことばとしてまとまらず、ただセキになって体の外にあふれる。声を上げて泣きたいが、泣き声にならずに、あるいは泣き声を抑えようとして、それがセキになってしまう--体は感情とは別な動きもしてしまう、ということを書いているのだろうか。
井坂の文体を「強靱」と感じたのは、何かを書こうとして、それを具体的には書かずに、それなのに何かを感じさせるようにことばが動いているからだろう。「意味」は井坂のなかにある。それを「ことばの肉体」のなかに閉じ込めたままにしているからだろう。「意味」が書かれていない分、「意味」を考えさせる--そこに一種の「強要」のようなものがあり、強い、という感じがあるのかもしれない。
一連目の最後、「時間や死の隠喩を」は倒置法の文体として読んだ。「時間や死の隠喩を/今までたびたび読んだ」ということなのだと思う。3行目の「話」を言いかえているとも言えるのだが、「時間や死の隠喩を」と叩ききって、「動詞」を読者に想像させる。どういう意味なのか考えるとき、どうしても「動詞」を動かさざるを得なくなる。その誘いが自然で、強い。自然と感じるのはことばにすでに「動詞」が含まれているからだ。
2連目の最後の行「生命の顕現はいたるところに」も「動詞」を補わないと、「意味」がわからない。「ある」という「動詞」をおぎなうと、なんとなく「意味」ができる。それが井坂の意図した意味であるかどうかはわからないが……。
そうやって「動詞」を補って読み進んだあとの3連目。
ここでは「動詞」そのものを補わなければ「文章」にならない(「意味」にならない)という行はない。「わたしは物体なのか?」は「と、考える(思う)」と補うこともできるが「?」が「疑問に思う」というような「動詞」を含んでいるので、そうする必要はないだろう。
そのかわり、ここでは読者はじぶんの体験(肉体の動き)を参加させなくてはならない。自分が泣いたときの体験、泣きたいのに泣き声が出ず、泣きたいけれど声を殺さなければならない、それが逆にセキとなって噴出して苦しくなった体験。そのときの肉体と感情の裏切り合いのようなものを動員しないといけない。
そういうものを動員したときに、ここに書いてあることが「誰かの死に出会った体験」として、読者のなかに甦る。肉体が覚えていることが、肉体のなかに甦る。
井坂は、そのときの「感情」を書かない。たが「肉体」の動き(動詞)を書き、「時間」を動かして見せる。「時間」を描いているとも言える。
「一個」は読んだはずだが、この詩は覚えていない。読み落としている。読んで感想を書いたかもしれないが、覚えていない。そういう詩がたくさん「年鑑」に載っている。少しずつ感想を書いてみる。
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