詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「からだ」

2014-12-01 10:49:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
井坂洋子「からだ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 井坂洋子「からだ」(初出「一個」4、13年11月)は「文体」ががっしりしている。悠然としている。強靱である。--何が書いてあるか、ということを感じる前に「文体」の強さを感じる。

乗り物がやってきて
私たちはつれていかれる
という話を今までたびたび読んだ
時間や死の隠喩を

生命はみな生きものの器を借り
食いつなぐために
あれこれ算段させる
生命の顕現はいたるところに

水滴は落下しかなくて
思いをこめて落ちるなんてこともない
涙が鼻筋をつたってあご先からしたたり落ちる
水滴よ
わたしは物体なのか?
ときどき体内から時間がそとに出たがって
喉奥の繊毛を逆撫で セキが止まらない
くるしいが
体はまったく容赦しない

 何が書いてあるのだろう。具体的な手がかりはあるのか、ないのか。「死/時間/生命/涙」ということばをつなげて、私は、「わたし(井坂、と仮定しておく)」が誰かの死に出会ったのだろうかと想像した。人の死に出会い、死について思いを巡らしている。涙を流したが、その流した理由(ともに過ごした「時間」の思い出)がうまくことばにならず、ことばとしてまとまらず、ただセキになって体の外にあふれる。声を上げて泣きたいが、泣き声にならずに、あるいは泣き声を抑えようとして、それがセキになってしまう--体は感情とは別な動きもしてしまう、ということを書いているのだろうか。

 井坂の文体を「強靱」と感じたのは、何かを書こうとして、それを具体的には書かずに、それなのに何かを感じさせるようにことばが動いているからだろう。「意味」は井坂のなかにある。それを「ことばの肉体」のなかに閉じ込めたままにしているからだろう。「意味」が書かれていない分、「意味」を考えさせる--そこに一種の「強要」のようなものがあり、強い、という感じがあるのかもしれない。
 一連目の最後、「時間や死の隠喩を」は倒置法の文体として読んだ。「時間や死の隠喩を/今までたびたび読んだ」ということなのだと思う。3行目の「話」を言いかえているとも言えるのだが、「時間や死の隠喩を」と叩ききって、「動詞」を読者に想像させる。どういう意味なのか考えるとき、どうしても「動詞」を動かさざるを得なくなる。その誘いが自然で、強い。自然と感じるのはことばにすでに「動詞」が含まれているからだ。
 2連目の最後の行「生命の顕現はいたるところに」も「動詞」を補わないと、「意味」がわからない。「ある」という「動詞」をおぎなうと、なんとなく「意味」ができる。それが井坂の意図した意味であるかどうかはわからないが……。
 そうやって「動詞」を補って読み進んだあとの3連目。
 ここでは「動詞」そのものを補わなければ「文章」にならない(「意味」にならない)という行はない。「わたしは物体なのか?」は「と、考える(思う)」と補うこともできるが「?」が「疑問に思う」というような「動詞」を含んでいるので、そうする必要はないだろう。
 そのかわり、ここでは読者はじぶんの体験(肉体の動き)を参加させなくてはならない。自分が泣いたときの体験、泣きたいのに泣き声が出ず、泣きたいけれど声を殺さなければならない、それが逆にセキとなって噴出して苦しくなった体験。そのときの肉体と感情の裏切り合いのようなものを動員しないといけない。
 そういうものを動員したときに、ここに書いてあることが「誰かの死に出会った体験」として、読者のなかに甦る。肉体が覚えていることが、肉体のなかに甦る。
 井坂は、そのときの「感情」を書かない。たが「肉体」の動き(動詞)を書き、「時間」を動かして見せる。「時間」を描いているとも言える。

 「一個」は読んだはずだが、この詩は覚えていない。読み落としている。読んで感想を書いたかもしれないが、覚えていない。そういう詩がたくさん「年鑑」に載っている。少しずつ感想を書いてみる。

黒猫のひたい
井坂洋子
幻戯書房

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(24)

2014-12-01 09:56:16 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(24)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「diminuendo」--もうひとつ「音楽」がつづく。

音楽が曲の終りでディミヌエンドして
だんだん音がかすかになっていって
静けさに溶け入ってゆくときの
言葉がとうに尽きてしまった
絶え入るような世界の感触

私の耳で
タマシヒが
まどろんでいる

 「音楽/音」と「言葉」が交錯する。私は「言葉」と「音楽」を入れ換えて読んでしまう。そのまま入れ換えるわけにはいかないので少し余分なことばをつけくわえるのだが。

言葉が「物語/意味」の終りでディミヌエンドして
だんだん「意味」がかすかになっていって
静けさに溶け入ってゆくときの
音楽(曲)がとうに尽きてしまった
絶え入るような世界の感触

 詩(詩のなかで動く時間/ストーリー/物語)を書きながら、その最後で追いかけてきた「意味」がかすかになって(意味なんかなくてもいいという気持ちになって)、タマシヒが静けさのなかに溶け入ってゆく。それは聞いていた音楽(曲)が尽きてしまって(終わってしまって)、静寂(沈黙)のなかで、なお消えていく(絶え入るように消えていく)ときの世界の感触に似ている。
 こんなふうに書き直してしまうと、うるさくなってしまうのだけれど、何か交錯するなあ。谷川にとっては、音楽とことば(詩)は、どこかで重なっている。溶け合っている。それを強く感じる。

 二連目の三行は、そういう詩の「ディミヌエンド」。タマシヒはことばになることを止めて(語ることを止めて)、耳でまどろんでいる。
 このときの、「私の耳で」の「耳で」が、私にはとてもうれしい。
 とてもよくわかる。
 言いかえると、とても「誤読」したくなる。一連目の、ことばの入れ換えも「誤読」だけれど、それ以上に「誤読」したくなる。谷川が何を考えているかではなく、谷川の書いていることばを利用して自分の思っていることを書かずにはいられなくなる。
 私は魂を信じない。見たことがない。触ったことがない。けれど、この三行は、信じたい。信じてしまうなあ。そして、またしても、ちょっとことばの順序を入れ換える。

タマシヒで
私の耳が
まどろんでいる

 この場合の「タマシヒ」は「名づけられないもの」の代名詞。私は魂を信じていないので、それを名づけない。仮に「タマシヒ」ということばを借りて、その「名づけられないもの」を考える。
 その「名づけられないもの/その場所」で、「私の耳(肉体)」はまどろむ。
 「名づけられないもの」と「耳」という名前のある存在(手で触ることのできる肉体)が、現実と夢の垣根を見失って、溶け合っている。「ひとつ」になっている。区別できなくなっている。
 そういう「状態」を魂と呼ぶなら、それは信じたい。
 肉体(耳)が肉体であることを見失って、何かと溶け合っている。肉体以前に還っている。
 いま「還っている」という「動詞」をつかったが、そうなのだ、この「区別のない融合/未分節」の世界は、そこから何かが生まれてくるときの「未分節」ではなく、「分節」を終わったあと、その「分節」を消してしまう「未分節」である。
 ことばは「未分節」から生まれる。「未生のことば」は「混沌(何もかもが融合した無)」から「分節」をへて生まれてくる。生まれて、分節を繰り返し、「意味」をつくる。「意味」という「物語」になる。そして、それを語り終わったら、ことばはそこにとどまるのではなく、還っていくべきなのだ。「未分節」へ。「意味」のない世界、静寂へ、沈黙へ。
 そのなかで、夢がゆれる。まどろみが広がる。

 私は谷川のことばを強引に入れ換えて「誤読」をするのだが、この「誤読」の逆戻りの動きが、何となく「還っていく」という「動詞」にも似ているかもしれない。
 他人のことばを読む。読みながら、そのことばのなかへ自分の肉体を参加させる。そのとき、私の肉体は他人の肉体そのままの動きはとれない。どうしてこんなふうに動くのかな、と考えると、動きをいったん逆になぞってみる必要がある。逆になぞった方が納得できるときがある。拳を突き出すとき、ただ突き出す運動だけではうまくいかなくて、拳を引くという運動と組み合わせると「突き出し」がスムーズにいくような感じ、といえばいいのだろうか。逆を組み合わせることで、ほんとうになぞりたいものがくっきりとわかる。その動きのなかにあるものが納得できることがある。

 で、「タマシヒ」と「耳」が「一体」であるとわかった上で、私はさらに「誤読」を加速させる。谷川の詩のことばの順序にしたがって、考え直す。
 音楽が静かに終わって、ことばも静かに尽きてしまって……そのとき「私の耳で/タマシヒが/まどろんでいる」。耳とタマシヒが一体になるというのは、言いかえるとタマシイは耳にある、ということになる。「胸」とか「体の奥」ではなく、肉体が外に開かれた感覚器官である耳にあるということになる。
 タマシヒって、いつも耳にあるのだろうか。たまたま耳にあるのだろうか。たまたま、だと私は思う。タマシヒは、何かの都合にあわせて、肉体の様々な「部位」にあらわれる。様々な「部位」と一体になる。
 手であったり、目であったり、あるいは内臓であるかもしれない。私は、そんなふうに考えている。これはタマシヒだけではなく、こころも、思考も、それぞれの都合にあわせて、あらゆる肉体の部分になって動くというのが私の「一元論」。そこには「肉体」だけがある。「こころ/精神」というのは、ものごとを説明する(分節する)ための「方便」というのが、私の考え。
 で、言いたいことを言ってしまったので、もう一度、詩に戻ってみる。

 「私の耳で/タマシヒが/まどろんでいる」。
 なぜ、耳? 「音楽」が耳で聞くものだから? でも、「言葉(詩)」は? 耳で聞く? たとえば、この本の、この詩。ここに書かれていることばを私は「耳」では聞かない。目で読んでいる。それなのに、耳に納得している。それは、まあ、詩のはじまりが音楽という「耳」できくものからはじまっているから、必然なのだけれど。
 でも、そういう「必然」を書くときに、音楽と耳をもってくるところが谷川なのだと思う。谷川のことばの基本は音楽にある。音にある。音を離れて、耳を離れてしまっては、谷川には詩が存在しない。
 この短い三行は、谷川が「耳の詩人」である証拠と言えるだろう。


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憂鬱な男

2014-12-01 01:26:37 | 
憂鬱な男

憂鬱な男を描かなければならなくなって、
憂鬱な男が頭の中で何を考えているかを考えた。

りんごを剥くときは
包丁をまわすのではなく、りんごをまわすのだ。

左手にもっていた悲しみと、右手にもっていた怒りはどこへ行ったのか、
皿の上にとどきはじめた皮の形を憂鬱な男は頭のなかで思い出す。

最後までとぎれることもできずに剥けてしまった皮は
同心円をつくるのではなく、S字形になる。

想像は裏切られるためにある、

憂鬱な男は頭の中で憂鬱な男に剥かれるりんごの皮になって
憂鬱な男をことばにしている憂鬱な男を笑った。



*

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